114 / 163

第109話

「…ち、秀一。」 優しい声かけと温かい手がトントンと肩を叩く感触に、秀一はゆっくりと意識を取り戻した。まだ、瞼は持ち上がらない。眠い。 「…ん〜〜〜…」 「秀一、起きろ。今日仕事じゃないのか?」 「ん〜〜〜…」 仕事、しごと? 昨日ヒメを追い出して奏真くんと仲直りして、念願のベッドインを果たし真夜中に奏真くんのピアノを聴いて。そうだ、Träumereiに行ったんだから昨日は日曜日だ。ということは。 「…………うん。」 そうだった、今日は月曜日だ。 秀一は重だるい身体に鞭打ったが、ゴロンと寝返りを打つのが精一杯だった。 クス、と小さな笑い声が聞こえてきて、ふわりと頭を撫でる感触。 「…下で待ってるからな。」 あ、最高。 秀一は持ち上がらない瞼の裏に、聖母マリアの如く優しく微笑む奏真の幻影を見た。 ─── 「…はい、はい…申し訳ありませ、ゲホゲホッ!ゲホッ…あ、はい、明日には必ず…はい、しつれゲホゲホゲホッ!失礼します…」 パタンと会社用の携帯を閉じると、秀一は布団から這い出てぐーっと伸びをした。 開け放たれた窓から入る風に、薄い優しい色合いをしたグリーンのカーテンが踊る。遠くから聞こえる蝉の声も心地良い。秀一は大きく深呼吸をして体内に新鮮な空気を取り込むと、寝室を出て無人のリビングを素通りし、1階へ降りて行った。 ふんわり漂ってくるコーヒーの香り。以前は少しも惹かれなかった香りに心が躍る。 「奏真くん、おはよう。」 秀一の挨拶にゆっくりと振り返った奏真のは、ふわりと微笑んでおはようと返してくれた。 「今カフェオレ入れてるから。朝飯食ってく?間に合う?」 「あ、うん食べる…けど、休んじゃったから急がなくていいよ。ありがとう。」 「休んだ?」 奏真は珍しく素っ頓狂な声で驚きを露わにして、手を止めて再び振り返る。今度は形の良い目がまんまるだ。 「社畜には溜まりに溜まった有給休暇という武器があるんだよ…」 「…なるほど。」 奏真の笑顔が若干引き攣っているのは気のせいではないと思う。 秀一は奏真が作業をしているカウンターに一番近い席に腰掛け、漂うコーヒーの香りを堪能しながらなんとなく店内を眺める。 朝陽が降り注ぐ木目調で揃えられた調度品には温もりを感じ、真っ黒なグランドピアノに光が反射してキラキラと輝いて見えた。

ともだちにシェアしよう!