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第二章 -5
「ここが今僕たちの住んでいる国、エマヌエーレ。それからこっちがザンド帝国で、左側がテイ皇国だよ」
少し日に焼けた地図を指差しながら、シッチが説明してくる。祐貴は食い入るように地図を見つめた。
それはシッチが探してきてくれたもので、エマヌエーレを中心に描かれたものだ。全世界地図というわけではないが、祐貴は見たこともない地形だった。
「この先は?」
地図の端を指しながら、祐貴は尋ねた。地図は途中で切れていて、ザンド帝国とテイ皇国の途中で切れている。
「もう少しこの二国の領土が広がっていて、その先には小さな国がいくつかあるらしいよ。僕も少しの噂しか聞いたことがないから本当のことは解らないけど…」
シッチは説明しながら、首を傾げた。
「ユゥキの国はこれよりもっともっと先なのかな。でも、それならザンドやテイを知らないわけないか。うーん、もしかして、海の向こうに大陸があるのかな?」
地図に載っているはずがない。祐貴には解っていたが、曖昧に頷いて誤魔化した。
「日本、島」
「島国?へぇ、じゃあ海のずっと先にあるのかな」
「ね、ここはグラッドストン、でしょ?グラッドストン、どこ?」
質問を変えると、シッチは違う地図を広げた。そちらはエマヌエーレだけが描かれ、縮尺が大きい。
シッチの細い指が紙面をなぞる。
「ここがグラッドストン。ここに流れている川がマーシィア川、ユゥキが落ちてた川だよ。ここに架かっているサーロゥ橋に引っかかってたんだ」
グラッドストンは中心よりやや右下にあった。そして説明されたマーシィア川が通っており、サーロゥ橋はぎりぎりグラッドストン領内にある橋だった。
マーシィア川は結構な大河のようだ。エマヌエーレとザンド帝国の境にある山脈から、国を二つに割ってまっすぐと海へ繋がっていた。
「ユゥキは上流から流されたんだと思うけど、やっぱり王都にいたの?」
祐貴も今、それを考えていた。あそこはどこだったのか解らないし、どれだけ流されたのかも解っていない。川の流れは速かったが、軽傷で済んだほどなのでそんなに流されてはいないのかもしれない。
「分からない。オウト、どこ?」
「ここ。中央、エマヌエーレの王がおわす都――王都。エマヌエーレで一番栄えているところだよ」
王都は地図のちょうど中心、グラッドストンに接しており、広さは倍ほどある。そこにも川は走っている。
王、と聞いて、祐貴には思い浮かぶものがある。
「王都…王……お城ある?」
「あるよ。白椿城って言って、すごく美しいよ。王はそこに住んでいらっしゃる。そこで政を執り行うんだ。政って言っても解らないか…えぇと、政治ってどう説明したらいいんだろう…」
シッチはしきりに首をひねるが、マツリゴトの言葉の意味が解らなくても祐貴は構わなかった。王都に城がある。その事実が解れば十分だった。
「お城、ほか、ある?」
「え?いや、エマヌエーレには一つだけだよ。力ある貴族は豪邸に住んでるけど、城まではいかないもんね」
「そう」
そこだ。祐貴は王都にいたのだ。初めに迷い込んだ場所はその白椿城で、奴隷として逃げ回ったのはたぶん王都内の市場だ。
「お城、行ってみたい…」
そこに祐貴を呼んだあの声の持ち主がいる可能性が大きい。もしかすると、あの不気味な部屋から日本に帰れるかもしれない。逆に言えば、戻れる可能性を秘めているのはそこだけなのだ。
問題は、どうやってそこに行くかだ。
「アイザ様のお供でよく王都に行くから、次に行くときに一緒に行こうか?」
「よく行く?」
「アイザ様は城で仕事なさることがたくさんあるから」
その時、扉をノックする音が響き、会話が中断された。
「ああ、きっとアイザ様だ。今日はくるっておっしゃってたんだ」
シッチはぱっと顔を明るくさせて立ち上がり、扉の方へ急いで駆けて行った。言葉通りアイザがそこにいて、シッチと並んで中に入ってきた。
