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第72話
「パソコンとかないの?」
その場に突っ伏して悲しみに暮れる秀一の元に、空のトレイを片手に桜井が戻ってくる。見られない、という現象が意外だったようで目を丸くしていた。
「会社に…」
「あーなるほど。プレイヤーとかも?」
「ない…」
音楽鑑賞なんて素敵な趣味を見つけたのは桜井に出会ってからのことで、それ以前は全くの無頓着。映画や特定の芸能人に興味があるわけでもなく、寝るためだけに帰るアパートにテレビが無くても困らなかった。テレビなんてここ数年見ていない。強いて言えば盆休みや年末年始に実家に帰った時にボケッと眺める程度。
「んー…」
Träumereiに通う前の休日の過ごし方は、寝溜め。秀一はそんな堕落しきっていた数ヶ月前までの自分を殴りたくなった。
「ごめん奏真くん、これ──」
「閉店後でよかったら、見て行く?」
「見て行きます!!!」
これ返すよ、と言いかけた秀一は、桜井の言葉を理解するよりも早く頷いた。
「オッケー。」
にっこり笑って手でオッケーのマークを作り、桜井はくるりと背を向けて去って行く。かわいい。
桜井がカウンターの中に入って何やら作業を始め、秀一が視界から消えたのを確認して、秀一は拳を握った。
(最っ高…!!!)
朝から桜井に会ってたくさん話し、その流れで昔の桜井の演奏を映像で見ることができるなんて。しかもしかも、実はまだ入ったことがないTräumereiの2階、桜井の居住スペースで。
どんな家なんだろう。店内と同じように木の家具で統一したレトロなインテリアで落ち着いた生活をしているんだろうか。それとも店内とは全く違うスタイリッシュな感じかもしれない。いやでも自分のためには料理をしないというし、もしかしたらシンプルに最低限のものだけに囲まれたちょっと生活感のない部屋かもしれない。どんなお風呂に入ったらあんないい匂いがするようになるんだろう。個人的にはベッドのシーツの色がとても気になる。早く拝みたい。生きててよかった。
あらぬ方向にまで妄想を膨らませていると、時が経つのはあっという間だった。
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