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第二章 -12
失いかけていた意識を取り戻したのは、脚が急激に冷やされた時だった。
「っ!?」
ぎゅっと閉じていた目をゆっくりと開けてみると、膝までとっぷりと水に浸かっていた。
そこは川だった。といっても、川幅も狭く小さなもので、もう少しで底に足がつきそうなほどであり、流れもゆったりとしたものだ。
「わ、わ、わ…っ!」
その中で、ばしゃばしゃと振り子のように体を揺らされた。冷たい上に不安定な格好で、祐貴の体がぶるりと震える。傷に水が染みたが、そんなことを気にする余裕はない。
次いで、ぐいと襟元が引っ張られた。脚が水から上がり、飛沫が飛んだ。一瞬だけ息が詰まり、ぐるりと視界が回転して背中に冷たくて柔らかい土の感触を受けた。獣はやっと止まって、祐貴を地面に下ろしたのだ。
祐貴は、はっ、はっと短い呼吸を繰り返す。溢れ出ていた涙は強い風に晒されたため乾き、頬を引きつらせていた。
「っ…!」
仰向けに置かれた祐貴の眼前に広がったのは、祐貴を捕まえた召喚獣の顔だった。それがぐいっと近づいてくる。開かれた口、覗く鋭い牙、真っ赤な舌がずいと伸ばさる。
ぺちゃ、と、毒々しいまでに赤いそれが祐貴の頬に触れた。その生温かさとぬめった感触にぞっと鳥肌が立った。
――喰われる。
覚悟も足掻きもできず、祐貴は真っ白な頭でただ目を瞑り、ぎゅっと体を竦めた。
「ぅっ、あ…?」
しかし、いつまでもその尖った牙が祐貴の肌を裂くことはなかった。獣は何度も祐貴の頬をその少しざらついた舌でなめ上げる。右を何度か舐めると、次は左の頬に触れた。
『なに…っ』
噛みつかれなかった安堵より、まだ恐怖の方が断然大きい。散々出尽くしたかと思われた涙が更に溢れ出た。
すると獣は、その雫を拭いとるようにぺろぺろと舐めてくる。まるでじゃれつく犬のような行動に、少しだけ、ほんの少しだけ、祐貴の体から怯えが遠のく。
『も…っど、どいてくれよ…っやめて…』
舌が触れるたびにびくびくと震えながら、祐貴は喘ぎ喘ぎ、嘆願するように呟いた。
「やめて…っ」
獣に言葉が通じるとは思わなかった。しかし、頬に当たっていた感触は直ぐに離れ、祐貴にかかっていた影も退いた。
素直な獣の行動に、祐貴は目を丸くする。もしかして、言葉が通じるのだろうか。
祐貴は恐る恐る体を起こした。召喚獣は祐貴の足元で、大人しく座っている。その青い瞳は相変わらず静かで、祐貴をじっと見つめていた。
「……」
祐貴は腰が抜けて立ち上がることができず、尻もちをついたまま獣と距離を取ろうとずりずり後退く。
獣がすっと立ち上がった。祐貴の肩がびくりと跳ねる。祐貴のそんな反応をまるで無視して、獣はくるりと方向を変え、祐貴に背を向け走り出した。
獣の行動の意味が解らない。獣は祐貴を置き去りにして、そのまま緑と枯葉色の入り混じった雑木林の中へと消えていってしまった。
『な…なんなんだよ…』
何にせよ、助かった。
体の力が一気に抜けて、祐貴はまたぱたりと土の上に倒れ込んだ。転がったまま、ほっと胸を撫で下ろす。
『なんだよぉ…』
顔はべたべたで、ズボンはじっとりと水を含んでしまっている。今度は寒さに体が震えた。
祐貴は周りを見回す。土地勘のない祐貴にはここがどこだかは解らないが、祭り会場からだいぶ離れてしまっているのは理解できた。
随分遠くに小さく建物の並びが見えるが、あそこが祭り会場だろうか。今いる場所はまったく舗装も何もされていない場所だ。側には先ほど浸された小川と、召喚獣が消えていった生い茂った雑木林ばかり。人影も、建物もまるでない。
『もう、なんで…なんでこんな…』
