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第二章 -9
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「今日は敬語の勉強をしよう!」
うず高く積まれた本をぽんぽんと叩きながらシッチは言った。
午後の授業である。
祐貴はシッチの気迫に少々押されながら、頷いた。その様子に満足したのか、シッチはにこっと笑う。
「ユゥキもいずれはリーナ様にも仕えることになるのだから、ちゃんとした敬語を覚えなくちゃね。アイザ様に恥をかかせては駄目だ」
「え…あ…」
祐貴が使用人として留まり続けると確信するようなシッチの言葉に、祐貴は何とも言えず曖昧に微笑んだ。
しかもまたリーナの名前が出た。今朝からずっと、リーナの名をよく耳にした。使用人たちが噂話をするのだ。ついにグラッドストン家にリーナ様を迎え入れるのだろうと。それほど皆がリーナとアイザの関係を祝福しているのだと解ったが、そのたび無条件に妬みを覚えてしまう自分に嫌気がさす。リーナのことをよく知りもしない癖に、いつの間にこんな嫌な人間になってしまったのだろう。
まずは挨拶から、と張り切った様子のシッチに、祐貴も気持ちを切り替えて懸命にしがみついていった。
シッチの丁寧な教えがいいのか、今までも教えられた言葉はすぐに理解できた。今回も変わらず、授業はスムーズに進んでいく。
そのまましばらく勉強を続けていたところで、シッチがふう、と息を吐いた。
「ん、結構進んだね。ちょっと休憩にしようか」
その言葉に祐貴もほっとした。勉強は苦痛ではないが、長時間になるとやはり疲れてしまう。
「そうだ!おやつあります。レコイにいただいた、お菓子」
さっそく習った敬語を使ってみる。するとシッチは嬉しそうに笑った。口の端がきゅっと上がった可愛い笑みだ。
祐貴はいったん机を離れ、ベッドサイドの抽斗に入れておいたクッキーのような焼き菓子を取り出して戻った。今朝貰ったばかりの紙に包まれたそれを開くと、甘い匂いが立ちこめる。
シッチと二人でそれをさくさくと齧りながら、その甘みに癒される。
「ユゥキの国にはどんなお菓子があるの?」
シッチは休憩中には祐貴を質問責めにする。未知の国に対する好奇心が疼いて仕方ない様子だ。勉強中は教える立場で質問をじっと我慢しているようだ。
なので、祐貴も障りのない程度ならできる限り答えるようにしていた。
「えっと…マンジュウとか…ダンゴ…とか?ダイフク?かな?」
和菓子と言えばそういった感じだろうか。洋菓子はよく食べていたが、日本と言えば和菓子だ。自信なさげに祐貴は並べていく。
聞いたとこのない単語に、シッチの目が好奇心にきらきらと輝く。
「それってどういうの?おいしい?」
「おいしいよ。ええと、こう…モチモチ、して…」
「モチモチ?ってなに?」
説明が難しく、祐貴は首を捻る。言葉はだいぶ上達したが、擬音語などはこちらの言葉では言い表せない。
「んんー…あ、そうだ、こういう感じ」
ぱっとひらめいた祐貴は、腕を伸ばし向かい合うシッチの頬をつついた。
「シッチのほっぺみたいな…あ、柔らかい…」
柔らかそうだと思っていたが、指先から伝わる熱を持った感触は気持ちよく、安堵をもたらした。流石若いな、と祐貴はそのままぷにぷにと弄ぶ。
シッチはそれが気に入らない様子で、頬をかあっと赤らめて祐貴の手を掴んだ。
「もう!やめてよ!」
「あ…もう少し…」
離された手が物寂しく、祐貴は反対の手を伸ばしたがそれはシッチに届く前に叩き落とされた。
シッチは子供扱いされたと思ったのか、ものすごく憤慨した様子だ。
「駄目!だいたい、ユゥキの方がすごく柔らかそうじゃないか。自分の頬で説明しなよ!」
仕返しだと言わんばかりにテーブルに乗り出し、シッチは祐貴の頬に手を伸ばした。ぶにっと指で挟まれ祐貴は慌てて抵抗するが、シッチは楽しそうに両手で祐貴の頬を引っ張る。
