119 / 163
散髪攻防戦/2
「いや、切れよ。」
真剣にピアノ内部のハンマーを回していた望月はあっさり言い切った。
「切れねーよ…何かっていうと嬉しそうに髪の毛触ってニコニコしてんだよ…切れねーよ…」
「いや切れよ。正直ちょっと鬱陶しいよそれ。切れよ。」
「秀一のがっかりする顔が眼に浮かぶ…」
「うるせーな、あんまグズグズしてっとこの弦叩っ切るぞ。」
「やめろ。」
大きなため息を一つ吐いて、奏真はカウンター席に腰掛けた。
元々、奏真は見た目に然程気を使わない。職業柄不衛生に見えなければいいという程度だ。服はそれなりの品質のものを何年も着るし、髪の毛も邪魔になったら括る、あまりに伸びてきたらバッサリ切ってまた暫く放置がこれまでの奏真だ。
秀一と出会った頃、既にかなり長かった。付き合い始めてすぐの頃、秀一と会っていたら出かける用事があったり、タイミングが掴めず前髪だけ自分で簡単に整えた。
そして今、流石に邪魔なのだが。
まさかこんなに秀一が自分の髪を気にいるとは思いもしなかった奏真は、切るに切れなくなっていた。
「大体お前は極端なんだよ。そこそこに切りゃいいものをなんで思いっきり短髪にしたがるかね。」
「次行くのが当分先でいいから。」
「行けよ美容院くらい!美容院っつーかそこら辺の10分カットだろお前のことだから!」
図星を突かれた奏真はグッと黙るしかなく、その様子を見た望月はやれやれと肩を竦めて再びピアノに向かい、調律の仕上げにかかった。
ポーンと澄んだ音が静かな店内に響く。奏真よりも長く生きているグランドピアノは、また寿命を延ばした。
「はい、終わり。」
「ありがとう。悪いな忙しいのに突然。」
「やーこの前来た時ここの弦切れそうだなとは思ったんだけど。まさかこんなに早く切れるとは思わんかった。前より弾いてるだろ。」
「まぁ…そうだな。」
「秀一くんが聴きたがるから?いいねぇ愛だねぇ…」
わかりやすく茶化されて奏真は渋い顔をしたが、事実であったために反論もできない。いかにも面白くない、という顔をする奏真を楽しそうに眺めていた望月は、ピアノの目の前のソファ席に座ってごく自然に足を組んだ。
「じゃ、今日はベートーヴェンのバリエーションでも弾いてもらおうかな。」
「…いつも言うけどいいのか?これで。」
「いーのいーの。俺みたいな駆け出しの若造の調律で桜井 奏真が好きな曲弾いてくれるんだからこっちが得してるよ。」
望月の屈託のない笑顔を見ながら、奏真はピアノ椅子に腰掛けた。
つくづく思う。
ありがたい存在だと。
俺は今も桜井 奏真のファンだから、と言ってくれた望月がいたからあの時ピアノをやめずに済んだのだと、いつか本人に言うことはあるのだろうか。
きっとないな、と思いながら奏真は鍵盤に指を置いた。
ともだちにシェアしよう!