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第107話

「ショパンのバラード4番。ショパンの中でも最高難易度を誇る名曲中の名曲…」 余韻に浸っていた秀一は静かな声にビクッと大袈裟に反応した。 「21の時、5年に一度しか開かれない世界最高峰のコンクールのために成田に向かう途中だった。居眠り運転に撥ねられて左腕に怪我して…」 奏真はそこでやっと顔を上げて秀一を見た。月の僅かな明かりで何とかわかる程度に奏真は曖昧に微笑んだ。 悲哀、諦観、悔恨、そんな感情を押し殺した微笑みに見えた。 「弾くことが出来るまでは回復したんだけど、長時間弾いていられない。…演奏家として俺はその時終わったんだ。とりあえず大学は復学して卒業したけど、先が見えなくて腐っていたら、見兼ねた祖父がこのカフェを継いでくれないかってね。それで資格取ってここ継いで、調理師免許も取ってガキの頃から知ってる常連さんに囲まれてそれなりに楽しくやってたけど…それでも時々俺何やってんだろって思ってたよ。」 そこで一度口を閉ざした奏真は、窓の外を見やった。 街灯も少ない裏路地は闇に包まれている。窓の外に見えるのは月と僅かな星、少し古びた街並み。けれどきっと、奏真の目には別の景色が写っているのだろう。 秀一は、別段輝かしい経歴があるわけではない。ごくごく普通の人生を歩んできた。秀一に若き日の奏真の絶望を計り知ることはできない。何もわかってやることが出来ず、上辺だけの薄っぺらい慰めの言葉をかけてやることしかできない。そしてそんな上辺だけの慰めなど、奏真は受け取ってくれないだろう。 かける言葉も見つからない秀一はその場に立ち尽くした。 「…でも。」 ガタンと鈍い音を立てて、奏真は立ち上がった。 「でも、継いで良かったよ。舞台の上で天狗になっていたら気付かないことがたくさんあった。」 一歩一歩ゆっくりと、奏真は秀一の方へと歩み寄ってくる。その声色は明るく、足取りは軽い。しかし僅かに俯いているせいで表情はわからない。奏真は秀一の目の前まで来て、漸く顔を上げた。

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