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第二章 -7
窓から入り込むまぶしい光に、祐貴は目を覚ました。
まず初めに感じるのは体のだるさだ。昨日の落馬で体を打ちつけたことに加え、昨夜はいつもより眠るのが遅かったため、体が石のように重い。
それでも仕事があるので起きなければならない。祐貴は起き上がると、ゆっくりと伸びをした。もともと寝起きがいい祐貴だが、これまでは目覚ましがなければ起きられなかった。しかしここに来てからは、窓にカーテンもないおかげで自然と定時に目が覚めていた。規則正しい、随分と健康的な生活を送っている。
寝坊しなくてよかったと思いながら、ベッドの側にそろえて置かれている靴を履く。部屋を出て洗面所に向かえば、同じように起きだした使用人たちがたくさんいた。
「ユゥキ!おはよう。ちゃんと寝られた?大丈夫?」
周りの使用人たちと挨拶を交わして顔を洗っていると、シッチが近づいてきた。
本気で心配げな表情の彼に、祐貴は苦笑しながら答えた。
「おはよう。たくさん寝た、大丈夫だよ」
昨夜はいつものアイザの訪問にカインまでついてきて、ずっと話をしていた。シッチもそれを聞き及んでいるのだろう。
「カイン様は口から先に生まれてきたらしいからね」
息を吐きながら冗談めかして言うシッチに、祐貴も笑って返した。そして昨日初めて会ったカインを思い出す。アイザと同じブルネットと青い瞳。ただ髪はアイザよりずっと長く、瞳の青は薄かった。アイザより年かさであるという彼は、随分とがっしりしていて強そうだった。
そのカインをどうとらえていいのか、祐貴は判断しかねていた。
アイザとは本当に気の置けない仲なのだと傍から見てすぐに解った。いい人なのだろうとうっすら思うのだが、彼と対峙した祐貴はどうも探られているような気分になった。
昨日の会話ではカインが一方的に話すばっかりで、しかも話題は王都の流行がどうだこうだと、祐貴にはほとんど理解できないようなものばかりだった。その話の最中、時折カインが投げてくる鋭い視線に、祐貴はひやりとした。それはほんの一瞬なのだが、祐貴は気付いてしまった。
カインは祐貴を不審に感じ、快く思っていないのかもしれない。ただ、カインの反応は普通なのだと思う。祐貴を無条件で受け入れるこの屋敷の人たちがおかしいのだ。
カインには気を張らなければならないだろう。彼もまた城に出入りするような人間であり、祐貴が以前城で賊として追いかけられた過去を知られるわけにはいかない。そう思うと、アイザも騙しているようで気が滅入る。実際、温情に甘え騙しているに等しいのだが。
「ユゥキ、今日は馬の練習はやめておこうね」
シッチが話題を変え、タオルを渡してくれた。こちらの世界には輪奈のふわふわしたタオルはなく、布の質感はどちらかと言うと手拭いに近い。祐貴はそれを受け取り顔を拭いながら頷いた。
「うん。わかった」
しかし、確か祭りは二日後だ。祐貴としても昨日打ちつけたところがまだ少し痛むので素直に頷いておいたが、今日を休めば明日しか練習する時間がない。それで馬に乗れるようになるとは微塵も思えなかった。
祭りのことを抜きにしても、いつまでも馬に乗れないのは痛い。いずれ目指す王都も、歩いていく他ないだろう。
『せめて自転車とかあればいいのに…』
使用人たちは各々、自分の仕事へと散っていった。祐貴もシッチと別れ、ぶつぶつと呟きながら水汲みへくりだした。調理場の外に置かれている空の樽を転がしながら、井戸の元へと向かう。
アイザのこと、カインのこと、乗馬のこと、祭りのこと、王都のこと、お城のこと。いろいろ考えているうちにあっという間に井戸に辿り着く。
樽の蓋を開くと、釣瓶を使って井戸の水を汲み上げる。鎖が手に食い込み痛い。初めてやった時はマメやタコができるかと思っていたのだが、作業に大分慣れてきた今でも、祐貴の手は何の苦労も知らないように綺麗なまま変わりなかった。
『よいしょっと…!』
作業の間は考え事を放棄し、ひたすらそれに集中する。そのため近づいてきた足音があることに、祐貴は気付かなかった。
「おはよう」
「!」
急に後ろから掛けられた声に驚き、祐貴は思わず釣瓶の鎖を手放してしまった。水が入っていた桶が勢いよく水面に叩きつけられ、ばしゃんと激しい音がした。
同時に慌てて振り返ると、目の前いっぱいに青が迫っていた。瞬時に、それが瞳であることに気付いた。その近すぎる距離に祐貴は反射的に体を引いた。
