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第二章 -2

 予定はすべて変わった。  アイザは橋の視察を取りやめ、目を覚まさないままの青年を抱えてグラッドストンの屋敷へ急いだ。  見れば見るほど、青年は傷だらけだった。簡単な触診しかできていないが、骨も痛めてもいる様子だ。何より熱がとても高く、早く処置しなければ危ないかもしれなかった。  明らかに奴隷とわかる青年を抱えて帰ってきたアイザに、屋敷で働く者たちは目を剥いた。そんな彼らにはシッチが事情を説明して、みな納得して青年の世話に奔走した。  部屋を用意し、医者を手配する。服をしたため、手錠を工具で無理矢理外した。  診察と治療がすべて終わった頃には、すっかり夜も更けていた。 「肋骨と左足首が折れているか、ひびが入っていると思います。高熱はその骨折と疲労からくるものでしょう。他は目立った外傷はありません。すべて小さなものなので、すぐにふさがります。命に別状ございませんよ」  青年はいくらか顔色を良くし、寝台で眠っている。  グラッドストン家の専属医師、サカリーの説明を受けたアイザは、胸を撫で下ろした。傍らに控えていたシッチも、ほっと息を吐く。  その途端、疲れがどっと押し寄せてきて、アイザは寝台近くの椅子に腰を下ろした。 「あとは安静にして、目を覚ましたらこの薬と、栄養のあるものを食べさせてやって下さい」  サカリーはそう告げて、紙に包まれた薬をアイザに渡した。 「ありがとう、サカリー。急に呼び出してすまなかった」 「いいんですよ。私はグラッドストン家の医者なのですから」  サカリーは皺だらけの顔にさらに皺を刻み、微笑みを浮かべて寝台の青年を振り返った。 「それにしても、この者は幸運ですね。アイザ様に見つけていただけて」  アイザが何とも言えないでいると、シッチが身を乗り出してきた。 「ですよね!この方のためにためらいなく川に飛び込んだアイザ様は、勇ましくて本当に格好良かったです!」  興奮した様子で語るシッチに、アイザは苦笑した。諌めることではないが、自分はただ当たり前のことをしただけなのに、こんなに褒め称えられると居た堪れない。  すると助け舟がやってきた。客室の扉が開き、アイザの乳母のマリィが顔をのぞかせた。 「アイザ様、お客人の容体は如何ですか?」 「ああ、マリィ。もう大丈夫のようだ」  アイザは立ちあがり、扉の方へ向ってマリィを中に招き入れた。マリィはそれでしたら、と、顔を綻ばせた。 「お夕食を召し上がっていただけませんか?アイザ様の久しぶりのお帰りに、料理人たちが腕をふるってつくったのです。温め直しますので、是非」 「ああ、そうだな」  そういえば、昼食も食べ損ねていたのだ。そう思った途端、空腹感に襲われた。それはアイザに付き従っていたシッチも同じだったようで、彼のお腹からぐぅ、と盛大な音が響いた。 「すっ、すみません!」  顔を真っ赤にして謝るシッチに、皆が笑う。シッチはますます赤くなった。  アイザは伸び盛りの子供に食事を我慢させていたことを反省して、シッチを促した。 「シッチ、食事を頂こう。おいで」 「は、はいっ!」  それから食事を終えたアイザが自室に戻ったのは、随分遅くだった。たぶんもう、日付は跨いでいる。  この屋敷の主人はアイザだ。  アイザの父は財産と地位をアイザに譲渡し、今はグラッドストンのはずれの田舎で母と共に隠居生活を送っているため、この家では屋敷の主がいないことがよくある。使用人たちは多くなく、全員信頼できる者たちなので安心して留守を任せられるのだが、やはり主人がいないと張り合いもないようで、アイザが帰ってくると皆あれこれと世話をやきたがり、なかなか解放してくれなかった。  整えられた寝台に体を投げ出し、アイザはゆっくりと目を閉じた。  青年を助け、屋敷の者たちにあれこれと世話をやかれ、いろいろと疲れた。しかし、この疲労は嫌なものではない。早くあの青年が回復してくれれば嬉しいし、使用人たちの満足そうな顔は好きだ。  ただ、橋の視察の予定が狂ってしまったので、その調整はしなければならない。明日、予定を立て直そう。  そう思ったところで、アイザの意識は夢の中へと誘われていった。  翌朝、アイザは切羽詰まったシッチの声で目覚めた。 「アイザ様、アイザ様っ!」  アイザを起こす役目はいつもシッチのものだったが、このような起こされ方は初めてだった。アイザは目を擦ってこじ開け、体を起こした。 「アイザ様っ」 「どうしたんだ」  シッチはまだ寝巻のままだった。