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第75話

ほんの数分で戻ってきた桜井が持ってきたのはオペラ『カルメン』のDVDだった。流石にテレビやCMで耳にする機会の多い曲ばかり。ご丁寧に字幕付きで、物語もしっかり把握できた。秀一はこのとき初めてカルメンとはヒロインの女性の名前であることを知ったのだった。 「カルメンってこんな話だったんだ…」 軽快で明るい曲が多いからてっきり明るい話なんだろうと思えばとんでもない。秀一は当初の「昔の桜井の演奏を拝む」という目的も忘れてすっかり見入ってしまい、ラストが近くなるにつれ顔を引きつらせ手に汗を握っていた。 女って怖い。ホセもエスカミーリョも一体どうしてこんな怖い女に惚れてしまったのか。歌手の鬼気迫る迫真の演技と歌に、終始ヒヤヒヤさせられる。 これハッピーエンドで終わるんだろうか。 手の中のビール缶は温いを通り越して生温かい。もう物語が終わってから飲み干せばいいや。 秀一がクライマックスに向けて身を乗り出した時。 こてん、と肩に一瞬重みが加わった。 「そッ…奏真くん!?寝てる!?」 「んあ、ごめん…」 「いやッ!いいんだけど!いいんだけど!」 赤い顔をした桜井はいかにも眠そうなとろとろした目を擦って軽く頭を振った。テーブルにはいつのまにか煎餅が置かれていた。横でボリボリ煎餅齧っていたんだろうか。全く気付かなかった。 「やー4時半起きで一人で働きっぱなしだからさ…このくらいになってくるとホント眠くて…」 「4時半…!」 「酒も入ってるといっつもこのソファで寝落ちしちゃうんだよなー。昔は3時間睡眠とかでも全然平気だったのに…年かな…」 口に手を当ててふあ、とあくびをした桜井はコンと小気味いい音を立てて空になったらしい缶をテーブルに置いた。こちらもいつのまにか2本目である。 桜井の眠気からか酔いからかとろんとした目がちらりと秀一の手の中のほとんど減っていないビール缶を見て、すぐに視線を画面に戻した。画面の中では物語が不穏な動きを見せている。昨今の映画やドラマのハッピーエンド至上主義に慣れきった秀一は気が気ではなかった。 やめろホセ、今すぐその場を去りカルメンなんか忘れて可愛い婚約者と幸せになるんだ!と叫び出しそうになると、またコテンと肩に重みがかかった。

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