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第二章 -6

 途中でティーセットを抱えたトルとすれ違ったが、アイザは立ち止まらず廊下を駆けた。後ろからはカインが何事かとついてきている。  長い廊下を抜け、中庭へ出る。そこも真っ直ぐに突き進むと、そこには厩がある。  初めに、手綱を曳き馬の首を叩くシッチの姿が目に入った。月毛の馬は興奮した様子で、シッチは懸命にそれを宥めているようだ。  そして視線を地面の方へ移すと、泥まみれになったユゥキが仰向けに転がっていた。落馬したのだ。 「ユゥキ!」  ユゥキはアイザに気付くと、呻きながら上半身を起こした。アイザは急いでユゥキの側によって片膝をつき、手で背中を支えてやった。 「大丈夫か?」  ユゥキの頬に付いた泥を空いた手で拭いながら問えば、彼は目にじわりと涙を溜めた。濡れた瞳はいつも以上に澄んで見えて、どきりとしてしまう。  しかし、そちらに気を取られている場合ではない。アイザはさっとユゥキの体を見渡した。大きな怪我はないようだった。あまり高い位置から落ちたわけではなさそうだ。 『痛い!思い切り尻打った!無理だって、もう!絶対に乗れない!』  ユゥキが喚く。何と言っているのかはアイザには解らなかったが、喚きたくなる気持ちは十分に理解できた。  乗馬練習を始めて数日が経つが、未だにユゥキは馬上にあがることすら叶っていないのだ。ユゥキが乗ろうとすると、それまでずっと大人しくしていた馬でも暴れる。それどころか、ユゥキが厩の側に寄るだけで馬はざわめきだすのだ。 「今日はいちばん大人しいラミィにしたのに、やっぱり駄目でした…」  月毛の馬を宥め終えたシッチが、離れた場所で手綱を握りながら悲しそうに呟く。ユゥキ以上に落ち込んだ様子のシッチも、目にいっぱい涙を溜めていた。  月毛のラミィは、確かにグラッドストン家が飼っている中で最も穏やかな馬である。事実、今はくつろいだ様子でシッチの髪に鼻先を押しつけ、もしゃもしゃと食んでいる。 「みんな乗せてくれない…嫌われてる…」  しゅんとした声で、ユゥキが訴えるように呟いた。  そんなことはないと言ってやるのは簡単だが、ここまで見事に拒絶され続けているのをアイザも目の当たりにしているのだ。こんなに信憑性のない言葉もないだろう。 「とりあえず、治療が先だ」  アイザは苦笑で誤魔化して、ユゥキの膝裏に手を差し入れ抱え上げた。ユゥキの体は軽く、簡単に持ちあがる。 『えっ、ちょっと待った!何してんだよ!アイザ!』  ユゥキがぎょっと目を見開き、早口で何か怒鳴った。そしてアイザの肩口をぺしぺしと叩く。 「ん?」 「歩ける!下ろす!」 「腰を打ったんだろう?遠慮するな」 「遠慮違う!恥ずかしい!」  言葉通りにユゥキの頬は赤い。その様子が何とも可愛らしく、アイザに少しの悪戯心が湧き上がった。 「こっちの方が早い」  ユゥキは確かに元気はあるようで、下ろしてやってもよかったのだが、アイザはそのままの体勢を保った。下ろしてなどやるものか。  アイザの意図を感じ取ったユゥキは暫く真っ赤な顔でアイザを睨んでいたが、やがてぷいとそっぽを向いてぼやいた。 『なんだってキスとか抱っことか恥ずかしげもなくやるんだよ…日本人じゃありえない…』 「そう拗ねるな」 「別に、拗ねてないよ」  そこでシッチが、ユゥキ、と声をかけた。 「アイザ様にあまりご迷惑かけてはだめだよ!大人しくしなきゃ――アイザ様、僕はラミィたちの世話をしてから戻ります」 「ああ、頼んだよ」  アイザは頷くと、大人しくなったユゥキを抱え直した。来た道を戻るべく振り返ると、仁王立ちしたカインがそこにいた。 「アイザ、そろそろ俺のこと思い出してもらってもいいかな?」 「あ」  カインは仏頂面で、まじまじとアイザとユゥキを見つめる。アイザはすっかり失念していた。追いかけてきたカインは、ずっとそこにいて始終を見ていたようだ。 「なんだよ、でれでれと鼻の下伸ばしやがって……」  愚痴っぽくこぼすカインに、アイザは僅かに狼狽した。鼻の下など伸ばしたつもりはない。  カインの存在を知ったユゥキは、再びパタパタとアイザの肩を叩いた。そして、顔を隠すようにアイザの肩口に寄せ、小声で訴えかけてきた。 「ア、アイザ、アイザ!やっぱり自分で歩く!」  