憤りを感じるべきなのか、助かったことを喜ぶべきなのか、これからを思って困惑すべきか、混乱した祐貴の中には色々な気持ちが一気に湧き上がる。
とりあえず這って川縁に行き、じっとり濡れてしまった顔を洗った。水は冷たく体の熱が奪われても、恐怖を打ち消すように何度も拭う。
暫く夢中で顔を洗っていると、ガサガサと音が聞こえた。びくっと体が跳ね、祐貴は顔を上げる。振り返れば、青い獣がそこにいた。
『ひっ…!!』
祐貴はすぐに後悔した。何をのんびりしていたのだろうか。すぐに逃げるべきだった。どこかなど解らなくても、とにかく獣とは反対の方向に走るべきだったのだ。
獣はのそりのそりと、ゆっくり祐貴に近づいてくる。逃げようと思っても、腰が立たない。
『いやだ…っ!くるな!くるなくるなくるなっ!!いやだ…っ』
叫び声に、獣はその場でぴたりと歩みを止めた。
『う…う…っ』
まただ。祐貴は獣の様子を戦々恐々しながら窺う。獣は一歩も動かずにその場に伏せてしまった。
この獣は祐貴の言葉を理解し、しかも従っているような素振りを見せる。
寝そべった獣は口を開き、何かを地面に置いた。ころころと転がるそれはリートの実だ。そして、そのほかに緑色の楓に似た大きな葉が数枚ある。それらを鼻面でずいと祐貴の方に押しやると、じっと祐貴を見つめる。二股のしっぽがたまにゆらゆらと揺らめくだけで、他はぴくりとも動かない。
祐貴も動けず川縁にへたりこんだまま、獣が持ってきたものを見た。これは、祐貴に差し出したのだろうか。獣の行動はそう思えてしまう。
「……―い!おーいっ!!」
「っ!!」
固まったままの祐貴の耳に、人の声が聞こえた。ばたばたと走る音は、だんだんとこっちに向かって来ている。
「おいっ!大丈夫かっ!!」
焦った顔でこっちに駆け寄ってくるのは、ファイラだ。
「戻れ、アール!」
走りながら、ファイラは怒鳴る。その声が響くと、青い獣の姿は消え、何かがひゅっとファイラの方へと駆け抜けた。
『ああ…助かった…』
今度こそ、本当に大丈夫だ。祐貴は心からの安堵に震え、走ってきたファイラを見上げた。
「大丈夫か、おい!怪我は!?噛まれたりとかは!?」
「大丈夫…大丈夫…怪我ない、噛まれたりも、ない…」
ファイラはしゃがみこんで祐貴の体を見回す。肩に触れた力強い手が、その体温がひどく心を落ち着かせてくれた。
「あ――――っ!!良かったぁぁぁ!!」
ファイラは叫びながらその場に仰向けに倒れた。ぜいはあと肩で息をしながら、タイで縛られていた襟元を乱暴な動作で緩めた。どうやら全力で追いかけて来てくれたようだ。
祐貴はファイラの息が整うまで、じっと黙って待っていた。
「申し訳ない。命令もなしに人間に襲いかかるとか…こんなことは初めてで…」
暫くして起き上がったファイラは、戸惑いを隠さずにそう言った。祐貴は無事ではあったが、流石に平気だとは言えなかった。
「やっぱり俺の力が足りてないってことか…本当に怪我はないのか?」
ファイラは初めはひとり言のようにぼやきながら、次いで祐貴の顔を覗き込みながら訊ねてきた。祐貴はコクコクと頷く。
「銜えられたの服だったから。小さな傷は、その前にこけてできたやつ」
「なんで濡れてんだ」
祐貴はたどたどしくここに連れてこられてからの経緯を説明した。川に突っ込まれ、顔を舐め上げられたこと。やめろと言ったらやめてくれたこと。何かを持ってきたこと。
聞いていくうちに、ファイラの眉根はどんどんと寄って行く。
「…言うことを聞いた?アールが?」
「たまたま、かもしれないけど…」
たった二度の偶然だが、あのとき召喚獣は二度とも祐貴の言葉通りの行動を起こしたのだ。
それに、思うことがある。王都で何度か対面した獣たちも、たぶん召喚獣だ。あれらも祐貴の言葉に反応しなかったか?