「ほらほら、ユゥキのが柔らかい!とても二十歳とは思えないね!」
「痛い!離す!シッチのが柔らかいってば!」
「そんなことない!」
『シッチのほっぺた超ぷにっぷにじゃないか!パウダービーズも驚きの柔らかさだよ!』
「なに言ってるか解らない!」
そのまま二人で激しく攻防を繰り返しているうちに、祐貴とシッチは二人して椅子からガタンと転げ落ちた。その拍子にユゥキはゴンとテーブルに頭を打ちつけてしまった。
「いっ…」
「ぷっ」
痛みに顔をしかめる祐貴にシッチが噴き出した瞬間。
――ドサドサドサッ
「ぎゃっ!」
「わっ!」
テーブルの上に積まれていた本が、バランスを崩し二人の上に降りそそいだ。
「いったー…」
二人して強かに打ちつけられた頭を抱え、唸る。顔をあげて見つめ合うと、二人同時に噴き出した。
「あははっ…なにやってるのさ!ユゥキ涙目!ふふっ…そんなに痛かったんだ!」
「ふっ…そんなの、シッチだって!ははっ…」
何がおかしいのか聞かれると答えようがないのだが、祐貴は体を震わせて笑う。シッチも同じ様子で、けらけらと声をあげた。笑えば笑うほど、痛みとは別に涙が湧き上がってくる。
どうしようもなく楽しくなって、部屋の扉がノックされたことも開いたことにも、二人は気付かなかった。
「随分楽しそうだね」
不意に上から降ってきた声に目を向けると、優しく微笑むアイザが二人を見下ろしていた。
「アイザ様!」
シッチは慌てて立ち上がり、姿勢を正す。
「いえっ、その…っど、どうされました?」
真っ赤な顔になっていつになく焦るシッチは、床で笑い転げている醜態を見られたのがよほど恥ずかしかったらしい。
祐貴もそんな子供っぽい姿を見られていたたまれず、俯きながら散らばった本をかき集めた。
二人の心中を察してか、アイザは微笑むだけで今の状況についてはそれ以上何も言わなかった。シッチの方を向くと軽く頷いた。
「ああ、リーナたちと少し出かけてくるよ」
リーナという言葉に、祐貴は本を拾う手を止めて二人の方に目を向けた。たち、ということは、カインも一緒なのだろう。
じっと向けられた祐貴の視線に気づいて、アイザは首を傾げた。
「ん?ユゥキも行きたいか?」
優しく言われて、慌てて首を横に振る。アイザはくすりと笑うと、シッチに視線を戻した。
「留守番を頼んだよ」
「解りました」
「それから、明日はうちの馬車で行くから用意をしておいてくれ。敷物は二つ重ねて」
「織物より毛皮の方がいいでしょうか?」
「そうだね、だいぶ寒くなってきたから…たのんだよ」
「はい!任せてください!」
シッチはアイザに仕事を頼まれるのが大好きなようで、心から頷いているのが解る。そんなシッチを一撫でして、アイザは祐貴にも目を向けた。
「ユゥキもシッチを手伝ってやってくれ」
「はい」
そう答えると、アイザは少し驚いた顔をした後、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
「ああ、敬語を覚えたんだね」
「はい、今日はその勉強を」
アイザの言葉にシッチが頷く。そうか、と呟いてから、アイザは部屋を出て行った。
「行ってらっしゃいませ」
祐貴とシッチは声をそろえて送り出した。
その後、「あんな姿をアイザ様に見られたのはユゥキのせいだ」と主張するシッチとお遊びのような喧嘩をまたしてから、二人はアイザに頼まれた馬車の準備をするべく移動した。
庭の隅にある大きな納屋に、馬車は収納されていた。
「すごい、立派だね」
馬に乗ったことがなかった祐貴だが、もちろん馬車にだって乗ったことはなかった。こんなに間近で見るのも初めてだ。
綺麗に装飾された馬車は、中も豪華で紅いビロード張りの椅子は柔らかく、ゆうに六人は乗れる大きさだ。
シッチと二人、中のほこりをはたき、外装を綺麗に磨いていく。グラッドストン家ではあまり使わないのだろう、馬車はほこりをたくさん被っていた。
