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Only one/6

「知ってる?この曲。」 姫井は突如掛けられた声にハッとして、ふるふると首を振った。 「ドビュッシーの喜びの島っつーんだけど、嫁を捨てて他の女と駆け落ちした時に書かれたらしいよ。恋に溺れて脳内お花畑。君にぴったりだろ?」 「んなっ…!」 夢と現実を揺蕩うような不思議な気分に陥っていた姫井は、望月のその言葉に我を取り戻して激昂した。 顔を真っ赤にして怒りの形相を浮かべる姫井に、望月はまた豪快に笑って、ピアノを片付けた。 「俺恋愛は好きだけどセックスってあんまり好きじゃねーんだわ、君とはやっていけんと思う。」 「え…」 「もちろん健康な成人男性ですから性欲はありますけどね?機会さえあれば是非一発よろしくお願いしたい奴もいるし。けどまぁ…基本、右手でも問題ねーな。」 「勿体ない………」 「若い頃散々遊んだからかな、興味が失せちゃったんだよなー。シャワー浴びて前戯に本番、そのあとまたシャワー浴びて、まぁ大抵はピロートークがあるだろ?時間勿体ねぇじゃん、しかも身体だりーし。俺はその時間ピアノ弾きたい。」 「嘘でしょ………」 枯れてる。 率直に姫井はそんな失礼な感想を抱き、ガックリと肩を落とした。 そんなことってあるだろうか。性欲といえば食欲睡眠欲と並ぶ人間の三大欲求の一つだというのに、それよりピアノを弾いていたいなんて、そんなことって。しかもこんなイケメンが。自分を含め何人の男女が落胆するだろう。 「一晩セックスするくらいなら一晩音に溺れたい。つーわけで…」 さも当然のように高々と語りながら、望月は再びキッチンに舞い戻る。そして両手に酒とつまみを抱えて戻ってくると、姫井の目の前のローテーブルにドサっとそれを広げてニヤリと笑った。 「宿代として一晩付き合ってよ。俺君のその猫っかぶりで脳内お花畑なおめでたい所は気に入ってるんだわ。」 「お、おめでたい!?」 「とりあえず飲め飲め、そして俺の話とピアノを聴け。寝たら叩き起こす。」 「ちょ、なんで!?意味わかんない一人で弾けよ!!」 「はぁ〜?今思いっきり聴き入ってたくせによく言うぜ。」 「聴き入ってない!!」 「酒とピアノと取り留めのない無駄話…最高の贅沢だろ?ほらほら、俺たちの出会いに乾杯!」 強引に酒を握らせた望月はこれまたら強引に自分の持つ缶とコンとぶつけ合い、なんとも一方的な乾杯でグイーッと酒を煽る。見事な一気飲みをしても顔色ひとつ変えないところを見ると、酒には強そうだ。 嫌な予感がしてひくりと頬が引きつる。その予感は見事的中し、姫井は本当に夜が明けるまで望月の取り留めのない無駄話に付き合わされ、寝ようものなら本当に叩き起こされ、安酒と望月の繊細な音色に酔わされた。

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