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第二章 -8
調理場は火事場のような慌ただしさだった。
祐貴たちが水を届けると、すでに調理場にはいい匂いが立ちこめていた。三人の料理人たちは届いた水を確認すると、さらにそれを使って調理を始める。祐貴とシッチは料理はできないが、今日ばかりは他の仕事は後回しにしてこまごました雑用を手伝った。給仕たちもバタバタと動き回っている。
次々できていく料理を見ながら、いつもよりも品数が多いことに祐貴は気付いた。さらに、使われている食材も、晩餐などにしか使わないような高価なものである。
急にやってきたリーナという客人は、よほど身分の高い人間なのだろうか。祐貴はそう思い誰かに聞いてみたかったが、みな忙しそうにしていてそれどころではなかった。
完成した料理が給仕によって運ばれていき、しばらくして騒がしさがいったん収まった。
「はぁー…朝からすげー仕事したー」
レコイが大きく息をつくと、他の人たちも次々に声を上げ、互いを労った。一段落ついたようだ。
しかし、運ばれていった料理は数人分だけで、残りの料理は大皿に載せられたまま厨房に残っている。
「もっていかないの?」
祐貴が近くのメイド――ルゥという浅黒い肌をした若い女性だ――に尋ねると、彼女は優しい声で答えてくれた。
「ええ、これは私たちの分の朝食だからいいのよ」
「え?じゃあ、もっていかないと…?」
食事はいつも大きな食堂で、アイザと使用人たち全員で一緒にとっていた。トルとアイザの乳母であるマリィだけは食事の世話をしてくれて時間をずらしていたが、皆で騒がしくとる食事は、アイザへの最低限の礼儀があるものの遠慮がなく楽しい時間だ。
「今日はリーナ様がいらっしゃるから、私たちの食事はアイザ様たちが食べ終えてからなのよ。同席してはいけないの。それに、私は今からリーナ様のお部屋の用意をしなくっちゃ!特別綺麗にしなくちゃ!」
ルゥは苦笑しながら言い、厨房から出て行った。
代わりに側に寄ってきたシッチがルゥの言葉を説明してくれた。
「使用人が主人と席を同じくするなんて、普通はないんだよ。本当は従者の僕や女中のルゥとかがアイザ様の給仕をすべて行わなければならないんだけど、グラッドストン家は特別なんだ」
「そうなんだ」
そうではないかと祐貴も思っていた。今まで人を雇う場面に出くわしたことはないが、偉い人と雇われている人が一緒に食事をするのは普通ではないと祐貴にだってわかる。
しかし昨夜はカインがいたが、皆一緒に食事をした。つまり、カインも変わっているということだろう。そして、リーナはそうではない。
「リーナ…って誰?」
ずっと気になっていたことを聞くと、シッチに怒られた。
「リーナ『様』だ、ユゥキ。アイザ様は呼び捨てでも許して下さっているけど、リーナ様には敬称を必ずつけるんだ」
そう言って、僕の教え方が悪かったのかなぁ、敬語からしっかり叩きこむべきだったなぁ、と落ち込むように呟くシッチに、祐貴は慌てた。
「リーナさま!リーナさまだよね、覚えた!ちゃんと言う!」
「うん、よろしい」
「それでその、リーナさまって、誰?」
やっと話が戻ると、シッチは少し得意げになった。
「前に一度話したかもしれないけど、リーナ様はアイザ様の婚約者だよ」
「コンヤクシャってなに?」
「結婚の約束をしている相手」
「結婚?アイザが?」
「そうだよ。いずれリーナ様はグラッドストンに輿入れなさるんだ」
「………」
祐貴は言葉を失くし、言われた意味を頭の中でリフレインさせた。そんな祐貴に、シッチが不思議そうに首を傾げた。
「言葉難しかった?解らない?」
「あ…ううん。結婚って、その…びっくり、した…」
そう、驚いたのだ。ここにきて随分経つが、アイザはそういった関係の女性がいるなど、今まで匂わせもしなかった。しかしアイザの年齢を考えれば、結婚していてもおかしくないのかもしれない。