「ユゥキは馬に乗れないからね。明日の収穫祭には馬車で行くんだって」
入口の取っ手を布で磨きながら、シッチが言った。
「えっ」
祐貴は思わず手を止めた。なんで馬車の準備をするか、考えてすらいなかった。
祐貴が馬に乗れないがために、わざわざ馬車を引っ張り出させてしまったのか。申し訳なさが募り、祐貴は慌てた。そこまでして連れて行ってもらうなんて、厚かましくてできない。
顔色を変えた祐貴に、シッチはその心を読んだらしく、慌てて言葉を継いできた。
「いや、別にユゥキのためってわけじゃないよ。明日はリーナ様もご一緒なさるから、馬じゃ行けないんだ。だから、どのみち馬車だから、ユゥキには幸運だね」
「そう…」
シッチの言葉に祐貴は少し安堵したが、それとは別にもやっとしたものが胸に湧く。
「リーナ…様も行くんだ」
「カイン様も行くと言ってたよ」
「へぇ」
それはそうだ。客人を、しかも婚約者を差し置いて、使用人たちとだけ出かけるはずもない。連れて行ってもらえるだけありがたいと思わなければならないのだろうが、祐貴は素直に喜べなかった。
夕食ももちろん、アイザと使用人たちは別れて食べた。
シッチは明日の収穫祭がすごく楽しみのようで、他の使用人たちから頼まれる土産をにこにこしながら聞いていた。祭りは三日間開かれるので他の使用人たちも二日目から交代でいくらしいが、出店の良い品は初日でないと売り切れてしまって手に入らないらしい。
食事を終えると後片付けをし、翌日の分のいろいろな仕込みをしてから就寝準備に取り掛かる。明日の朝は早いので、祐貴もシッチも今日は早めに自室に戻った。
祐貴は初めてこの屋敷に来た時に泊まった客室に、そのまま住まわせてもらっている。本当は使用人たちが住む大部屋へと移動するべきなのだが、ベッドの数がたりないため甘えさせてもらっていた。
広い部屋には祐貴だけで、たくさんの人間が住んでいる屋敷と思えないほど静かだ。食事の時の騒がしさとのギャップが少し寂しかったりする。
祐貴はすぐに眠らず、ベッドに腰を下ろすと本を広げた。昼間シッチから借りたものだ。窓から差し込む月明かりと、ベッドサイドに置いたランプのおかげで文字を追いかけるのに何の苦もない。
習ったばかりの敬語を復習しながら、はやくアイザが来ないかとせかついた。
アイザは祐貴が新しいことを覚えると、すごく嬉しそうに笑う。その顔を見るのは好きだった。敬語――といってもただの返事だけだったが、それを聞いて驚いていたアイザの顔を思い出し、祐貴は余計に反応が楽しみになった。
しかし、待てども待てども、祐貴の部屋の扉がノックされることはない。
ランプのオイルが減り光が揺れて、祐貴は本から目を離した。時計がないから解らないが、いつもアイザがやってくる時間はとうに過ぎていて、体が眠気を訴えていた。
『来ないのかな…』
アイザは毎夜訪れていたが、別にそれは約束をしていたわけではないのだ。来ない日があったって、その連絡もなくたって、おかしくない。そんな当たり前のことに祐貴は気付いた。
読んでいた本はとっくに最終ページで、祐貴は溜め息を吐くと本を閉じた。
ランプを消して毛布の中へもぐりこむと、俄に切なさが胸に募った。祐貴は自分が思っていた以上に――少なくとも、辛いと感じるほどに――アイザの来訪を望んでいたらしい。
特に今日は言葉もほとんど交わしていなかったから、いつも以上に待ちわびていたのだ。
きっとリーナと過ごしていて、祐貴の元には来る暇はないのだろう。だからと言って、祐貴にアイザを責められはしない。
祐貴は苦しさを否定するように体をぎゅっと丸めると、逃げるように目を瞑った。
眠りに落ちる寸前、「おやすみ」と優しく告げるアイザの声が脳裏によぎった。
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