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Liebesträume/7

二杯目のレモンサワーを飲み干した望月は再びレモンサワーを注文した。メニュー表を見ていたのはなんだったんだと思うが、よほどレモンサワーが好きなのだろうか。 奏真くんも割とぶっ飛んでるところあるけど、この人も大概変わってるよなぁと凡人の秀一は他人事(ひとごと)のように冷めた視線を送ってしまう。芸術家ってみんなこうなんだろうかと思案して、ふと思い出した。 そういえば、この人はピアノを弾くだけじゃなく教えたりもしているんだったっけ、と。 「望月さん。」 「なんでしょ。」 「愛の夢って曲、難しいですか?」 望月は意外そうにきょとんとした顔をしてみせた。奏真と付き合ってはいるけれど音楽なんて知らない秀一からそんな質問が来るとは思っていなかったらしい。 けれどそれもほんの一瞬で、その一瞬で何を悟ったのか、ニヤァと嫌な笑みを浮かべた。 「なになに、どうしたん急に?」 「いやイエスかノーだけで…」 「まさか弾いてみたいとか?今大人になってから趣味でピアノ始める人多いし。でもまぁいきなり愛の夢はちょっと難しいと思…」 「違いますよ!…奏真くんに、弾いてほしいって頼んだら固まっちゃって。」 その時ちょうど運ばれてきたレモンサワーを受け取るなら一口飲んでいるところだった望月は、吹き出しそうになるのをなんとか堪えた。が、凄い勢いでむせこんで、みるみる顔が真っ赤になっていった。 「うわっマジで!?奏真了承したん!?」 「一応…」 「マジかよ!すげーな秀一くん!そりゃゾンビにもなるわ!あ〜いいなぁ俺も奏真の愛の夢聴きてぇ〜…」 涙目になりながら望月はひとしきり笑い、改めてレモンサワーを煽ってつまみを口に放り込んだ。 もぐもぐ咀嚼しながら、ん〜、と言葉を選んでいる望月を見ると、やはり自分の無知がいたたまれなくて、秀一もつまみを頬張った。 「難しいか難しくないかと言われれば…奏真のアホみてーな技術(テクニック)を考えれば別に難しくない。」 「アホ…」 「ただまぁ、難しいというか…いやらしいかな?愛の夢は。」 今度はキョトンとするのは秀一の方だった。 「楽譜に書かれている通りに打鍵(だけん)…弾くだけならまぁいいんだけど。フレーズの作り方、ペダルの入れ方、緩急のつけ方…まぁ諸々?とにかくわからねーのよアレは。正解のない数式を延々と解かされる気分?客ウケはいいけど、ぶっちゃけ俺は人前で弾きたくない。」 首を振って拒絶の意思をより濃く示した望月は、まだ並々残っていたレモンサワーを一気に煽る。そして再びレモンサワーを注文した。レモンサワーばかり四杯目だ。 「あとアレじゃね?仕事してるし、腕もアレだし。思うようにじっくりピアノに向かえない中で曲を仕上げるというのは骨が折れるさ。しかも奏真が現役の頃はそれこそトイレと風呂と最低限の食事睡眠以外は弾いてただろうからな。」 秀一は押し黙るしかなかった。 奏真の表情が凍り付いた意味がやっとわかった。現役ピアニストも嫌がる難曲を何も知らずに投げつけてしまったのだ。仕事をしているのも左腕が悪いのも知っていたのに。 「ま、そんな顔しなさんな。奏真の腕は本物だから。プライドもあるだろうし、やると言ったらやるよ。」 朗らかに笑った望月に促され、秀一は温くなったカシスオレンジを飲み干した。時計を確認すると21時を回ったところだ。もう少し飲んでも問題ないだろう。秀一は店員を呼び止め、梅酒サワーを注文した。

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