「どうだ?勉強は捗っているか?」
アイザはテーブルの上に広げられた地図を見て一瞬だけ表情を暗くしたが、すぐにこやかな顔に戻り空いている椅子に腰かけた。
祐貴がうんと頷くと、シッチが得意げにアイザに報告する。
「今、白椿城の話をしておりました。ユゥキが城に行ってみたいと」
「城?」
アイザは面白そうに祐貴を見た。祐貴は首肯して、逆に尋ねた。
「アイザ、お城で仕事する?」
「するよ。たまにね」
「アイザ…偉い人?」
考えてもみなかったが、アイザは権力者なのかもしれない。祐貴はその可能性を思わなかった自分に後悔した。こんな大きな屋敷に使用人を抱えて暮らしているのだから、そうじゃない方が不思議ではないか。
「いや、別に偉い人ではないが…」
アイザは否定しようとしたが、それをシッチが遮った。一度着いた席から再び立ち上がり、拳を握って捲し立てる。
「アイザ様はもちろん偉人です!貴族院でも様々な案件をこなし、将来を期待されて王の覚えもめでたく、若手の中でも一目置かれた存在なのですから!」
「はあ…」
早口で難しい単語も混ざっていて祐貴はよく理解できていなかったが、なんだかすごいというのは感じ取った。
シッチはなおも続ける。
「グラッドストンという名門中の名門の貴族の血を引いて、その名に恥じない器量をお持ちになり、しかもあの名宰相ディズール様の妹君、リーナ=ディズール様を婚約者に――」
「シッチ!」
硬い声でアイザが叱責した。普段の温厚なアイザからは考えられない声に、シッチも祐貴もビクっと肩を震わせた。
アイザ自身も自分の声に驚いている様子で、気まずげに掌を額に当てた。
「ああ、すまない、そう手放しで誉められるのは苦手なんだ。私はまだ至らないところもたくさんあるんだから…」
「い…いえ、僕が出過ぎたことを言いました。申し訳ありません…」
「謝らなくていい。シッチが私をそうやって思ってくれているのは本当に嬉しいんだ。私もシッチは最高の従者だと思っているからね」
しゅんと萎縮してしまったシッチだったが、優しく頭を撫でるアイザの言葉に、少し面映ゆそうに口をもごもごさせた。
アイザがなぜあそこまで反応したのかは祐貴にも分からないが、先ほどのシッチの言葉でアイザが相応の権力者だということは把握した。
「ユゥキも、驚かせて悪かったね」
苦笑を浮かべるアイザに、祐貴は首を振って平気だと告げた。
「ええと、それで…白椿城に興味があるんだったか」
アイザが話題を戻し、祐貴は頷いた。
「うん。――お城の中、見てみたい」
「中を?」
「日本、お城ない。中、見てみたい」
理由を聞かれないよう予防線としてそう言って、祐貴はじっとアイザを見つめた。アイザに頼めば可能かもしれない。
「そうか、でも中には入れないんだ。城内に入ることを許可されているのは、王族、両院議員と魔導学院生だけだからな…」
アイザは心底申し訳なさそうに首を振った。
「残念だが、許可が下りないだろう。最近は賊が多くて警戒しているくらいだから。先月登城したときも、ちょうど賊が一人入り込んで大変だったそうだ」
「ゾク…?」
「泥棒と言ったら分かるか?泥棒が城に入り込んでね。追い詰めたが仲間がいたらしく、堀に飛び込んで逃げたそうだ」
「ああ、そう言えばあの日、すごく騒がしかったですね。賊だなんて、まったく許せませんね!」
祐貴は俄に緊張し、それを悟られまいと努めた。その賊とは、もしかして祐貴のことではないだろうか。時期的にも、状況的にも合致する。
迂闊だった。祐貴は城の中で追いかけまわされたのだ。祐貴の顔を覚えている人間もいるかもしれない。もしアイザに連れて行ってもらうことが叶っても、捕えられたらどうなる。あの場にいた言い訳など思い浮かばないし、身元は不明で不審この上ない。アイザにだって多分に迷惑がかかる。
「そう、なんだ…」