「うっわわわ…!」
「おっと、危ない危ない」
危うく井戸の中に落ちそうになった祐貴は、間近に迫っていた人物――カインに腕を引かれ助かった。驚きの連続で早鐘を打つ心臓をおちつけるように大きく呼吸をして、井戸とカインに挟まれている状況から抜け出すように一歩左に避ける。
「あ、ありがとう……カイン…ええと……さ、ま…?伯?」
「様、は要らない。敬称はまだ解ってないんだろう?カインと呼んでくれればいい」
「……」
祐貴はこくりと首肯した。
「朝から水運びか。大変だなぁ。辛くないか?」
カインは樽を撫でながら訊いてきた。
「……仕事、だから…平気」
昨日のようにトルやアイザはいない。二人きりの状況に、祐貴は緊張して体が強張るのを止められなかった。
なぜ、客人である彼がこんな早くに、しかも屋敷の端っこにある井戸にやってきたのだろうか。
その理由は祐貴にあるとしか考えられなかった。
「そうか。朝の水汲みはいつもユゥキがやってるのか?」
「……うん」
応えると、カインは樽を見ていた視線をこちらに向け、ふっと苦笑した。
「そう緊張するなよ。取って食おうってわけじゃない」
そう言われても、祐貴の緊張は解けやしない。カインの目的が解からなければ。
「少し話をしたかっただけだ」
話なら昨日散々した。つまり、カインがしたい話というのは、二人きりでないとできない内容――アイザやほかの使用人には聞かれたくはない話、ということだ。
「……話、なに?」
一体何を言われるのだろう。
やましいことがあると思われては駄目だ。緊張は相手にもしっかり伝わってしまっている。祐貴は自分を叱咤し、せめて声が震えないよう気をつけながらカインを促した。
その祐貴の姿をどうとらえたのか、カインは目を眇めながら口を開いた。
「――アイザはな、有望な奴なんだよ」
「ユウボウ…?」
意味が分からずオウム返しにすると、カインの目元が和らいで苦笑に変わった。
「アイザは偉くなれる、上に行ける。それだけの度量と家柄を持っている人間なんだ」
『ドリョウ』の意味も良く解らなかったが、祐貴はもう聞き返さなかった。カインの言いたいことはだいたい解った。アイザは今でもこんな大きな屋敷の主であり、城に出入りするくらいの人間だが、さらに偉い人物になると、そう言いたいのだ。
それは祐貴も理解していた。シッチはことあるごとにアイザの素晴らしさを讃えるし、他の使用人たちも口を開けばアイザを褒める。たとえ言葉にせずとも、この屋敷に――アイザに仕えていることを誇っている様子がありありと伝わってくるくらいだ。祐貴自身もアイザに触れて、その人柄の良さをしみじみ感じている。
祐貴は、そんなことは知っている、と視線だけで返した。カインの伝えたいことはそんなことではないのだろう。きっと、その先にあることだ。
「アイザ自身も出世を望んでいる。王のために尽力したいと」
「そう…」
アイザが王様を好いていることも、祐貴は知っている。アイザの口から王の話題を聞いたのは一度だけだったが、それだけでアイザが王を心から慕っていることが理解できるほどだ。
「俺もアイザには出世してもらいたい。もっとずっと上にいってもらいたいんだ。あいつは真面目すぎるきらいもあるが、いい人間だし…俺はアイザを弟のように思っている。可愛くて仕方ないんだ。あいつの望みを全力で支えたい」
カインが祐貴の目を窺うように覗きこんできた。言っている意味が解るかと問うている。祐貴はただ頷いた。
その瞬間、カインの水色の目が煌めいて、あの探るような色を湛えた。
「だから、正直に答えて欲しい――ユゥキ、お前は何者だ」
「なに、もの…って…」
息がつまり、声が震えた。
もしかしたら、カインは城に忍び込んだ賊が――実際には賊ではないのだが――祐貴だと知っているのかもしれない。この国では黒髪は少なく、黒目は全くいないらしい。賊の特徴が知れ渡っていれば、すぐに祐貴だと判るだろう。
「国はニホンと言ったな。それはどこにある?本当に奴隷として連れてこられたのか?」
「し、知らな…わからない…!」
詰め寄ってくるカインに、祐貴は一歩引いた。しかし、逃すまいとするカインに腕を掴まれ、びくっと体が震えた。
怖くなって涙が滲んだ。このままカインに捕まって、自分は一体どうなるのだろう。また売りとばされるのか、それとも、牢屋にでも入れられるのだろうか。もしくは、殺される…?
