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第90話
「やだなぁ〜シュウくんってば!相変わらず冗談がヘタ!」
あはは、と朗らかな笑い声をあげる姫井は心底楽しそうにバンバンと秀一の肩を叩いた。
「こんな美人さんがシュウくんを相手にするわけないじゃん〜!そりゃあ酷い振り方しちゃったしヨリを戻そうって言われて素直にハイって訳にはいかないのもわかるけどさ、もうちょっと上手く誤魔化しなよ!それに…」
チラリと姫井が視線を落とす。その先にあるのは、秀一の腕にはめられた時計。
「それにその時計、まだ使ってくれてるじゃん!本当は僕に未練があったんでしょ〜?」
プライベートでも仕事中でも常に腕にはめられているそれは、秀一が過去に姫井から貰ったものだ。一度Träumereiに忘れて、わざわざ取りに帰ったこともある。
秀一はひやりとした。
それを、今ここで、奏真の前で言うか?
その場の空気が凍る。それは言うまでもなく奏真の機嫌が急降下したからで、秀一は古いロボットのようにギギギとぎこちなく振り返った。そして絶句した。
眉間にしわを寄せるとか、目を釣り上げるとか、そういう明確に怒りの表情をしていてくれたほうがまだよかった。奏真は完全に表情を失い温度のない瞳で姫井を見ている。当の姫井だけが状況を察しておらずニコニコしていて、それがまた奏真の逆鱗に触れていることは明らかだった。
「…なるほど。」
低い低い声でボソッと呟いた奏真は、秀一に掴まれた手をするりと解いた。
そしてそのままくるりと背を向ける。秀一は慌てて呼び止めた。
「そ、奏真くん!」
「なに?」
「ちが、その…」
なんて言ったら、信じてもらえるだろう。
どうしたら話を聞いてもらえるだろう。
この大切な場面でしどろもどろしてしまう自分がただただ憎い。
秀一が口籠ったのを見て奏真は小さな溜息を一つ吐くと、望月の手を取って店のドアを開けた。
「…俺、店開けなきゃいけないから。」
「ちょ、奏ちゃんいいの?」
「忙しいから来るなら開店後にして。あと店先で騒ぐなよ。」
望月の心配を他所に奏真は強引に望月を連れて店に戻っていく。
カランといつもと変わらないドアベルの音が冷たく響き、静かに閉まったドアが無情にも奏真の姿を遮断した。
「…ヒメ、お前、ほんと…」
「ん?」
「…ばかやろお…」
力無い罵声は、姫井に少しのダメージも与えなかった。
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