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第二章 -3

 三日が過ぎ、祐貴の熱は下がり、体調はすこぶる回復した。  祐貴は常に丁重に扱われた。まるでどこかの御曹司にでもなったかのような対応だった。あのときの使用人と思われる初老の男を筆頭に、常に誰かが側についていて、包帯の取り換えなど甲斐甲斐しく世話してくれた。最初は祐貴のことを遠巻きに見ていた使用人たちも、祐貴が大人しくしているとその日のうちには笑顔で寄ってきた。  トイレに行きたいと身振りで訴えれば、歩けない祐貴に肩を貸して連れて行ってくれる。お腹が減った素振りを見せれば、暖かい食べ物をすぐに運んできてくれた。  祐貴は出される食事を遠慮なく食べている。手当も黙ってされるがままでいる。そのくせ、薬のようなものを出されたが、それは頑として飲まなかった。  食事などを世話になっている時点で意味はないと解っているのだが、全幅の信頼を寄せてしまうのが祐貴には少し怖かった。  この人たちの目的は何なのだろう。とても親切にしてくれ、ありがたいと思う。だが、心の中には常にしこりがあって、決して安堵は訪れてくれない。暴れ回ったことを謝罪できていないことも、罪悪感として祐貴の気持ちに影を落とし続けている。  この家の持ち主は、あのブルネットの若い男だ。誰もが彼に頭を下げ、どこか慕っている風だった。あの男のさじ加減で、祐貴の身の振り方は変わってしまうのだろう。  言葉が通じないというのが、一番のネックだった。話ができれば、少しは自分の置かれた状況を理解できるだろうに。  この部屋で目を覚ました日から、祐貴はずっと思い続けていた。何とか、会話ができないだろうかと。  今朝、早くに目を覚まし、祐貴は今日、挑戦してみようと意気込んでいた。  ベッドの上で上半身だけを起こし、窓の外、朝の光に輝く庭を眺めていると、部屋の扉が開いた。外から入ってきたのは初老の使用人の男で、手に水が張られた盥を抱えていた。彼は祐貴が起き上がっているのを見て、顔を綻ばせた。 『おや、もう起きていらしたのですね。おはようございます』  何と言われているか解らない祐貴は、昨日も一昨日も、無言のまま過ごしていた。  しかし、その言葉によくよく耳を傾けたてはいた。あらしーあ、と、男は毎朝必ず言っている気がする。それが、挨拶の類ではないかと祐貴は思う。  祐貴はこくりと息を飲むと、口を開いた。 「あ、らしーあ…」  自信はなく、声は少し震えてしまったが、男の耳には届いたようだった。  使用人の男は少しだけ驚いた顔をした後、くしゃっとした笑顔になった。盥をベッドわきのチェストの上に置くと、祐貴の正面に向き直った。 『アラーシィア(おはようございます)、ですよ』  ゆっくりと発音された言葉に、それが正しいのだと知った祐貴は繰り返した。 「アラーシーア…?」 『そうです、アラーシィア(おはようございます)』  男が頷くのを見て、祐貴は胸が熱くなった。通じている。これで合っているのだ。 「アラーシィア」  その時、部屋にノックの音が響いた。男が振り返り、『どうぞ』と言った。  入ってきたのはブルネットの男だった。この若い主人は、朝昼夕、必ず祐貴のもとを訪れる。来て特に何をするわけでもなく、祐貴をじっと見て、祐貴が理解できないとわかっていながら、何事かを語りかけてくる。  使用人の男は、すぐに入ってきた主人のもとへ寄っていき、頭を下げていた。 『アイザ様、おはようございます。今日はお早いですね』 『おはよう、トル。今朝は随分冷えるから、目が覚めてしまったよ』 『もうすぐそこまで冬が来ておりますから……そろそろ暖炉の準備もしないといけませんね』 『そうだな、頼んだよ。それにしても、随分緩んだ顔をしているな。どうしたんだ?』 『ああ、それが。素晴らしいのですよ。あの方が、この国の言葉を話されたのです』  使用人が振り返り、祐貴を見た。若い男もその視線を追うようにして、祐貴を見遣りにこっと笑った。朝にふさわしい、爽やかな笑顔だ。 『おはよう』  少し発音が違う気もしたが、それが挨拶だと祐貴には解った。なので、覚えたばかりの言葉を口にしてみた。 「アラーシィア」  すると、男は目を丸くして、祐貴のもとまで速足で寄ってきた。 『すごいな、覚えたのか』 『そのようです』  男はベッドの端に腰を下ろし、祐貴の顔をまじまじと見つめてくる。その表情が祐貴以上に嬉しそうで、祐貴は恥ずかしさに顔を赤らめた。男の表情はますます柔らかくなった。 『そう言えば、まだ名前も知らない。そろそろ自己紹介をしないといけないな』  祐貴に向けて、弾む声で男が言う。祐貴はただ首を傾げるばかりだ。 『アイザ様、挨拶だけ、つい先ほど覚えたようです。他はまだ解らないでしょう』 『そうか。