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第109話
「…ち、秀一。」
優しい声かけと温かい手がトントンと肩を叩く感触に、秀一はゆっくりと意識を取り戻した。まだ、瞼は持ち上がらない。眠い。
「…ん〜〜〜…」
「秀一、起きろ。今日仕事じゃないのか?」
「ん〜〜〜…」
仕事、しごと?
昨日ヒメを追い出して奏真くんと仲直りして、念願のベッドインを果たし真夜中に奏真くんのピアノを聴いて。そうだ、Träumereiに行ったんだから昨日は日曜日だ。ということは。
「…………うん。」
そうだった、今日は月曜日だ。
秀一は重だるい身体に鞭打ったが、ゴロンと寝返りを打つのが精一杯だった。
クス、と小さな笑い声が聞こえてきて、ふわりと頭を撫でる感触。
「…下で待ってるからな。」
あ、最高。
秀一は持ち上がらない瞼の裏に、聖母マリアの如く優しく微笑む奏真の幻影を見た。
───
「…はい、はい…申し訳ありませ、ゲホゲホッ!ゲホッ…あ、はい、明日には必ず…はい、しつれゲホゲホゲホッ!失礼します…」
パタンと会社用の携帯を閉じると、秀一は布団から這い出てぐーっと伸びをした。
開け放たれた窓から入る風に、薄い優しい色合いをしたグリーンのカーテンが踊る。遠くから聞こえる蝉の声も心地良い。秀一は大きく深呼吸をして体内に新鮮な空気を取り込むと、寝室を出て無人のリビングを素通りし、1階へ降りて行った。
ふんわり漂ってくるコーヒーの香り。以前は少しも惹かれなかった香りに心が躍る。
「奏真くん、おはよう。」
秀一の挨拶にゆっくりと振り返った奏真のは、ふわりと微笑んでおはようと返してくれた。
「今カフェオレ入れてるから。朝飯食ってく?間に合う?」
「あ、うん食べる…けど、休んじゃったから急がなくていいよ。ありがとう。」
「休んだ?」
奏真は珍しく素っ頓狂な声で驚きを露わにして、手を止めて再び振り返る。今度は形の良い目がまんまるだ。
「社畜には溜まりに溜まった有給休暇という武器があるんだよ…」
「…なるほど。」
奏真の笑顔が若干引き攣っているのは気のせいではないと思う。
秀一は奏真が作業をしているカウンターに一番近い席に腰掛け、漂うコーヒーの香りを堪能しながらなんとなく店内を眺める。
朝陽が降り注ぐ木目調で揃えられた調度品には温もりを感じ、真っ黒なグランドピアノに光が反射してキラキラと輝いて見えた。
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