「……林の中からこれを持ってきたって…」
ファイラは渋い顔のまま、転がっているリートの実と大きな葉の方を向いた。葉の方を手に取ると、軽く瞠目し、ぽかんと口を開けた。
「なに?」
「これは…サンだな」
「サン?」
「そう…こうやって…」
ファイラは葉をぐしゃぐしゃと揉みだした。青臭い匂いが漂うが、その葉は頑丈らしく破れはしない。
そして、片手で祐貴の足首を掴むとぐいと引いた。濡れたズボンの裾を一気に捲りあげられ、ぞわっと悪寒が体を走り抜ける。
「ちょっ!?」
驚いているうちに、ファイラはその葉を祐貴の膝に押し当てた。傷のあったそこに、葉の汁がじくじくと染みた。
「よく揉み込んで、濡らした傷口に張り込む。……傷薬として使える植物だ」
「傷薬…?」
「これをアールが取ってきた?命令もなしに?まるで、まるでお前に尽くしてるみたいじゃないか。ここに連れてきたのも、水に浸けたのも…サンを取ってきたのも…」
そうなれば説明はついた。祐貴の怪我を見つけて、治療をするために水のあるここに連れてきて、サンの葉を取ってきた。
「アールが、自主的に…?」
困惑なんてものではない、驚愕に彩られたファイラの表情に、祐貴の顔も不安に歪む。
「なんなんだ、お前は。どう見たってエマヌエーレの人間じゃないだろが。お前は魔導士なのか?」
「違う。解らない」
獣の主であるファイラですら解らない行動を、祐貴が理解できるはずもない。
「召喚獣なんて…知らなかった。なのに、なのに…知らなかったから、えと…ファイラ、に、話聞きたかっただけなのに…」
じっとこちらを見るファイラの視線が少し怖い。祐貴に対してどんな感情を抱いているのだろうか。不信感を持って、リーナのように不気味と思っているのだろうか。
「お前には、魔導士の資質があるのかもしれない…」
ややあって、ファイラは祐貴から顔を逸らし、弱々しい声で呟くように言った。
「とりあえず、火をおこすか。濡れた服を乾かさなきゃ風邪をひく。――…召喚獣について…少し教えてやろう」
火のおこし方すら解らなかった祐貴は、結局ファイラに任せっきりで座って待った。たき火はとても小さなものだったが、その火に手をかざすとずっと小さく震えていた体は落ち着いてきた。ぱちりと爆ぜる音が、静かな辺りに響く。
「お前、名前は?」
「祐貴」
「ユゥキ、な…俺は、ファイラだ。って言ってももう知ってるみたいだがな」
祐貴の隣に座ったファイラは、何度か質問を繰り返した。祖国はどこか。歳は。魔導士について知っていることは。親族にエマヌエーレの血が入ってないか。
祐貴は障りのない程度に、淡々と質問に応えていった。
「さっき、お前に魔導士の資質があるかもしれないと言ったが、その資質っていうのは本来生粋のエマヌエーレ人の中の一部にしか現れないもんだ」
「自分はエマヌエーレ人じゃない」
「そうだな。不思議だ。…なあ、少し、実験してみてもいいか。もう絶対お前に襲いかからないようにするから、アールを出しても」
「……わかった」
少し怖いが、祐貴も気になる。側に寄れと言うファイラの言葉に従ってぴたりとくっつき、ファイラが召喚獣を呼び出す様をまじまじと眺めた。
ファイラが声を掛けると、青い小瓶から何かが飛び出す。そして、ファイラの側に青い獣が現れた。
「アール、動くな」
ファイラは直ぐに、凛とした声で命じる。獣は座った格好のまま動かなかった。
「おいユゥキ、何か命じてみろ」
「何かって…」
「そうだな、サンの葉を取りに行かせるとか…」
祐貴はごくりと唾を飲んで召喚獣――アールを見た。静かな青い瞳を見つめながら、掠れた声で命じる。
「サンの葉を…取ってきて」
震える小さな声に、アールの少し丸みを帯びた耳がピクリと動いた。次の瞬間、アールはばっと立ち上がり、先ほど飛び込んでいった雑木林に走って行ってしまう。
「行った…」
「でもまだ、とってくるかは、わかんない…」
祐貴とファイラはそろって無言で、アールをただじっと待った。
一分もしないうちに、青い毛並みは戻ってきた。その口に千切り取ったいくつかのサンの葉を銜えて。
アールは座った祐貴の目の前までのそりと歩いてきて、その前にサンを置く。
「…あ、ありがとう…」
本当に言うことを聞いた驚きが恐怖を軽く凌駕し、祐貴は思わず礼を述べていた。
「アール、戻れ」
