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第一章 -6

 長い夜が明け朝が来た。  祐貴は一晩中寝て起きてを繰り返した。深く眠れることなどなかった。昨夜のあれきり、一度も誰も訪れていない。  夜半には祐貴は尿意に見舞われた。どうしようもなくなって、勇気をだして戸を叩き人を呼ぼうとしたが誰も来なかった。そして、たらいを見てあの若い男の行動を思い出した。あれは、このたらいをトイレ代わりにしろと言っていたのだと思いいたった。  背に腹は代えられず、結局祐貴はそこで用を足した。たらいは部屋の隅に押しやった。  悔しくて恥ずかしくて、祐貴は泣いた。寝ている時以外はずっと泣いていたかもしれない。そのせいで、酷く喉が渇き呼吸が少し苦しい。  光が満ちてきた室内に、祐貴は水の椀を見つけた。あの男が置いてそのままだったので、水はまだたっぷり入っている。祐貴は這ってそれに近づいた。  縛られ続けた両手は痺れて使い辛く、仕方なくうつ伏せのまま、椀の中の水を犬のように舐めた。温い水は乾いた口内にあっという間に染み込んで、ちびちびと舐めるのがひどくもどかしい。余計に乾きが強くなっていく気がする。 「っあ、」  顎が当たってしまい、カラン、と椀が倒れる。水は全て床に投げ出され、木目に飲み込まれていく。祐貴は慌てて、床に舌を這わせた。乾きを癒したくて無意識に体がそう動いてしまったのだ。  ざらりとした硬い感触、土のような味がする。これじゃあ本当に犬と同じだ。体の芯に鈍い痛みを感じた。  祐貴は仰向けに転がった。理性を総動員させて、乾きを堪える。我慢できると自分に言い聞かせた。  あいつらは、祐貴から人間としてのプライドをどんどん奪っていく。  きっと自分はこのままここで惨めに朽ちてしまうのだ。誰も助けてくれない。後はもう、死ぬだけだ。飢えて死ぬのか、殺されるのか。  祐貴は生まれて初めて、死を意識した。日本という平和な国に生まれ、何一つ不自由な思いをすることなくこれまできたのだ。  今までの自分が甘いことはわかるが、死が怖くて仕方なかった。それを思うと帰りたいという気持ちがいっそう強まっていく。ここから逃げ出して、帰りたい。  そうだ、帰ろう。帰るために、もがいてみよう。そう祐貴は決心した。まずはもう泣かないように、顔に力を込めた。すっかり萎えきっていた気持ちが奮い立つ。  一か八か、扉を破って逃げ出してみよう。幸い、両足はもう縛られていないのだ。何をしてでも、逃げだしてやる。  祐貴はのそりと立ち上がると、周りを見た。何か使えそうなものはと物色し、三十センチくらいの大きさの彫像をどうにか手に取る。人型のそれはずっしり重く、白い石でできている。  力が入りづらいが、両手で包むように持ち直すと、唯一の出入口に向かった。  どのような鍵が使われているかは分からないが、祐貴は彫像をふりあげ、思い切りドアノブに打ちつけた。  ゴンッという鈍い音とともに、祐貴の両手にびりびりと衝撃が走った。彫刻を取り落としそうになるのをなんとか耐える。ひとまずドアを見ると、なんの破損もない。見た目以上に頑丈のようだ。 「っ!くっ!」  祐貴は無心でひたすら彫像を振りおろし続けた。ゴンゴンという音は次第に大きくなり、その分祐貴にくる反動も大きいが、やっと少しだけドアノブが曲がってきた。 『なんだ、うるさいな』  人の声が聞こえた。それと共に板を踏むような音。誰かがこの部屋に近づいている。  祐貴はとっさにドアノブを打つのをやめた。しかし彫像は抱えたまま、入口の脇の壁に沿うようにぴたりと立った。