呟くように頷くと、アイザはとりなすように手を広げた。
「来月、城で議会が開かれるから、その時共に行こうか。中には入れないが外観は見られるぞ」
「そうしましょう!僕も城門までしか行ったことないけど、外から見るだけでも楽しいよ、ユゥキ」
アイザとシッチの言葉に、祐貴はなるたけの笑顔で応えた。残念がって二人に城への執着を見せては駄目だ。
しかし、そうなれば一人で城に向かい、忍び込むしかない。果たしてそんなことができるのだろうか。
追いかけられた記憶が蘇る。武装した兵に、異形の獣たち。あのときはたまたま助かったが、あれらの目をかいくぐってあの部屋に辿り着けるのか。
いや、できなくても、帰るためにはやらなければならないのだ。そこにしか可能性はないのだから。
それから、いくつかアイザは話をしてくれた。エマヌエーレの成り立ちや王のこと、アイザが所属している貴族院のこと。もちろん日本とはまったく違っていて、聞くだけでも少し面白かった。
そして話が習慣や伝統に移ったとき、シッチがあ、と声を上げた。
「そう言えば今朝、リートの収穫祭の話をユゥキにしたんです」
「ああ、そろそろだな。今年は確か……八日後に開くと報告がある」
「え、八日後?」
祐貴が聞き返すとアイザは頷いた。
今朝聞いた時はもう少し先だと思っていたが、八日後。その位ならまだこの屋敷にいてもいいだろう。そう思うと心底ほっとした。シッチとの約束を破らずにすみそうだ。
そんな祐貴の表情をどう取ったのか、アイザは柔らかく笑んだ。
「連れて行ってあげよう。――ところで、ユゥキは馬には乗れるか?」
「馬…?」
祐貴は記憶を手繰ったが、小学生のころ動物園でポニーに乗った記憶しかなかった。
「ない」
「そうか。なら明日からは座学は休んで、馬に乗る練習をしようか。少し離れた場所だから、馬に乗れないと少々辛い。――シッチ、教えてやりなさい」
「はい!」
祐貴としては乗馬技術よりもこの国や言葉に関する知識が欲しかったのだが、よくよく考えてみれば王城に向かうにしても馬は必要不可欠だろう。この屋敷から城まで馬で二日と言っていたから、歩きだとどれほどかかるか分からない。乗馬できる方がいいに決まっている。
「よろしく、おねがいします」
祐貴はぺこりと頭を下げた。
◆◆◆
風はだいぶ冷たくなってきたが、窓から注ぐ午後の陽光のおかげで室内は程よく暖かかった。
自室で報告書とにらめっこをしていたアイザは、扉を叩く音に顔を上げた。
「どうぞ」
声をかけると、失礼します、とトルの声と共に扉が開かれた。
「アイザ様、グリーン伯がいらっしゃっております」
「カインが?」
アイザは慌てて立ち上がった。机の上に散らばった書類もそのままに、急いで部屋を出る。
「客室でお待ちいただいております」
「ああ、すまない。まったく、何だってあいつはいつも急に来るんだ…」
案内するトルに続き、アイザは廊下を歩きながらぼやいた。カインが来るなど聞いていない。来るのならそれなりに連絡をもらわないと、もしアイザが不在だったらどうするつもりだったのだろうか。なにより使用人たちが不憫だ。
客室の扉をトルがノックし、開いた。そこにはカインが主人であるかのように椅子に座りふんぞり返っている。
カインはアイザの姿を認めると、片手を上げた。顔には相変わらず飄々とした笑顔を浮かべている。
「よう」
「よう、じゃない。来る前に連絡くらいよこしてくれといつも言ってるだろう」
「近くを通ったからついでで来たんだ。連絡する間もなかったんだよ。今日は従者も連れてないしな」
「……そうか」
アイザは諦めて息を吐き、カインの向かい側に腰を下ろした。
「お茶を淹れてまいります」
トルはそう言って退室していった。アイザはそれを見送ってから、カインに向き直った。
「で、用件は」
「ああ、仕事の方はどうだ?順調か?」
「ああ、ディズール宰相に報告書は送った。承認待ちだ。予算も十分足りてるし、たぶん通るだろう。――そういうお前はどうなんだ」