ファイラの硬い声がして、アールの姿は消えた。祐貴はハッとファイラを振り仰いだ。
その顔は悔しそうに歪んでいる。祐貴は思わず詰めていた距離をさっと戻した。
「本物だな…でも、おかしい。おかしいんだよ。召喚獣は主の命令しか聞かない。アールは俺の言うことしか聞かないはずなのに…」
ファイラにしてみれば、アールが祐貴の命を聞くことは面白くないのかもしれない。祐貴は俯きがちになりながら、それでも情報を得ようと口を開いた。
「契約してるって聞いた」
昼間、アイザから聞いた話だ。ファイラはうんと頷く。
「そう、契約をしているんだ。血を与えて契約を結んだ」
「血…?」
「魔導士には自分の力に見合った召喚獣を異界から呼び出すことができる。儀式で、召喚獣の名前がわかるんだ。その名を呼んで、異界から連れ出す。そして自らの血を与えれば契約を結べる。召喚獣は契約相手の命令を一つ聞く。それを叶えた召喚獣は、もとの世界に戻るって仕組みだ」
「異界って…この瓶が?」
祐貴はファイラの手にある青い瓶を見た。まるでファンタジーだが、今さらもう驚くこともなかった。
「これはただの入れ物だ。普段から召喚獣がうろうろしてたらみんなお前みたいに怯えるだろうが。俺がアールに命じたのは、『俺の命が尽きる寸前まで側に仕え命令に従うこと』それで、いつもこの瓶の中にいるってわけだ」
「それって…」
なんだか卑怯だと祐貴は思ったが、本人の手前そうも言えなかった。しかし、ファイラは祐貴の思考をあっさり読んだ。
「ずるいってか。まあ、ずるいだろうな。でも大抵の魔導士はこう願って召喚獣を使役する。もっとずっと大昔は、それこそ獣狩りを手伝えだの、敵を殺せだのと一回きりの命令で終わっていたが…ずっと使役できるなんて解れば、そりゃそうするさ。力のある魔導士なんか、それこそ何匹もの召喚獣を懐に抱えてんだ」
ふっとファイラは自嘲の笑みを浮かべた。見ているこちらが悲しくなってしまうような表情だ。目を細め、じっと手遊んでいる青い小瓶を見つめながら言う。
「俺は力がないから…アールだけしか呼び出せなかったけどな」
そう言えば、ステージでも茶化しながら自らを『落ちこぼれ』と蔑んでいた。魔導士の力の大きさなど祐貴には解らないが、彼は相当なコンプレックスを抱えているのだろう。
悔しさは伝わってくるが、彼は祐貴に当たることはなかった。祐貴を不気味がる様子もない。見た目通り、彼は十分に大人なのだろう。
「お前、素質があるんだから、王都の学舎にでも入ったらどうだ」
そんなことを言われても実感はわかない。祐貴はこの世界の人間ですらないし、日本でも現実離れした特殊能力など持っていなかった。
「学舎とか言われても…」
「お前は例外だが…もともと魔導士はエマヌエーレの専売特許だ。素質のある者は只で学校に入れて、手厚く重宝される。そこで力をつければ将来はお偉いお役人様だ」
「いや、でも…」
「お前は他人の召喚獣まで従えるくらいだから、相当の力を持っているんだろうよ。ま、俺の力が弱いっていうのも原因かも知れんが」
そんな風に言われると、祐貴は何も言えない。むっつりと押し黙ってしまった祐貴に、ファイラは「そうだ」と指を鳴らした。
「お前、使用人だったな。雇い主に俺から話をつけてやろうか?『こいつには魔導士の資質がある。学院にやるべきだ』ってさ」
「あっ!」
ファイラの提案に対応するよりも、祐貴は大事なことを思い出した。
「戻らないと!シッチが…きっと心配してる。早く戻らなきゃ…祭り、どっち!?」
色々ありすぎてすっかり意識が飛んでしまっていたが、祐貴はシッチを待っていなければならなかったのだ。それなのにこんな遠くまできてしまった。
一気に焦りで頭がぐるぐるする。シッチのことだ、きっと心配して探し回っているはずだ。必死な様子の祐貴に、ファイラは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「連れがいんのか。あー…解った、連れていく。お前が叱られたら悪いからな、俺も行って主人に説明してやるよ」
服はまだ生乾きだったが祐貴は火を消すファイラを急かし、元いた町に向かって速足に歩き出した。
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