第三者がいると知って驚いたのだろうが、アイザは大丈夫だとなるたけ優しい声でカインを紹介した。カインは大切な幼馴染だ。彼のことはユゥキにも知っていてもらいたい。 「ユゥキ、彼はグリーン伯のカイン。私の幼馴染だ」 「こんにちわ。お名前は?」  カインが寄ってきて、ユゥキの顔を覗きこむ。ユゥキは一度ビクリと大きく震えたが、恐る恐るといった感じでカインの方を向いた。 「~~~~~~っ!は、初めまして…祐貴、です…こんなかっこ、ごめんなさい」  耳まで真っ赤にしながらも、ユゥキはちゃんと挨拶をした。その姿を見たカインは、一変、可笑しそうに笑った。 「ずいぶんとまぁ、可愛らしい人だな」  その言葉には大きく頷きたいところだが、このままここで立ち話もしていられない。ユゥキの治療をしなければならない。アイザはカインに一言断って、部屋に向かい歩き始めた。カインはその隣を歩きながら、ユゥキへの興味を隠しもせずに質問を浴びせて来る。 「ユゥキ殿…は異国の方かな?先ほど耳慣れない言葉を発していたけど…」 「あ、うん…」 「ユゥキの母国はニホンというそうだ」 「ニホン?――知らないな。遠い国なのか?」 「えーと、たぶん…」 「無理やりこの国に連れてこられて、よく解らないらしい」  ユゥキの言葉をアイザは補った。アイザとしてはユゥキが奴隷だったと話したくはないが、こう言っただけで聡いカインはユゥキの出自を察したようだった。 「へぇ…」  一言そう呟くと、それきり国に関する質問はしなかった。  ユゥキの部屋に戻ると、すぐさまトルが救急箱と盥をもってきた。どうやらトルもアイザ達の後を追ったようで、治療道具が必要だろうとすぐ準備を始めていたらしい。 「サカリー医師も呼んでおきました」  ユゥキの腕や顔の泥を濡らした布で拭いながら、トルは言った。本当に気のつく男だ。 「すまないな」  アイザは助かったと礼を言ったが、ユゥキは少し表情を曇らせた。 「ごめんなさい」  心底申し訳なさそうに呟く。ユゥキは自分のために何かされることをあまり嬉しく思わないようだった。むしろ、怯えている風もある。なので、アイザはわざと明るい調子で言った。 「今日は一段と派手に落っこちたみたいだったからな。今までの分と合わせてしっかりと診てもらうんだ。そう落ち込むな」  笑っているうちにサカリーが医療用具が詰まった鞄を抱えてやってきた。アイザとカインは部屋の外へ出て待つことにした。  部屋の中からは時折ユゥキの唸り声が聞こえてくる。それから続くサカリーの声に、どうやら痣ができていて、それを押されたようだと解った。 「またにやにやして、いやらしーい」  カインの言葉に、アイザは自分の頬を押さえた。にやにやなどしていないはずだ。カインは少し慌てた様子のアイザを半眼で眺めながら、声を一段落とした。 「――それで?まさかお前が奴隷を買うとは思わなかったな。どういうことだ?」  その声には明らかに非難が含まれていた。それもそうだろう。カインは奴隷の存在を快く思っていない人間だ。そして、アイザもそうだ。そんなアイザの屋敷に奴隷がいることが信じられないのだろう。 「ユゥキは買ったわけではない。行き倒れているのを保護したんだ」  アイザは簡単に説明した。ユゥキを川で救ったこと、母国がどこにあるかも解らないので、この屋敷に住まわしていること。できることならこのまま雇いたいこと。  話していくうちにカインの険しい表情は崩れ、いつもの飄々とした笑顔に戻っていた。 「なるほどな。そして随分と気に入っているご様子で」 「まぁ…働き者だし、シッチとも仲がいいし…可愛いと思うよ」 「そうか。ふぅん…」  そう呟いて、カインはそれきり何も言わない。なんとも居心地の悪さを感じていたアイザだったが、そう時間もたたないうちにサカリーが部屋から出てきた。 「特に目立って悪いところはありません。小さな傷と軽い打ち身だけなので、大丈夫ですよ」 「そうか、ありがとう」  サカリーの言葉にほっと息をつくと、アイザは再び部屋の中に足を向けようとした。しかし、サカリーがそれを阻んだ。 「アイザ様」  アイザを残しカインはさっさと部屋に入ってユゥキに何事か話しかけている。少し警戒をみせているユゥキの側に早く行ってやりたいが、トルがいるので大丈夫だろうとサカリーに向き直る。 「なんだ?」  