「リーナ様は最高貴族ディズール家現当主のご息女で、ディズール宰相閣下の妹君なんだ」
うっとりしたようにシッチは語る。
宰相はこの国で二番目に偉いと聞いた。その妹、そしてその家柄もかなり高貴らしい。
シッチはそんな女性を婚約者に持つアイザが誇らしい様子だ。
「ディズール家と結びつきができれば、アイザ様の評価も一気に上がるんだ。今は古参たちに甘く見られているけど、きっと年齢の壁を越えてアイザ様に相応しい地位をいただける」
「そう、なんだ」
そう聞く限り、政略結婚、という言葉が祐貴の頭には浮かぶ。カインの言葉が思い出された。アイザは出世を望んでいる、と。
しかし、アイザがそのような手段をとる気はしなかった。
結果的に政略結婚となるだけで、もともと恋人同士だったのかもしれない。リーナのためにいつもと違った豪華な料理をするレコイに、部屋の用意を張り切るルゥに、祐貴は何故か確信めいてそう思った。
真面目で優しいアイザは、恋人にはどう接するのだろう。ただの拾い物である祐貴に対してでもあれだけ甘やかしてくれるのなら、恋人であるリーナにはその比でないのだろうか。
まだ見ぬリーナとアイザの二人が並ぶ姿を想像して、祐貴は少しだけ気分が落ち込んだ。自分より大切にされるであろうリーナに、僅かに嫉妬めいた気持ちが沸き起こる。わけ隔てなく誰にでも優しいアイザがただ一人特別視する人物に対する羨望が、確かにそこにあった。
あまりにも子供っぽいその感情に、祐貴は俄に恥ずかしくなった。
祐貴はこの屋敷の面々に、ちやほやされすぎているのだ。だから、こんな我儘な気持ちになる。
沈む気分を紛らわすように、祐貴は話を断ち切った。
「庭に水撒き、まだだから行ってくるね」
「あ、僕も一緒に行くよ。リーナ様の部屋に飾るお花を取ってこなきゃ」
シッチまでリーナを特別扱いするのか、と思ったところで、祐貴は自分の矮小さに顔を赤くし、ぶんぶんと首を振った。アイザの選んだ人ならば、きっと祐貴も好きになる人物だろうと言い聞かせて。
◆◆◆
あまりにも急な来訪に、アイザも驚いていた。驚きと、正体不明の焦りがあった。
夜明けとともに訪れた婚約者であるリーナ=ディズールは、従者を二人連れているだけだった。
とりあえず彼女を客間に通し、朝食もまだだと言うリーナのために、使用人たちに声をかけた。おかげで屋敷の中は一気に騒がしくなった。
客間にある布張りの椅子に向かい合って腰掛け、アイザは何と言ったものか、言葉を探した。リーナは姿勢よく座り、じっとアイザを見つめてくる。フリルやレースをふんだんにあしらった流行りのドレスを着て、綺麗に纏め上げられた金髪には髪の輝きを損なわせない程度に輝く簪が飾られている。その高貴な身分に見合った凛とした姿で、アイザの言葉を待っていた。
「連絡をくだされば、こちらもいろいろと準備をしたのですが…」
苦難の末にアイザの口から出たのは、そんなありふれた言葉だった。しかし、リーナほどの身分の者が連絡もなしに急に他家を訪れるなどまずない。
途端、リーナの薄茶色の瞳がきらりと光る。
「あら、急に来られると困ることでもございますの?アイザ様はいつまでも私の元にはお越しにならないから、私が出向くしかございませんでしょう?」
はっきり棘がある言葉に、アイザは反論しようもない。
「申し訳ございません。なにぶん、忙しく…」
「そうですわね、忙しいのでしょうね。二年間もディズール家に訪れる暇がないくらいには」
二年も行っていなかったのかと、アイザは自身の杜撰さに呆れた。言われてみればそうだったかもしれない。王城で開かれる迎春の宴では会っていたため、そんなに彼女の元を訪れていないとは思っていなかった。
「アイザ様、いったいいつ私をこのお屋敷に迎え入れてくださるのかしら?私ももう二十になります。嫁き遅れと言われるのは我慢なりませんわ」
「それは…」
確かに二十にもなれば、すでに結婚をして子供がいてもおかしくない年齢だった。実際アイザの母も、その頃にはアイザを産み落としていた。