足音から、近づいているのは一人だと感じた。  人が入ってくる。よく考えればそちらの方が好都合だと祐貴は思った。あちらから開けてもらったところを出ていけばいい。  武器だって、ある。意表を突けば一人くらいならきっと何とかなる。  祐貴は彫像をぐっと握りしめた。ジワリと掌に汗が滲む。暴力には慣れてない。相手を傷つける意図をもって攻撃したことなど、ほとんどないのだ。  しかし、やらねば。祐貴は自分に言い聞かせた。緊張に呼吸が速くなっていく。  ガチャリ、鍵が回る音がした。祐貴はごくりと唾を飲み込んだ。  そして、扉が開く。 「――――ッ!!」  入ってきたのが誰かなんて判断はできなかった。祐貴はぎゅっと目をつぶり、自分より頭一つ分高い相手のそこに、彫像を振りかぶった。  しかし、衝撃を受けたのは祐貴の背中だった。 「――ぅっ!?」  息が詰まるような衝撃に、祐貴は混乱する。何が起こったのか分からない。  次に、腹の上にドスンと重みが落ちてきて、祐貴は噎せた。ものすごく痛かった。痛みで生理的な涙が滲む。気づけば祐貴は仰向けに倒れ、その腹の上に白い彫像があった。涙の膜がかかった視界に、祐貴を見下ろすスキンヘッドの男がぼんやりと映る。 『威勢がいいな。これがヴェダのお気に入りか』  男は初めてみる顔だった。しかしその服装から、男があの二人組と、若い男の仲間だということは分かる。年はあの三人よりも上だろう、とても理性的に見えた。一番まともそうな雰囲気を持ち、落ち着いている。無表情でじっと祐貴を見ていた。 「…はっ、…はっ」  祐貴は大きく息を吸いながら、自分の身に起きたことをやっと理解した。  男に攻撃するより先に、祐貴がやられたのだ。たぶん、足払いでもされたのか。背中から倒れた祐貴の腹の上に手から零れた彫像が落ちてきたのだ。  隙を突いたはずなのに。悔しさが祐貴の胸に募る。 『ん?…お前それ、エラーが盗ってきた石像…欠けてる。なんてこった。ヴェダの予約品じゃなきゃ殺されてるぞ』  男がしゃがんで彫像を拾い上げた。くるくるとそれを眺め、顔を渋める。 『参った。これ以上、物壊されちゃ商売上がったりだ。ちょっと早いが移動するか』  石像を床に置いた男はいきなり祐貴を抱え上げた。 「ぅあ…っ!」  米俵のように担がれて、祐貴はうめき声しか上げられなかった。痛いのだ。もしかしたら、先ほどの衝撃で肋骨にひびでも入ったのかもしれない。焼けるように熱く、じんじんとした痛みが神経を苛む。  男は祐貴を担いだまま、部屋の外へと出た。器用に扉に鍵をかけ、歩き出す。  やっと部屋の外に出れたというのに、祐貴はそれどころではなかった。男が歩くたび、その僅かな振動でもズキンズキンと刺すように痛みが広がっていく。  ぐっと下唇を噛んで痛みに耐えていると、男は外へと出た。庭のような場所で、木と背の低い石の塀が目につく。男はそこで祐貴を下ろした。  ひやりとした床にびっくりして振り返ってみると、そこは黒々と光る鉄板の上、そして祐貴の周りをぐるりと囲うように鉄の柵がある。鉄製の檻だ。その次の瞬間、ガシャンと音が響いた。 「…!」  縛られていた手に、手錠のようなものが填められた。腕時計に当たってガチガチと音が鳴る。手錠よりもずっとがっしりとしていて、両手の間は重たい鎖でつながれている。鎖のちょうど真ん中に文字のような記号が刻まれた四角いプレートが下がっていた。 『すぐ移動するからな』  言いながら、男は手錠の隙間から今まで拘束していた紐を抜き取っていく。 「な、なんだよ、これ…外せ!」  怒鳴っても男は聞かず、今度は布を出してそれで猿轡を噛ませ、檻の扉を閉めた。