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第89話
秀一は思わず声をかけるのを躊躇った。
不機嫌である。明らかに不機嫌である。そしてその原因が自分であることもわかりきっている。そりゃああんな場面で突然帰るなんて言われたら誰だって不愉快だろう。
ああどうして早く会いたいなんて思ったのだろう。こうなることは予想できたのに。
秀一はこの真夏にダラダラと冷や汗をかきながら、なんと声をかけたものかとただ口を開閉することしか出来ない。奏真はというと幾分表情は和らいだものの、目が合わないあたり気不味いと感じていることが伺える。
が、いつまでもこうしているわけにもいかない。秀一は意を決して口を開いた。
「そ、そうまく…」
「ね〜シュウくんちょっと!ねえ!電車の君とお知り合いなら紹介してよ〜!」
「もうほんと黙ってお願いヒメ…!」
そうだった、こいつのせいで気不味くても奏真に会いたかったんだった。
秀一はガックリと脱力して、ジロリと諸悪の根源を睨み付けた。そう元はと言えばこいつだ。半年前まで好きで好きで堪らなかったのに今は憎たらしくて堪らない。
ここはビシッと男気を見せる時、そう感じた秀一は大きく深呼吸すると未だ姫井に掴まれていた腕を振り払い、代わりにガシッと奏真の手を取った。
「ヒメ!俺は今この人と付き合ってるの!!望月さんはこの人の友達…友達?で俺とは関係ないから知らない!!わかったら帰るように!!」
言ってやった…!!
ふんすふんすと鼻息荒く顔に笑みを浮かべる秀一に、呆気にとられた奏真が一瞬遅れて頬を染める。それを白けた目で望月が一瞥してやれやれと溜息をついた。望月には姫井が何処の誰なのかわからないはずだし、恐らく全く話が見えていないだろうが、どうやら酷いとばっちりを受けていることは理解しているようだった。普段散々おもちゃにされているのだからこれくらい許して欲しい。
肝心の姫井はと言えば、大きな瞳をまあるくしてぽかんと秀一の顔を凝視すると、プッと小さく噴き出した。
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