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Only One/8

部署を異動して数ヶ月、ようやく慣れ始めた矢先、小さなミスをやらかして怒られるというのはよくある話だ。だから慣れた頃が一番危ないというのだとこっぴどく叱られた姫井は上司の脂ぎった汚い怒鳴り顔を思い出して、大きなため息をついて慣れない帰路を急ぐ。 成り行きなのか図られたのか、とにかく望月の部屋に転がり込んで早1ヶ月。毎晩酒とくだらないおしゃべりに無理やり付き合わされるのではいう懸念に反して、姫井は快適な生活を送っていた。 というのも、望月は家にいる時は文字通りずっとピアノに向かっている。 そしてピアノに向かっている時の望月にはちょっと近寄り難い。ひたすら弾いているときはいい、真剣な横顔に好きなだけ見惚れていられる。だが時々ある、ピアノに突っ伏して何かをぶつぶつ呟いたり天を仰いだまま一向に動かないときは本当に怖い。昨夜は壊れたレコードのように同じフレーズを延々と弾いていたかと思えば突然立ち上がって、寝る!と叫んでそのまま寝室に消えた。 そんな様子なので、同じ部屋に住んでいながら別々に生活しているようなものだった。 挨拶程度の会話、食事は別。食事の用意も片付けも、風呂や洗濯に至るまで勝手に使わせてもらっているので、一人暮らしと違うことといえば好みドストライクのイケメンが結構な頻度で視界に入るというだけでただの目の保養。その奇怪な行動もつまらない日常のちょっとした面白味というものだ。 思いもよらないところから始まった同居生活は燃えるような恋に発展することはなかったが、家の中に響く美しいピアノの音色も相まって穏やかで心休まるものになりつつあった。 さて今夜の様子はどうだろう。 姫井はなるべく静かにドアを開けた。無音だ。姫井は僅かに首を傾げた。 防音工事は済ませてあるというこの部屋、ピアノの音は外には漏れない。が、室内の廊下であれば例えリビングに通じるドアが閉めてあっても微かな音が聞こえてくる。 いないのだろうか。 そう思いながらリビングのドアを開けると、普段殆ど使われていないテレビの前、地べたにあぐらをかいて座り込んだ望月は非常に難しい顔をしたまま「おかえり」と低く唸った。

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