ガチャンと重い錠がおちる音が響いた。  檻の中は狭く、祐貴が座って入って身動きがとれないほどだ。それでもと、祐貴は唸りながら唯一拘束されていない脚を懸命にバタつかせたが、肋骨がずきんと痛むだけで何の効果もなかった。  一仕事終えたとばかりに男が手を叩いたとき、建物の中から――たぶん、祐貴が出てきたところだ――男たちが数名出てきた。  四名いたが全て見たことがない。男たちは人数が多い組織なのだろう。その中で一番若い男がスキンヘッドに駆け寄ってきた。 『ファイエット、早いな!もう運ぶのか?昼からだろ?』 『ちょっと騒がしかったからな。先にこれだけ運んでおく』  二人は数回言葉を交わし、若い男がしゃがみこんで祐貴をまじまじと見てきた。若いというより幼いと言った方が正しいかもしれない。黄色の立てた髪がひよこみたいだった。好奇心旺盛な瞳で顔を覗きこまれる。  残りの三人も祐貴を囲うようにしゃがみこみ、まじまじと観察してくる。複数の視線に見世物のように晒され、祐貴は恐怖よりも嫌悪で回りを睨みつけたが、相手は揺るがなかった。 『頭はこんな小僧がいいわけか?意外だな。女もより取り見取りだろうに』 『瞳が気に入ったとか言ってたな』 『ほんとだ。めっずらしぃ色。どこの国だ?顔もなんかちょっと違うな』 『お前ら、それくらいにしておけ。運ぶから手伝え、エラー』 『おう!』  ひよこ頭が元気よく立ちあがったかと思うと、檻の周りに布が被せられた。光は僅かに入るので視界は一応あるが、周りの景色は一切見えなくなった。数拍ののち、檻が動き出した。揺れる体を支えるため、格子にしがみつく。  どこかに運ばれるのだ。  そこできっと殺される。その前に何とかして逃げなければならないと考えた祐貴は、一瞬の隙も逃すまいと周りの音に神経をとがらせた。  がたがたと大きな揺れが続く。やがて辺りは喧騒に包まれた。たくさんの人の話し声が交錯する中を進んでいく。ざわつきの中に祐貴が理解できる言語はない。  喧騒はしばらく続き、揺れもずっと終わらない。そのまま三十分くらいが過ぎ、肋骨の痛みもあり意識が散漫になっていったころ、やっとぴたりと動きが止まった。喧騒もまだ続いているが、少しボリュームが下がっている。  あのスキンヘッドの男が話している声が聞こえる。もう一方は聞いたことのない声だ。あのひよこ頭ではなさそうだ。そう考えていると布が剥がされた。  綺麗な顔の男が目の前にいた。しゃがみこんで祐貴を見つめる瞳の色は、突き抜けるような青で、祐貴は面食らった。明らかに今まで遭遇した男たちとは違った。  流れるような金髪を後ろで一つにまとめ、長い前髪をサイドに流していて気品が感じられた。服装も、ぴったりとした黒いズボンを履き、そろいの黒いジャケットの下にフリルシャツを着てリボンタイを付けている。端正な顔も相まって、祐貴には男がおとぎ話から抜け出てきた王子のように見えた。 『なぁんだ、雄か…なんか弱ってるな』  しかし、祐貴を見た金髪の男は上品そうな顔をぐしゃりと歪め、思い切り舌打ちした。仰々しく両手を掲げ、後ろに立つスキンヘッドの男を振り返った。 『しかも異邦人だろこれは。若い女じゃないと売れ残ると思うけど。それともなんだ?床上手なのか?』 『たぶん上流育ちだ。傷一つないし歯も綺麗にそろってる』 『ふぅん。そりゃあ素晴らしい』  男はもう一度祐貴をじっくり眺め、立ち上がった。そしてスキンヘッドと向かい合う。 『いくらで?』 『十万セルから始めろ』 『十万だと?馬鹿言うな』 『買い手はついてるから大丈夫だ』  話し出した男たちの声を聞き流しながら、祐貴はこっそりと周りを見た。