これまでなんだかんだと理由をつけて、結婚を先延ばしてきたのはアイザだ。それに業を煮やした突然の訪問なのかもしれない。
アイザは返答に窮した。なんと言っていいものか解らないが、確かなことは、まだアイザには結婚の意思がない、ということだ。
そのとき、部屋の扉が叩かれた。コンコンと響いた音に、アイザの側に仕えていたトルが、扉へと向かう。
アイザもそちらに目を遣れば、入ってきたのはカインだった。その姿に、アイザは内心でほっと息を吐いた。
「やあやあ、ご機嫌麗しゅう、リーナ嬢」
カインはにこにこと笑顔を浮かべながら、大股でこちらに寄ってきた。そしてリーナの元に跪くと、彼女の白い手を取って口づけを落とした。
「まぁ、グリーン伯、お久しぶりでございます。こちらにおいでだったのですね」
「明日の収穫祭に行こうかと思いまして、アイザの元に滞在させてもらっているんですよ」
「あら、リートの収穫祭かしら?」
「そうですよ、グラッドストン領の収穫祭はなかなか楽しくて――…」
カインはそのまま空いている椅子に腰かけ、ぺらぺらと話し出す。カインは話が上手い。リーナを引きつけ、彼女も楽しそうに受け答えをしている。
とりあえず先ほどまでの張った空気が緩み、アイザはカインに感謝した。カインは何の了承もなしに、いきなり割って入って話し込むほど不躾ではない。アイザがリーナを苦手としていることを知っているため、助けてくれたのだろう。
アイザは体の力を抜いて、二人を眺めた。
リーナが生まれる前から、グラッドストン家はディズール家に生まれる女性を嫁に迎えいれる約束をしていた。アイザの父が苦労を重ねて取り付けたのだと聞いたことがある。
それは全てアイザのためだ。貴族内で最も力を持つディズール家と繋がりを持つことで、アイザの地位が上がるように。その父の心が嬉しく、アイザは幼いころからリーナと結婚をするのだと何の疑問も持たずに思っていた。リーナを愛し、両親のように暮らすのだと信じていた。
しかし、成長するにつれてその心に影がさしてきた。
リーナは生粋の貴族だ。幼いころから貴賎をはっきりと区別し、自分よりも下の者は蔑む。それは婚約者であるアイザに対してもだった。
グラッドストンもそれなりに名のある貴族ではあるが、ディズールには及ばない。成長した今は流石に表立って蔑むことはしないが、言葉の端々、態度から少しずつ滲みでることがある。
アイザ自身は構わなかった。それでも彼女のいいところを探そうとした。だが、その侮蔑の目が家族や使用人たちにも向けられるのはどうにも耐えがたく、心は意思とは反対にどんどんと離れてしまった。きっと自分は彼女を愛せない。彼女も自分を愛することは決してない。じわじわと、しかしはっきりと、アイザは確信した。
それでもリーナとは、適齢期になれば結婚するつもりだった。父が結んだ約束を自分が破ることは許されないし、なにより周りはこの婚約を祝福している。自分が彼女を苦手だという理由だけで解消されるものではないのだ。
その決心まで破れてしまったのは、十五の頃からだった。そのころにはすでにアイザは父に倣い登城し、仕事を手伝い始めていた。
そこで初めて父親でなく、アイザ自身に一つの仕事を任された。簡単な物ではあるが、アイザの力が認められ、信頼され任された仕事だ。アイザはそれが誇らしく、嬉しかった。
だがそのとき、他の貴族議員が噂していた内容をいくつかアイザは耳にしてしまった。
「ディズール家の力は流石だな。何もできない小僧に仕事をぽんと与えられるのだから」
「リーナ様の存在がなければまだ登城すら許されないのに」
実際、その時与えられた仕事にディズール家の手が回っていたのかは解らない。しかしその時のアイザには、違うと言いきれるだけの自信はなかった。
ただ一つ解ったことは、どれだけ頑張って尽くして成果を上げても、ディズール家の婚約者を持つという事実により、アイザ自身の力は正当に評価されることはないということだ。それが婚約者から伴侶に変わり、両家に確実な結びつきが生まれれば今の比ではない。
