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Liebesträume/9

その日は思っていたよりも早くやってきた。 閉店直後のTräumereiに、食器の音が響く。湯が沸く音はどこか心を落ち着かせ、深く吸い込んだ息がコーヒーの芳醇な香りを胸に取り込み、途端に喉が渇いたような錯覚に陥った。 す 今はまだ静かに佇んでいる真っ黒いピアノを前に柔らかいソファに腰掛けて、秀一の方が緊張して居心地悪そうにそわそわしている。膝の上で組んだ指先を忙しなく動かしてみたり、無意味に座り直してみたり、キョロキョロと周りを見回して見れば、コーヒーサイフォンに向かう奏真と目が合ってにこりと微笑まれた。 奏真の微笑みは、ずるい。秀一は途端にでれっと表情から緊張感をなくし、ふっと力が抜けた。 奏真はトレイにカップを一つ乗せてこちらにカフェカウンターから出てくると、秀一の前にそのカップを出してくれた。 「あ、ありがと。」 ん、と簡単な返事をした奏真はカウンターに戻り、自分はピッチャーの中に残っていた水を適当に入れてグイッと飲み干した。そしてまたカウンターから出てくると、秀一の目の前に出番を待ち望んでいる大きなグランドピアノの蓋をあける。天井板を全開にするとそこはもうステージだ。 奏真の表情はいつも通りだ。 いつも通りだが、言葉数が少ないように感じる。緊張しているのか集中しているのか、その両方か。ピアノ椅子に腰かけた奏真の真剣な横顔を見て、秀一の方がゴクリと生唾を飲み込んだ。 奏真はピアノ椅子に腰掛け鍵盤に眼を落とす。一瞬瞳を閉じて、そしてポーンと最初の一音が鳴り響いた。 そこから先は、あっという間だった。 中低音の暖かな旋律は深く包み込むような愛の音色。それを彩るハーモニーは優しく穏やかで、歌曲を聴いているような、それでいて大きなキャンバスに描かれた絵画を観ているような。まるでヨーロッパの大ホールでオペラを鑑賞しているようなそんな錯覚に陥るのに、やはり聴こえてくるのはピアノの音に違いない。 愛しい人を思って優しい気持ちになる。切なくて苦しくて静かに涙する。時に心を焼き切るほどの熱い炎を燃やす。どれも紛れもなく愛の形で、きっと誰もが持つ一面。見事にそれを表現した曲は、奏真の手によって今秀一の心に響いてくる。 どうして、奏真の愛情を疑ったりしたんだろう。こんなにも雄弁に語ってくれているのに。 秀一は自分の頬を涙が伝っていくのに気付かないまま、瞬きすらも忘れて奏真の奏でる音の世界に浸り、出してくれたカフェオレのカップを握りしめて最後の音を聴いた。奏真の手がゆっくりと鍵盤から降ろされるのを、まるで映画のワンシーンを見るようにただただ魅入っていた。まるで奏真が創り出した世界に取り残されたように、指一本動かせないまま。 そこから帰ってきたのは、奏真がピアノ椅子から立ち上がったガタンという音が響いたからだった。 涙を流す秀一を見て奏真はギョッとしている。秀一は慌てて眼鏡を外して乱暴に涙を拭い、ズズッと鼻をすすった。 「えーと…カフェオレ、冷めたろ。」 「…うん。ごめん。」 「いーえ、真剣に聴いてくれたみたいでなにより。入れ直そうか?」 「ううん、大丈夫。」 秀一は慌ててカフェオレを口に含む。優しい甘さが口いっぱいに広がって、激情に呑まれた余韻を残す心がすぅっと静かになった。 肩を回しながら隣に腰かけた奏真は、特に感想を求めて来ない。求められても、気の利いた感想なんて伝えられる気がしない秀一はそれがとてもありがたかった。けれど、心の底から伝えたい一言は ある。 「奏真くん。」 「ん?」 「…ありがとう。」 不器用な感謝の言葉に、奏真は目をパチクリさせた後そっと微笑んだ。 「誕生日おめでとう。…遅くなってごめんな。」

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