普段ならしっかりと着替えを終えて来る。つまりいつも起こしている時間より早く、それだけ急いでいるということだ。 「あのお客人が目を覚ましたのですが、その…っ」 「起きたのか。それはよかった。彼がどうしたんだ?」  アイザは青年のことを思い出し、立ちあがった。起きたのなら、いろいろ話も聞こうと思っていた。 「暴れて、困ってるんです!」 「何?」  アイザは急いで部屋から出て、青年がいる客室を目指した。  部屋の前の廊下にはすでに何人かの使用人たちがいて、アイザの姿を認めると皆一様に安堵の表情を見せた。 「アイザ様!もう、どうしていいのやら…安静にしてくださいと言っても、近づこうとすると…今、トルさんが中で…」  アイザは困惑した様子の庭師の肩を叩いて、私が行く、と部屋の中に目を向けた。言い争うような声が聞こえてくる。  その時、中から一際大きな声が飛んできた。 『――俺に触るなっ!』 ◆◆◆  祐貴は、自分が生きているのか死んでいるのか分からなかった。  見えたものは金の模様が緻密に描かれた白い天井で、ここは天国なのかな、とか呑気に思った。  しかし体を動かそうとした瞬間、体のあらゆるところに痛みが走り、はっきりした。 「いっ…生き、てる…?」  自分はまだ、生きている。  何がどうなったのか、祐貴は思い出そうとした。確か、盗賊たちから逃げようとして川に飛び込んで、流されて溺れたのだ。苦しくてどうしようもなくて、ひたすら死にたくないとだけ思い続けていた。  それがどうして、陸にいるのだろう。記憶はまったくなかった。  よく見ると、祐貴はベッドの上にいた。肌触りもよく、大きくて立派なものだ。  慎重に体を起こすと、柔らかな毛布が体から滑りおちた。体のあちこちに包帯が巻かれ、手錠はなくなり、服はゆったりとしたズボンとシャツにかわっている。 「なんで…?」  祐貴は不安に駆られ、きょろきょろと周りを見回した。祐貴以外の人間はそこにはいなかった。部屋は広く立派で、両開きの大きな扉と天井まで届く大きな窓があった。ベッドのほかには安楽椅子にテーブル、シャンデリアのようなものまである。この部屋の持ち主は、随分と金持ちのようだ。  そこまで考えて、祐貴は一つの答えを導き出した。  自分はあの後すぐ川から引き上げられて、結局売りとばされたのだ。そしてここはきっと、祐貴を買い取った人間の家だ。  さっと血の気が引いた。そのとき、部屋の扉ががちゃっと音を立てて開いた。 「!!」  はっとそちらに目を向けると、初老の男と目があった。男は盗賊たちとは随分違い、上品そうなシャツとズボンをきっちりと着ていた。 『よかった、お目覚めになられたのですね』  言葉は盗賊たちと同じで解らない。  男はにこやかに笑いながら、祐貴の方へどんどん近づいてくる。人が良さそうにも見えるが、この男が自分を買ったのかと思うと、祐貴は言い知れぬ恐怖を感じた。 「く、くるなよ…」 『熱は引きましたか?――えっ!』  ベッドサイドまで来た男が、祐貴の方へ手を伸ばしてきた。祐貴は反射的にその手を振り払い、反対側から床に降り立った。  しかし次の瞬間、足首に激痛が走り、その場にしゃがみこんだ。あまりの痛みに声も出ない。見れば、包帯の巻かれたそこはぱんぱんに腫れ上がっている。 『ああ、駄目ですよ、足の骨にひびが入っているそうです。安静にしないと――』 「くるなっ!触るな!」  男が回り込んでやってきて、まだ祐貴に手を伸ばそうとしてくる。祐貴は怒鳴り、ベッドサイドにあったチェストにしがみつく様にして立ちあがった。  祐貴の言葉にか態度にか、男は驚いた顔を浮かべていた。 『あ、あの…?』 「っ、う、あっ!」  足の痛みを堪えて立ち上がったのだが、やはり耐えられず、祐貴の体は傾いだ。その弾みでチェストも大きく揺れ、その上に置かれていた水瓶が床に投げ出された。 『ああっ!危ないっ!』  ガシャーンと激しい音を立て、水とガラスが散らばる。  その音があまりにも大きかったためか、バタバタと足音が響き、人が集まってきた。 『どうしました?』 『トルさん?すごい音がしましたけど…』  部屋の前に四、五人の人だかりができた。最初に部屋に入ってきた男と同じ格好のものと、似たような服装の女もいた。  この人たちは――最初の男も含め、使用人なのかもしれない。 『客人が目を覚まされたんだが、どうも言葉が通じないようなんだ。それで、水瓶をわってしまって…』  男が後から来た人々に何事かを説明し始めた。祐貴はこの隙に再び立ちあがろうとしたが、さらに新しい痛みが足に生まれた。 