ここがどこなのか分からないと逃げようもない。  しかし次の瞬間、祐貴の頭は思考を停止した。そこは大きな天幕の中のようで、下は土が剥き出しの地面だった。そのなかに、祐貴が入っているような鉄檻がずらりと並んでいた。ぱっと確認しただけでも十以上はある。そしてその一つ一つには、祐貴と同じような服を着た――あるいは何も着ていない裸の人間が閉じ込められている。皆同様に鎖の手錠を填められていて、大人しくしている。檻に入っていない人間は、会話している二人だけだ。ひよこ頭もいない。  騒がしい喧騒は外のようで、これだけの人間がいるのに部屋の中はいやな静謐さが漂っていた。 『へぇ?誰だ?』 『ヴェダ』 『は?ならなんで競りに出すんだ?馬鹿か?』 『そいつはマルトたちがウチの商品として盗ってきたものだからな』 『ふーん、やっぱり馬鹿だな。なら二十から始めようか。あいつなら簡単に払えるだろう』 『相変わらずがめつい奴だ』 『ふふ…それにしても面白い。ヴェダがねぇ…』 『そういうわけで味見も禁止だ』 『もうすぐカーリス伯が下見に来るぞ』 『あの悪食か…』 『ま、あの人は幼女が好きだから、こいつには見向きもしないだろうけど』 『ならいい。他の荷は午後から運び込むからな』 『せいぜいお高いものを頼むぜ』  金髪の男がジャケットの懐から紙束を取り出しスキンヘッドの男に渡した。受け取った方はそれを大雑把に見て確認すると、自分の懐へとしまい込む。  祐貴からはちらりとしか見えなかったが、それは紙幣のように見えた。  スキンヘッドはもう一言も発しないまま、天蓋から出ていってしまった。祐貴は自分が売られたのだとやっと理解した。ここにいる他の人たちも全て売られてきた人間なのだ。  奴隷にされるのだろうか。でも奴隷とはどういうものだろう。食事も与えられず重労働をさせられるのだろうか。  考えているうちに、男が出て行ったところから新たに人がやってきた。  小太りの、年配の男だ。薄くなった髪は白いが、顔はギラギラとしていて衰えは感じられない。金髪の男と似た様相をしていて、ジャケットにフリルシャツを着ていた。 『これはこれは!いらっしゃいませ、カーリス伯。お早いですね』  すぐに金髪の男が反応した。両手を広げて笑顔で老体を歓迎し、中へと招き入れる。 『良いものは入荷できたか?』 『はい、とびきり若いのが一人。ごらんください、あちらですよ』  二人は並んで奥の方へと進んでいった。祐貴はそれをじっと観察した。  天蓋の中は少しだけ暗く、遠くの二人が何をしているのかはよくは見えなかった。二人はとある檻の前に立ち、なにやら話し込んでいる。  ややあって、かすかに悲鳴のようなものが聞こえた。よくよく目を凝らすと檻の中に入っていたのであろう少女が、外に出されていた。少女はまだ幼かった。一糸纏わぬ体には手錠だけが鈍く光り、何の抵抗もできないまま無理やり体を開かされている。老人の手が無遠慮にその体を撫でまわしていく。 「……っ」  吐き気がして、祐貴は目を逸らした。  重労働ならまだいい。祐貴は、あの盗賊の男どもに襲われたことを思い出した。自分もああいった対象にされる可能性はあるのだ。  顔を逸らし目をつぶっていても、ときおり少女のすすり泣く声が聞こえてくる。 『これは?』  しばらくして急に間近から声がして、祐貴は体を震わせた。 「……!」  顔を上げると、遠くにいたはずの老人と男が、祐貴の檻の前に立っていた。老人の方が祐貴を指差し、隣に立つ男に何か告げている。 『…肌がきれいだ。これを見せてくれ』 『しかし、カーリス伯。