でも、なんとなく解るんじゃないか?彼は随分賢そうだから…』  男が言葉を切り、祐貴に向き直った。そして自分を指差し、ゆっくりと口を開いた。 『私の名は、アイザ、だ。アイザ。ほら、言ってごらん。ア、イ、ザ』  自己紹介をしているのだと、祐貴には雰囲気で解った。この若い男の名前はアイザというのだろう。そう言われると、会話の中によくアイザという単語があった気がする。  祐貴は視線をアイザから逸らし、使用人の男に向けた。男と視線がかちあうと、男を指差して聞いてみた。 「あなたの名前は?」  祐貴はこの初老の使用人の名の方が知りたかった。  あのとき、随分と暴れて殴ったりもしてしまった。その名残はまだ少し、痣として男の手に残っている。それなのにいろいろと世話をしてもらって、申し訳ない気持ちはこの人に対してのものが一番強かった。  アイザと使用人の男は二人とも目を瞬かせた。男は少し戸惑った様子だったが、名を教えてくれた。 『私の名前を聞かれているのでしょうか?…私はトル、と申します。トル』 「トル…トル、さん」  祐貴は何度か頷きながら、トルの名を口ずさんだ。それを聞いたトルは笑みを深め、アイザは少しだけ渋い顔になった。 『何故トルの名は呼んで、私の名は呼んでくれないんだ…』 『さ、さあ…ところで、貴方様のお名前は何と言うのでしょうか?』  トルに手で示されて、祐貴は自分を指差しながら名前を言った。何度か繰り返し続けると、通じたようで、トルとアイザがその名を呼んだ。 『ユゥキ様とおっしゃるんですね』 『ユゥキ、いい名だ』  その呼ぶ声――正しく言えばイントネーションに、祐貴は目を瞠り、息を飲んだ。 ――ユゥキ  あの、図書館で聞いた声が蘇る。あれと同じ音調。あのときこちらの世界の人間が、祐貴を呼んだのだ。  では、祐貴を呼んだのは、誰だ。あの声の主が、必ずいるはずだ。 『ユゥキにこの国の言葉を教えよう。きっとすぐに覚えられる。そうすれば、出身国や家族のことも解るかもしれない』 『そうですね』  どこか楽しげに会話する二人の横で、祐貴は考え込んだ。会話を試みたことで、意思の疎通ができたばかりか、少し道が開けた気がする。もっとこの世界の情報を集めれば、帰ることができるかもしれない。いや、帰るために、集めなければ。  その祐貴の思考を、少し高い少年の声が遮った。 『アイザ様!ここにいらっしゃったんですか!部屋に行ったのにいらっしゃらないから、僕もうびっくりして…!』  祐貴を叩いた少年だった。彼は怒った様子で大股で部屋に入ってきた。  ふと祐貴と目が合うと、気まずげに逸らす。他の使用人たちとは違い、少年はいまだに祐貴のことを厭わしく思っている様子だった。しかし、その方が当然の反応であり、祐貴は納得している。 『シッチ。すまない、早く目が覚めたんだ。それにしても、ちょうどいいところに来た』 『はい?ちょうどいいというのは?』 『彼の名はユゥキというそうだ』 『は、ぁ……』  全員の視線が集まり、祐貴は少し居た堪れなかった。しかし、それはほんの数秒で、アイザが再び口を開いたのちは、祐貴そっちのけで激しい言い合いが続いた。 『シッチ、彼にこの国の言葉を教えてやってほしい』 『な、なんで僕が!僕は語学に堪能ではありません!それに、アイザ様の従者としての仕事もあります!』 『どうせ暫くは橋の視察と事務仕事だけだ、私だけでいい。時間なら十分にあるさ。それに、ユゥキの話す言葉はザンドのものでもテイのものでもない。誰も解らないから同じだ』 『ですが…っ』 『殴ってしまったことを謝りたいと言っていただろう、いい機会じゃないか』 『そ、そうですけど…っ』  言葉がやっと止んだかと思うと、少年は困ったような表情で顔を真っ赤にして、ちらりと祐貴の方を見た。祐貴はどんな顔をすればいいのか解らず、ただ眉根を寄せてしまった。  少年はまた祐貴から目を逸らし、苦々しげに呟いた。 『…わ…解り、ました。では、僭越ながら僕が務めさせていただきます』 『肩肘張らずに頑張ってくれ』  そこで使用人の女性がアイザ達を朝食に呼びに来て、祐貴が何も解らないうちにその場は開けた。  その日の午後、少年が何冊もの本を持って祐貴のもとを訪れた。そして、彼が言葉を教えてくれようとしているのを知り、祐貴はその幸運に必死に縋りついた。 ◆◆◆◆  夜、就寝前にアイザはユゥキの元を訪れた。  そこで他愛のない会話を交わす。これがアイザの日課になっていた。 「今日、本、よんだよ」 「へぇ、どんな?」 「『はらぺこくま』、絵本。シッチ、かしてくれた」 「ああ、あの本か」 「これ」  ユゥキは薄い絵本をテーブルの上に置いた。それはこの国では有名な絵本で、まだシッチが幼い頃、アイザが買い与えたものだった。  