サカリーは神妙な面持ちで口を開いた。 「三日後にまた、ユゥキの回診に窺ってもよろしいでしょうか」 「三日後に?しかし大きな怪我もなかったのだろう?」  まさか怪我以外に、深刻な病気でも見つかったのだろうか。アイザは俄に不安になった。そんな彼の顔色を読んでか、サカリーは慌てて首を振った。 「いえ、ユゥキがどこか悪いわけではないのです。ユゥキは落馬で臀部に大きめの痣ができてしまっています。痣になっているだけで大きな怪我ではありません。その痣が消えるのは、私の見積もりでは早くて一週間ですが…何日で消えるかを知りたいのです」 「どういうことだ?」  なぜそんなことが知りたいのか、アイザには皆目見当がつかない。理由を教えてほしいと問えば、サカリーは皺だらけの顔をくしゃりと歪めた。言いにくそうに口を開く。 「ユゥキは、その…回復が早すぎるのです」 「早すぎる?」  オウム返しのアイザに、サカリーは頷く。 「はじめこの屋敷にユゥキが来た時、彼の怪我は――肋骨や足首のひびは、どう少なく見積っても全治五週間はかかるものだったのです。しかし、ユゥキは三週間足らずで完治した。しかも、彼は薬を一度も服用しなかったそうですね」  つらつらと語るサカリーの言葉に、アイザは思い出した。来たばかりのころのユゥキは、今以上に警戒心が強く、薬を拒み続けていた。 「ああ、確かに…ユゥキは薬だけは頑として飲まなかったな…」 「全治五週間、と言う中にはもちろん前提として薬を飲むことが含まれているのです。それなのに、倍の速さで治りました」  アイザにはもう、サカリーの言いたいことは分かった。  サカリーは腕の立つ医師だ。経験も知識も豊富で、王属医師団にいてもおかしくないほどの逸材である。そんな彼が、診断を誤っている可能性はほぼ皆無だ。  サカリーは僅かに目を伏せた。 「ユゥキは…異常、です」  その言葉に畏怖が込められていることに、アイザは気付いた。確かに異常だ。しかし、アイザはその異常さを事実と受け入れても、なんの畏怖も嫌悪も感じなかった。むしろ、見たこともない風貌、神秘的とすら感じている黒い髪や瞳に、超人的な力があるのが当然と納得してしまった。  アイザは何も言わずに目を眇め、サカリーの次の言葉を待った。 「アイザ様、私はちっぽけな人間ですから…頭ではわかっていても、ユゥキのことを可愛く思っていても…未知に対する恐怖心は拭えないのですよ」  アイザにばれていることを悟ってか、サカリーはしわくちゃの顔に苦笑を浮かべ、正直にそう言った。 「しかし、これは素晴らしいことでもある。ユゥキの治癒力の要因が分かれば、医療はもっと発展するでしょう。ですから、どうか、回診をお許しください」  なるほど、サカリーは畏怖よりも医者としての探究心の方が勝っているらしい。確かに、怪我の治癒が早まるならば、飛躍的に医療は発展するだろう。が、アイザの胸に苦々しい思いが広がった。 「お前は、ユゥキを実験動物にする気か?」  思わず口から出た言葉は、自分でもはっとするほど険を孕んでいた。  サカリーも目を丸くし、息を飲んだ。 「いや…すまない。分かっている、分かっているんだ。サカリーにそんなつもりがないことは、ちゃんと…」 「いえ、お気になさらないでください。アイザ様がユゥキを大切に思っていることは十分承知しております。もちろん、ユゥキに害をなすようなことはいたしません。この事実を他言するつもりもございません。私一人で行います。もし原因を解明できてもユゥキの存在は伏せるつもりです」  そこまで言われれば、断ることは無理だった。アイザはゆっくり息を吐くと、頷いた。 「分かった。回診を許可しよう。しかし、他の患者の診療も怠らないように」  サカリーはありがとうございます、と頭を下げ、帰っていった。廊下を歩く小さな背中を見送ってから、アイザはやっとユゥキの元へと向かった。  ユゥキはアイザを認めると、しゃべり続けるカインに困惑していたのか、少しだけ安堵したように笑った。信頼を寄せられていることにじんわりと気持ちが暖かくなる。  アイザは微笑みを返しながら、サカリーとの会話を考えていた。ユゥキは不思議だ。分からないことだらけだ。もっと、全てを知れたらいいのに、と。 ◆◆◆

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