これは男ですし、年もいってますが』 『かまわん』  金髪の男が、祐貴の檻の前にしゃがみこみ、渋い顔をしながら鍵を開いた。  チャンスだと祐貴は思った。こいつらを突き飛ばして逃げればいい。 『これ、希望者がいるのでほどほどにお願いしますよ。下見もなしの約束だったので』 『ほう』  男が立ちあがると、代わりに老人がしゃがみこんできた。ぎらぎらとした好色そうな瞳に、逃げようとした体が竦む。老人の手が伸び、祐貴の二の腕に触れた。ぞわりと鳥肌が立つ。 『おお!やはり、最高だ!このハリ、なめらかさ、素晴らしい!』  老人は興奮したように声を荒げ、祐貴を引っ張った。予想以上に力強く、祐貴は檻から出て地面へ引きずり倒された。 「いっ!」 『カーリス伯!予約品なんだから丁寧に扱って下さいよ!』 『これはいい!さっきの子供よりこちらの方が素晴らしい!これは私が競り落とすぞ!』  老人は倒れた祐貴の上からのしかかってきた。いやに息荒く、祐貴の猿轡を外すと、血走った眼で祐貴の顔を見つめている。そのさらに上から、金髪の男が呆れた顔で覗きこんでいた。 『ええ~…まあ、私としては誰が買おうと高く売れればそれでいいですけど…』  男は頭をかいてため息をつき、踵を返してどこかへ行った。 「はなせ!」 『なんだ、異国の者か?ん?』  老人が脂ぎった顔を近づけてきて、祐貴は顔を逸らした。すると目に映ったものは、檻にとらわれた人だ。うつろな目をしてじっと祐貴を見ている。 『熱があるのか?体が熱いな…』 「や、やめろ…!触るな、いや!やめろっ!!」  老人の手が服の中に侵入してきて、祐貴は渾身の力で老人を押しのけた。振り上げた腕の手錠でしたたかに腹を打たれ、老人は祐貴の上から転がり落ち地面に転がった。 『ぐっ…』 『カーリス伯!』  祐貴は急いで立ち上がった。男たちが出入りしていたところへと駆け出す。背後で男たちが叫んでいた。 『マーダ!』  老人の声が一際響いた時、祐貴の行く手を阻むように大きな犬が現れた。城で見たあの不思議な獣の類だ。 『カーリス伯!ここは街中です、召喚獣は騒ぎになる!』 『天蓋の中だからいいだろう!マーダ、そいつを捕えろ!』  ぐあっと口が開かれ、走る祐貴を待ち構えている。怖かったが、出入り口はそこだけのようだった。 「どけ!どけよっ!」  祐貴が走るのをやめないまま怒鳴ると、予想外のことが起きた。  獣が、素直にその場を飛びのいたのだ。不思議でたまらなかったが、立ち止まってはいられない。祐貴はそのまま獣の脇を抜け、天蓋の布をくぐり外へと飛び出した。  外に出たとたん、一気に喧騒に包まれた。そこは市場のような場所だった。大勢の人間が行き交っている。野菜や果物、鶏などが並び売り買いされていた。 『待て!』  金髪の男が天蓋から出てきた。祐貴は迷わず人の波に飛び込んだ。人と人との間を縫ってできるだけ早く進む。どちらに行けばいいか分からないが、とりあえずあの天蓋から離れなければと思った。周りの人間たちは怪訝な顔で祐貴を見る。しかし、幸運なことに誰も祐貴を捕えようとはしなかった。  暫く人ごみの中を進み、それから横に立ち並ぶ建物の狭間に入った。細いそこをずっとまっすぐ進んで抜けると、人通りのない大きな道に出た。民家と思われる家々が並び、脇に大きな川が流れている。  とりあえず、金髪の男はもう追ってきていないようだ。祐貴は大きく息を吐き、建物の陰に腰を下ろした。足の裏がすごく痛かった。たぶん、血が出ているだろう。肋の痛みも先ほどよりも強くなっていた。  上がった息を整えながら、これからどこへ行こうかと考えた時、誰もいなかった道が急に騒がしくなった。 『いた、あそこだ!』  