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第106話

ピアノの、音…? ぼんやりとした意識の中、なんとか働いていた聴覚が捉えたキラキラ輝く美しい音。 ピアノの音であることは間違いないのだが、まるで少女が歌っているような、透明で伸びやかな音。心が浄化されるような穏やかで優しい音色は、どこかで覚えがある。 そうだ、初めてTräumereiに来た時。一瞬だけ聴いて、その一瞬で魅せられた奏真くんの音だ。 秀一は漸く瞼を持ち上げた。 見慣れない天井、真っ暗な部屋。隣に寝ていたはずの奏真の姿はない。しかし布団にはまだ微かに温もりが残っていた。 ごそごそと手探りで眼鏡を探し当てると、そーっと部屋を出て行く。ピアノの音はまだ止まない。光のような温かい旋律に影が指して、静かに涙をこぼすかのような物悲しい旋律に変わっていた。 リビングを通り抜けて、1階のカフェへの階段を忍び足で降りて行く。なんとなくだが、秀一が目を覚ましたと気付かれたら奏真はまた演奏をやめてしまう気がした。 だんだんと近くなる音を聴きながら、階段を降りてひょっこり顔を出す。大屋根を閉じたままのピアノの前に、奏真の姿はあった。 奏真は僅かに俯いて視線を鍵盤に落としている。遠目では表情はわからない。静かな物悲しい旋律は何度も何度も繰り返して、そして徐々に激しさを増していく。胸に突き刺さるその激情の渦が、奏真の叫びのようにも聴こえた。 何がそんなに悲しいの、と問いたくなるような。秀一は奏真が泣いているのではと危惧したが、洪水のように溢れる音の波にのまれその場を一歩も動けずにいた。 カフェカウンターの小さな電気だけがつけられた薄暗い店内に窓から差し込む月の光が奏真の姿を明るくする。 月明かりが奏真の髪をきらきら光らせて、どこか現実味に欠けた幻想的な光景だった。 奏真くんは、ピアノを弾いている時が一番綺麗だ。 ダァーン… 低い和音が鳴り響いた。曲が終わったのだと気付くのに少し時間がかかった。 秀一は夢でも見ているようなふわふわとした感覚に陥っていた。

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