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Only one/5

受け入れてくれると思いきや、この仕打ち。 姫井は涙目になりながら解放された手をさする。ものすごい力で抓られた手の甲は真っ赤になっていた。 「…酷い。」 「どっちがよ。男同士でも強姦罪って成立するんだぜ?」 「………酷い。」 そりゃ確かに最初に手を握った時にやんわりと拒絶されたような気も、しなくもない。とはいえキスまでさせておいて酷い。期待させておいて。 姫井が恨みがましく睨み付けると、わははと豪快な笑い声を上げて空になった皿と缶を下げた。 慣れている。 こうして迫られることに慣れている。 そりゃこんなにカッコいいんだもんな、と姫井は諦めの溜息をつくと、ドカッとソファに腰掛けて天井を仰いだ。目の前には真っ黒いグランドピアノが荘厳な雰囲気で佇んでいる。姫井はそれを見ながら唇を尖らせる。 「僕ピアノやってましたよ、小4まで。」 「ほー、お母さんにやらされてたクチだろ。」 「ご名答、クラスの奴らに女みたいって言われて嫌で嫌で仕方なかった。」 「女の子みたいな弾き方してたんじゃねーの?」 「なにそれ、ピアノなんて誰が弾いても同じ音でしょ。」 「お、それは喧嘩売ってるな?」 キッチンから戻ってきた望月はニヤリと笑う。顔は好みだが食えないこの笑顔がロクなことを考えていないことはこのほんの僅かな付き合いで既に気づいていた。 「だってそうじゃん、叩けば鳴るんだから。上手いか下手かの違いでしょ。」 不敵な笑みを崩さない望月になんだか子ども扱いされているような気がして腹が立ち、姫井は更に反論する。 望月は姫井の前を通り過ぎ、目の前のピアノに手を掛けた。 「んじゃ、一曲聴いていただこうかな。そこそこには上手いつもりよ。」 そう言ってピアノ椅子に腰掛けた望月は、ゆっくりと鍵盤に手を置く。既に空気が変わったことに、姫井は瞠目した。 ふわっとした、軽やかな動き。その先に何があるのかわからない、けれど感じるのは不安よりも期待。明るくて華のある序奏に直ぐに引き込まれた姫井は、その後響いた艶のある低音にハッとした。 記憶にあるピアノの音と全然違うということに、早くも気付かされて。 命の源である水、芽吹いた草木に降り注ぐ太陽、息づく虫や動物たち。 見知らぬ土地を冒険するような高揚が、その曲の節々に現れている。そしてその高揚を見事に表現する多彩な音。 足を組んで踏ん反り返っていた姫井はいつのまにか大きな目を更に大きくして、身を乗り出してその音を聴いていた。

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