祐貴はひたすら頭を振って、ただわからないと主張した。すると、腕の拘束が緩んだ。
「おいおい、泣くなよ。くそ、何も言えなくなるじゃないか」
恐る恐るカインを見上げると、彼は困惑しきった顔でがしがしと頭を掻いた。
「あーまったく…解っているんだ、ユゥキが悪い人間でないことは…だけどなぁ…」
祐貴の濡れた瞳と視線がかち合うと、カインはさらにバツの悪そうな顔になった。
祐貴は呆然として、ただカインを見つめた。どういうことだろう。賊が祐貴だとはばれていないようだ。
「…わからない…」
ぽつりと祐貴は呟いた。このわからないは、カインがなにをしたいのか、伝えたいのかが解らないということだ。カインにもその意が通じたようで、彼は一つごほんと咳をしてから話し出した。
「俺はアイザの将来のために少しでも不安の種を取り除いておきたいんだ」
「不安…種…」
つまり、カインは祐貴のことを不安要素と認識しているということか。祐貴はぐっと眉根を寄せた。
「ここの屋敷の使用人は全員気心知れる仲で、俺も信頼している。そいつらがみんなユゥキのことを認めていると言うのだから、ユゥキがアイザを騙して近寄っているわけじゃないと解っている。俺も、昨日一日だけだが話してみて悪い人間ではないと思った。この涙だって演技には到底見えないしな」
そう言って、カインは祐貴の眦を親指で拭った。突然のことに驚いたが、祐貴はぐっと身を固くしただけでカインの次の言葉を待った。
「だが、ユゥキ、お前には解らないことが多すぎる」
やっと、祐貴はカインの言いたいことをしっかり理解できた。
身元があまりにも不明すぎる祐貴が、この先アイザの立身の妨げになることがあってはならないと危惧しているのだ。カインの危惧は、杞憂ではない。祐貴は一刻も早くここを出ていくべきなのだ。
もちろん祐貴に、アイザの邪魔をするつもりは毛頭ない。しかし、もし城にいたことがばれたら。そんな人物を匿っていたとあっては、アイザの経歴に必ず瑕がつくだろう。
ぐっと黙り込んで唇を噛みしめた祐貴を見てなにを思ったのか、カインは祐貴の頭をぐりぐりと撫でつけた。カインは祐貴よりもずっと背が高いため、押さえつけられるようになって少し首が痛い。
「悪かった。故郷も解らず不安なのはユゥキの方なのに、責めるようなことを言って。身元不明の奴なんて、他にもいるんだ。厨房のレコイとかもそうだしな」
どうやらカインは涙にとことん弱いらしい。心底申し訳なさそうにするカインに、祐貴の方が申し訳なくなってきた。
だが同時に、祐貴は少し安堵した。カインは祐貴を訝しんでいるわけでも敵視しているわけでもない。
「ただな…お前は随分気に入られているようだから…」
ぽつりとカインが漏らした。
それはアイザに、と言うことだろう。祐貴にも自覚がある。アイザは使用人にも分け隔てなく親愛の情を注いでいる。
「ただ、この屋敷に…アイザに仕えるだけなら問題ないんだ。身元不明でも…悪い人間でなければ…」
見上げたカインの顔は、随分憂いを湛えている。
「こんなこと、ユゥキに言ったって仕方ないのは解っているが、アイザがユゥキを気に入りすぎていることが…問題なんだ」
「気に入りすぎてる…?」
それはどういうことだ、と祐貴が尋ねようとした時、遠くから足音と声が響いてきた。
「ユゥキー!!」
祐貴を呼ぶ声はシッチのものだ。慌てた様子でパタパタとかけてきた彼は、カインの存在を認めると目を丸くした。
「えっ!カイン様!? おはようございます」
慌てていたというのに、ピタッと立ち止まると、ぺこりと頭を下げる。
「ああ、おはよう」
カインが微笑んで返す。祐貴はシッチに首を傾げた。
「シッチ、どうしたの」
祐貴の声に、シッチはハッとしたように顔を上げて、焦ったようにしゃべりだした。
「どうしたのじゃないよ、ユゥキが随分遅いから…!」
「ああ、すまない。俺が話し込んだから…。でも、ちょっとくらい朝食が遅れたって平気だろう?」
カインが弁明したが、祐貴はしまったと顔を顰めた。厨房に水の蓄えはもちろんあるが、祐貴が水を運んで行かないと本格的な朝食作りは開始されないのだ。迷惑をかけてしまった。
祐貴は謝ろうと口を開きかけたが、それより早くシッチが声を上げた。
「そりゃあ、僕たちだけだったら遅れてもいいんですけど、僕たちだけではないんです!つい先刻、リーナ様がいらっしゃって…!」
シッチは随分焦燥に駆られている。そのやや早口の言葉に含まれたリーナという名前に、祐貴はさらに首を傾げた。知らない名だ。
しかし、カインはよく知る人物らしい。驚いたように僅かに目を開き、シッチに聞き返す。
「リーナ嬢が?こんな早朝に?」
「そうです!っもう、もう、いきなりのおこしで…っ!とにかく早く、食事の準備をしないと…!」
祐貴は急いで水汲みを再開した。シッチのこの慌てっぷりでは、謝るより先に手を動かした方がよさそうだ。シッチも手伝うと言って、釣瓶を引いてくれた。
「なら俺が時間稼ぎをしておいてやろう。そう慌てずに来いよ」
カインは祐貴とシッチにそう声をかけ、その場を去った。
残された二人は、ひたすら水を汲みあげていた。
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