「そうか。俺も承認待ちだよ。まぁ、順調かな」
そこまで言って、カインは椅子に座りなおした。ぐっと前かがみになり、ちょいちょいと指でアイザを招く。
アイザも体を傾け、カインの方へ少し寄る。アイザの屋敷なのだから誰かに聞かれる心配などないのだが、大人しく従っておいた。
「もう一個の方だ。お前、なにか掴めたことはあるか」
もう一個と言えば、魔導院に関する謀反の件だ。アイザは緩く首を振った。
「王都内の南市場でならいくらか聞き込みをしたが、物品が大きく流れたという話は聞かない。あと、魔導院上層部の金の動きをたどっているが、不自然なものは見当たっていないな」
仕事の合間ではあるがいくらか調べている。しかし、いくら調べても謀反の片鱗は見えていなかった。あくまで噂であればそれに越したことはない。そしてアイザはそう思い始めていた。
だが、カインは違うようだった。暗い表情に、何かを掴んだことをアイザは悟った。
「何かあったのか」
「ああ、結構なものを掴んじゃってね――まず一個目。王都の北市場の方を回ったんだが、そこでも物品の大きな流れはなかった。ただ、とある商隊がザンドから持ち帰った荷が多すぎたと言うおかみさんがいてね」
「多すぎた?」
「その商隊が持ち帰った荷はいつもより多かったって言うんだ。それなのに、市場におりた商品はいつもと同じ量だと。気になる話ではある」
輸入品はまず市場におりる。市場を介さずに直接ザンドから買い取ることなどふつうはない。一般の民衆にはできない芸当だ。
「で、その荷の中身は?」
「ザンドの名産品だと」
アイザはさっと顔を曇らせた。ザンド帝国の名産品と言えば、火薬だ。
「今それがどこに流れたのか調べているんだが、なかなか足がつかない。どの商隊かも解らないんだ。まあ、証言者がご婦人ひとりだけだからな。盗賊対策に偽装の荷を持っていたのかもしれないし、誰かがただの趣味で火薬を買い取ったのかもしれないし」
カインは茶化した風に言うが、そう思ってはいないのだろう。表情は硬い。
「それで、二個目は?」
「ああ、二個目の方がより信憑性が低いんだがな…――オルマーン家の末裔の噂を聞いた」
アイザは眉根を寄せた。オルマーン家とはどこだっただろうか。聞いたことがあるが、思い出せない。
そんなアイザの様子に気づき、カインがぽつりと付け加えた。
「魔導士一族」
「え…あの、オルマーン家か?あそこは全て血が絶えたのだろう?」
アイザはやっと思い出した。オルマーン一族と言えば、エマヌエーレ黎明期より血筋全員が優秀な魔導士の資質を持った唯一の一族。そして、謀反を企み滅ぼされた血筋。
「そう、あのオルマーン家だ。二十五年前に全員が処刑されたが、宗家の一人息子は実は死を免れて今も生きているという噂だ」
「まさか」
「まあ、これこそ根も葉もない噂だからな。ただ、そんな噂が出回っているということは事実だ」
カインは背もたれへぐっと体を倒し、伸びをした。
「とりあえず、商隊の方はなにか尻尾を掴んだら報告する。お前はお前で他を頼むぞ」
「ああ…」
アイザも深く椅子に腰かけ、息を吐いた。一気に可能性が湧き上がり、疑問しか浮かばない。なぜあの素晴らしい王を倒そうとするのか理解できない。
「さて、この話は終わりだ。ところで、もうすぐ収穫祭だな。あと三日か」
急に明るい声になったカインは、楽しそうに言う。
「行こうと思ってるんだ。それまで泊めてくれないか?」
祭りの開催地はカインの屋敷よりもここの方がずっと近い。カインとは幼いころから気心知れた仲であるから、アイザは一も二もなく頷いた。
「別に構わないが――」
そのとき、遠くに叫び声と馬の嘶きが聞こえた。
「なんだ?」
カインが首を傾げる。
アイザはすぐに立ち上がり、部屋から飛び出した。
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