懐かしさをもってその絵本を眺めていたアイザは、ユゥキに視線を移し、からかうような笑みを見せた。 「読めるのか?」  するとユゥキは一瞬だけむっとした顔をして、すぐに絵本を開いた。そして、そこに書かれている文字を指で追い始める。 「もう、よめる。『はらぺこくまは、森の中にいます。いろいろな動物と暮らしていました。楽しく仲良く暮らしていましたが、はらぺこくまは、いつもおなかがぺこぺこでした』…ね?」  冒頭の文を読み上げ得意げな顔のユゥキに、アイザは相好を崩した。 「すごいな。上達が早い」  お世辞ではない。アイザは心から感心していた。ユゥキを初めて見たときから、どこか賢そうだとは思っていたが、まさか短期間でここまで言葉を覚えるとは思っていなかった。  ユゥキがこの屋敷に来て四週間近くが経った。  話す分にはまだ単語の羅列しかできないが、難しい言葉が混じらない限り、聞き取りはほぼ完ぺきだ。意思の疎通は十分にできるようになっていた。 「シッチ、教える、じょうずだよ」  ユゥキは微笑みながら、絵本を閉じて大事そうにその表紙を撫でた。  シッチを教育係に据えたことは、間違っていなかったようだ。  しかし、とアイザは思う。シッチの教え方よりも、ユゥキの心持ちがこの上達の要因だろうと。  ユゥキは傍目に解るほど一生懸命だった。とにかく早く言葉を覚えようと、それはどこか焦っている様でもあったが。  とりあえず身の振り方が決まるまで客人としてここにいて、言葉を学べばいいとアイザは提案したが、ユゥキは客人の扱いを拒んだ。  言葉を教えてほしい、言葉を覚えるまではここに置いて欲しいとユゥキも望んだのだが、彼は置いてもらう分は働きたいとも訴えた。なので、ユゥキは昼過ぎから夕方まではシッチに言葉を習い、それ以外の時間は使用人たちの手伝いをし、半下働きのような生活を送っていた。  彼が目覚めた日のことを思い、アイザには少し心配もあった。屋敷の主として、身元不明の者を置いて使用人たちを危険に晒すわけにはいかない。  しかし、ユゥキはもう暴れることもなかった。むしろ、彼はどんな仕事も嫌がらず進んでしようとするらしく、使用人たちからもこの屋敷の一員として受け入れられ、随分と可愛がられているようだ。  アイザもまた、この正体不明の青年をどこか可愛く感じていた。どうもユゥキには庇護欲をかきたてられる。それは二十歳という実年齢より幾分か幼い外見によるものなのか、たどたどしい言葉で懸命に生きる姿によるものなのか。はたまた、漆黒の髪と瞳の醸し出すどこか神秘的な雰囲気か。  ユゥキには謎の部分が多かった。傷もしっかりと癒え、よくよく見てみれば、随分と育ちは良さそうで、出身国を聞いてみれば『ニホン』というアイザも聞いたことのない場所だった。  反対に、ユゥキはこの国のことはまったく知らなかった。そんな彼がどうして奴隷としてエマヌエーレにいたのか、はっきりしたことはわからない。彼も語ろうとしない――というより、彼自身よく解っていない様子だった。話を聞き出そうとするたびユゥキは言葉を詰まらせた。奴隷として攫われてショックを受けているのかもしれない。 「ユゥキ」 「なに?」  ユゥキは本から顔を上げ、じっとアイザを見つめた。真黒な瞳に射抜かれながら、アイザはここ最近考えていたことを告げた。 「言葉も随分覚えたんだ。ずっとこの家で暮らさないか?シッチのように従者になって、私の仕事を補佐してもらえると嬉しい」  すると、ユゥキの瞳は揺らぎ、どこか悲しい色を湛えた。 『でも…俺は帰りたい。いつまでもここでぬくぬくしていられないんだよ…』  ユゥキは俯き、ぽつりと呟く。 「すまない、ユゥキの国の言葉は解らないんだ」 「――アイザ、すごくいい人。感謝いっぱい。シッチ、トル、すき。ここの暮らし、楽しいよ」  それならば、とアイザは食い下がりたかったが、ユゥキの表情はつらそうで、それ以上の言葉を拒絶していた。 「まあ、今はまだ言葉の勉強をすればいい。ただ、いつまでもここにいていいんだということを覚えていて欲しい」  アイザはそれだけ言うと立ち上がり、ユゥキのそばに寄った。座ったままのユゥキの頬を撫で、額にかかった黒髪を掻きあげた。 「ありがとう。アイザ、優しいね」 「別に優しいわけではないさ」  アイザは苦笑すると、ユゥキの額に軽いキスを落とした。そう言えば、この挨拶のキスも始めユゥキはひどく嫌がった。それでもせずにはいられなくて、毎日するうちにユゥキも諦めたのか慣れたのか、受け入れるようになったのだ。  思い切り頬を叩かれたのを思い出し、アイザはもう一度苦笑した。 「それじゃあ、おやすみ、ユゥキ」 「おやすみなさい」  微笑むユゥキを目に焼き付けて、アイザは部屋を後にした。

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