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第70話
黙っているととても賢そうな桜井である。実際秀一もなんとなく桜井はなんでもできるイメージがあり、学生時代も優秀だったのだろうと思っていた。
が、蓋を開けてみると苦笑いを隠せない。
英語は初回の授業からげんなり、数学は算数から怪しい、化学や物理は授業を受けた記憶すらほとんどない。古文漢文も同様だという。
定期テストはハナから勉強する気などなく、追試の方が簡単で採点が甘いのを見越してあえて追試を受けて補習を免れていたとか。
「秀一は勉強出来そう。」
「いや、出来るってほどじゃないけど…中の上くらいだったかな?」
「十分じゃん!」
そりゃ下の下を這いつくばっていた奏真くんに比べれば、とは言わなかった。いや正しくは言えなかった。ニカッと笑った桜井が眩しくて。
はははと乾いた笑いはカランと響いたドアベルに掻き消された。
それからちらほらと店内の席が埋まり始め、秀一は何人かと会釈を交わした。
何度も来ているうちに常連客とも顔見知りになってしまっていたが、ここTräumereiは常連客ばかりのせいか客同士も顔見知りが多かった。そしてそんな会釈のやりとりが、秀一はTräumereiの常連に仲間入りできたことを実感できて嬉しいのだ。
ちょっとにやける顔を隠しきれないまま、桜井の背中を見つめる。
桜井がピアノの後ろに控える立派なオーディオを手慣れた様子で操作すると、これまで流れていた豊かなチェロの音色が止まって、静かなピアノ曲が流れ始めた。
「奏真くん、これなんて曲?」
「ベートーヴェンの悲愴ソナタの2楽章。」
「聴いたことある…気がする。」
「有名だからな。テレビとかでも結構流れてるし。水いる?」
「うん。」
これまで興味すらなかったクラシック音楽は、秀一にとって最も身近な音楽になった。
聴いたことのない曲に出会う度桜井に尋ねては話のタネにする。タイトルなんだか番号なんだかよくわからない曲名ばかりでなかなか覚えられないのだけど、作曲家の名前くらいは引き出しが増えてきた。
なるほどなるほどベートーヴェン。の、ソナタ。しか覚えられない。
俺の頭も大概ポンコツ、と思っていると、カウンターから戻ってきた桜井がピッチャーから小気味いい音を立てて水を注いでくれる。そして秀一の目の前に数枚のディスクを差し出した。
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