それから暫く仕事をこなしていって、アイザにも随分自信がついてきた。与えられた任務には精一杯取り組み、期待以上の成果を上げてきた。それでも噂は絶えず、あんなものは妬み嫉みだと思おうとしても、心は晴れない。家柄は確かに大切だ。出世はしたかった。王の側近までのし上がって、彼のそばで誠心誠意仕えたいと思っている。だけどそれは実力で勝ち取りたかった。
悔しくて、辛かった。ただでさえ愛せない相手なのに、さらに自分の力を覆い隠してまで結婚する理由は何だろうと悩んだ。
そして婚期を引き延し続けた。贔屓などないと、ディズール家と繋がりがあろうとなかろうと関係ないと、周りが確信するほどに力をつけ大きなことを成し遂げてから結婚したいのだとディズール家に申し入れた。そこにはディズール家から婚約を解消してくれれば、という打算もあったのだが、それは上手くいかなかった。
リーナもディズール家当主もアイザの不誠実な態度に業を煮やしてはいるものの、グラッドストンは結構な名家であり、アイザは若手の中でも出世頭となった。今ではこれ以上ディズール家長女に見合う相手はいないと考えているのだ。
格下であるアイザから婚約解消を申し込めない限り、結婚は免れない。それを思うと自然と溜め息が漏れた。
そろそろ、腹を据えなければいけないのか。そう思ったとき、ふとユゥキの顔が浮かんだ。
使用人たちはみな、リーナとアイザの結婚を望んでいる。それがアイザの出世の近道と知っているからだ。でも、彼はどうだろう。アイザが結婚すると聞き、一体どう思うだろう。すごく気になった。しかし同時に、何故か知られたくないと強く思う。リーナの来訪を知った時に感じた焦りはこれだ。ユゥキに婚約者の存在が露呈するのが嫌だったのだ。
なぜだろう、と思ったところで、アイザの思考はリーナの声に引き戻された。
「…―――グリーン伯もこちらにいらしているのだったら、その分の手紙も預かればよかったわ。アイザ様、お兄様から手紙を預かってきましたの」
「手紙?」
「お兄様がアイザ様に手紙を出すと言うから、ちょうどいいと思って私が持ってきましたの」
リーナがそう言うと、側に控えていたリーナの従者がさっと封筒を取り出しアイザの目の前に置いた。そこには宰相の封印がおされている。
リーナの兄と言えば、ディズール宰相閣下だ。
「失礼」
アイザは一言断ってから、トルが差し出してきたナイフで封を切った。中には二枚の紙が重なっており、一枚目は先日提出した橋の修復に関する報告書に対する返答だった。
カインの分もあると聞いて、その内容を悟ったのだろう。カインが「どうだった?」と尋ねてきた。
「問題ない。このまま進行して良いそうだ」
そこには、報告書の内容が承認されそのまま修復作業に入る旨が記されていた。アイザは安堵した。
「俺の方も問題ないといいが」
カインへの手紙は、今頃グリーン領の屋敷へ届いているのだろう。仕事に抜かりのないカインのことだ。きっと彼も問題ないだろうとアイザは思った。
「わざわざありがとうございました」
アイザがリーナに礼を述べると、彼女は何でもない風に目を伏せた。
「お兄様の頼みは断れないもの」
リーナは誰よりも宰相である兄を愛している。ディズール宰相は見目も麗しく仕事も申し分なくできる立派な人物である。しかしリーナが彼を慕う理由はそれよりも、唯一彼女の上でも下でもない身分であるからかもしれない。
それからまたカインとリーナの会話が盛り上がったが、途中で朝食の準備ができたと声が掛かり、三人は連れだって食堂へ向かうことにした。
カインとリーナの二人を先に送りだしながら、アイザは宰相から送られた手紙の二枚目を抜き取り残りの封筒をトルに預けた。
その二枚目は、報告書とは別に書いた手紙対する返答だった。
――『ニホン』という国を御存知でしょうか……
それに対する答え。
アイザはその手紙を懐にしまい、二人の後を追った。
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