見れば、川の向こう岸にいる数人の男たちが祐貴を指している。その中のひとりには見覚えがあった。ひよこ頭のあいつだ。  祐貴は立ち上がり、再び建物の間に入って市場に行こうとした。しかし、細い道に入ろうとした瞬間、そこから出てきた人とぶつかった。 「っ!」 『あっ、ごめんなさい!』  祐貴は尻もちをつき、相手はしっかり立って心配そうな顔で祐貴を見ている。 『大丈夫かしら?』  相手は祐貴と同じくらいの若い女だった。赤い髪を頭上にまとめ、何かの草がたくさん入ったかごを抱えていた。 『あなた、すごい汗ね?顔も真っ赤だし…あら、それ…もしかして…』  女の視線が、祐貴の手元で止まった。軽く目を瞠り、それから祐貴に向かって手を差し出した。 『逃げているのね?かくまってあげるわ、おいで』  言いながら、女の手が祐貴の手を掴んだ。軽く引っ張られ、祐貴は慌ててその手を振り払った。  どうやら祐貴が売られた人間――あるいは奴隷であることが分かったようだ。捕まるわけにはいかない。振り払われた女は、驚いた顔をしていた。それがどういう意味なのか考える間もなく、祐貴は再び方向を変え、走り出した。 『待って、どこへ行くの?』  ひよこ頭たちはまだこっちの岸には来ていない。川に沿って祐貴は走りだした。 『そっちはだめよ…!』  女の声が背中から聞こえたが、祐貴は無視して駆け出した。  少しもせず息が上がっていく。汗がこめかみを伝い、パタパタと垂れて地面にしみを作っていく。祐貴の脚はだんだん言うことをきかなくなっていった。腕が振れないのでもともとのスピードも遅いのに、さらに足がもつれるように、だんだんいうことをきかなくなっていく。それにつれて、後ろから聞こえる音が大きくなっていった。  男たちはもうこちらの岸に来ていて、祐貴からの距離はもう数十メートルしかない。  それでも祐貴は懸命に脚を動かした。しかし、数秒後には立ち止まった。いや、立ち止まらざるを得なかった。  石造りの背の高い建物が川の方へ突き出るように立っていて、道はそこで途絶えていた。 「くそっ…!」  左は祐貴の背の二倍はある塀、両手が不自由な今、登れる自信はない。右は大きな川、水嵩は高く流れもすごく速そうだ。泳いで向こう岸に渡るのも厳しい。 『やっと追い付いた~!参ったぜ』  振り返ると、息を乱した男たちが三人いた。ひよこ頭たちだ。また捕まってしまう。  捕まれば、またあんな行為を強要される。しかも、逃げだしたのだ。それだけでは済まないかもしれない。  絶対に、捕まるのだけは嫌だ。  祐貴は意を決し、ごくりと唾を飲んだ。 『手間掛けさせやがって』  男たちの一人が手を伸ばしてきた。祐貴はその手を避け―― 「―――っ」 『おいっ!』 『嘘だろっ!』  ばしゃあん、と水柱があがり、水滴が太陽の光を浴び煌めいた。  川は祐貴の想像よりはるかに深く、水は冷たく、流れは速い。水面に顔を上げようとしたが、流れに翻弄されうまく動けない。手錠が重しになり体はどんどんと沈んでいこうとする。  今自分がどうなっているかもわからない。  なぜ、こんな目にあわなければいけないのだろう。  あの図書館での声を無視すれば、こんなことにはならなかったはずだ。あの祐貴を呼んだ声は、誰のものだったのだろうか。  死ぬのは嫌だ。  薄れていく意識の中で、祐貴は強く思った。  死にたくない。生きて、帰りたい――  しかし意思とは反対に、体は指一本も動かせなくなり、祐貴の意識と体は暗闇の底へと沈んでいった。 一章 完

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