「っ…!」  見れば、ふくらはぎあたりに赤い血が染みていた。水瓶の破片で切ってしまったようだ。  祐貴のうめき声が聞こえてしまったのか、男がはっとした様子で祐貴に目を向けた。 『切ってしまったのですか!すぐに治療しないと…誰か、治療道具を。あと、箒と雑巾だ』  初老の男は早口で命じ、迷いなく祐貴に近づいてきた。今度は両手で、祐貴の体を抱えようとしてくる。 「や、やめろ!放せ!」  祐貴はとにかく暴れた。捕まってたまるものかと、飛び散ったガラスが当たるのも厭わず暴れ続けた。ぎゅっと目を瞑り、無我夢中で腕を振った。 『危ないですから、どうか大人しくしてください!』 「触るな、放せ!――俺に触るなっ!」  その応酬がどのくらい続いたか分からないが、ふと、男が遠ざかった。捕えようとする腕がなくなり、祐貴はそっと目を開いた。  すると、目の前にいたのは、先ほどまでいた初老の男ではなくなっていた。  若い男だった。ブルネットの短い髪と濃い群青の瞳をしていた。その色味を引き立てるようにすっと鼻筋が通った堀の深い顔立ち。男の身なりは簡素だったが、他の誰よりも質が良く、高価そうだ。この男が、この人たちの主人なのかもしれないと祐貴は思った。 『アイザ様、危ないです』 『大丈夫だ』  よく見れば、初老の男は若い男の後ろにいた。 『随分回復したようだな。これだけ暴れられるなら、もう大丈夫だろうな』  若い男はじっと祐貴を見つめたまま、言葉を投げかけてきた。しかし祐貴には言葉も、この男の思惑も分らないので、ただじっと口を噤んで男を睨みつけていた。 『だが、まだ全快ではないんだ。それに、その新しい怪我の治療もしなくてはならない』  言いながら、男は祐貴の脚を指差した。顔は向けず目だけでちらりとそこを見ると、更に血が滲んでいた。  祐貴はどうしていいのか分からなかった。逃げ出しようもなく、かといって大人しくされるがままになどなりたくはない。 『怯えなくてもいい。その治療だけさせてくれ』  男は優しい笑みを浮かべていた。どこか安心するような、暖かい笑顔だ。  しかし、男がそっと手を伸ばしてきたのを、祐貴はぱしっと打ち払っていた。 『おっと、参ったな…』  そのとき、だだッと音を立て、何かが祐貴と男の間に割って入った。それが少年だと祐貴が気付いたとき、パンッと音が鳴り、頬に焼けるような痛みが走った。  ぶたれたのだと気付くまで、数秒かかった。祐貴は叩かれた頬を抑え、茫然として少年を見た。少年は興奮した様子で、なおも祐貴に食ってかかろうとしていた。しかし、それを若い男が羽交い絞めにして押さえている。 『シッチ!やめないか、何を…』 『この人…許せませんっ!アイザ様に命を助けていただきながら、こんな無礼な態度を…っ!』  少年はおかっぱの髪を振り乱しながら叫び、祐貴を睨みつけた。ぶたれたのは祐貴の方なのに、少年は目に零れんばかりの涙を溜めている。 『トルさんだって、昨夜から何度も様子を見て、世話をしているのに…っ!』 『分かっている。だが、この人も目覚めたばかりだ。言葉も解らず怯えているのだ。暴力は駄目だろう、シッチ』 『だって、だって…アイザ様…っ』 『お前が私やトルを想う優しい子だとは解っている。その優しさを、この人にも分けてあげてくれ』 『うっ…う…』  少年はついにわんわんと泣きだした。男は少年を抱きしめて、なだめるように背中をポンポンと叩いてやっている。  ますます祐貴は混乱した。何が起こっているのか理解ができなかった。この人は、祐貴を買った人間ではないのか。いったい、何がしたいのか。  男は少年を初老の男に預け、代わりに何かを受け取った。そして、再び祐貴の前にしゃがみこんで、手にしたものを掲げて見せた。  それは、包帯だった。 『治療をしたい。わかるか?その脚の傷を、治すんだ』  男はゆっくりと言葉を紡ぎながら、包帯と祐貴の脚を交互に指差した。  ゆっくり話されても祐貴には理解はできないが、なんとなく、怪我を治療したい、そう言っているように感じられた。  思い返してみれば、祐貴は目覚めたときすでにいろいろ治療はされていて、この豪奢な部屋で、柔らかなベッドに手枷もなく眠っていた。奴隷にそんな親切なことをするものだろうか。  この人たちは、祐貴を買った人間ではないかもしれない。祐貴はやっと、その可能性に気付いた。 『触るけど、暴れないでくれよ』  再び伸ばされた男の手を、祐貴は今度は振り払わなかった。

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