21 / 55

第二章 -15

 朝、いつものように厨房に水を運び込んだ祐貴は、レコイに呼び止められて次の仕事に向かおうとした足を止めた。  パンの端切れを差し出され、祐貴はお礼を言ってパクリとそれを口に含んだ。バターの香りと、いつもよりも強いがほんのり甘い塩味がおいしい。それを伝えると、レコイはにやっと笑った。 「昨日買って来てもらった塩使っているんだ。お前が迷子になってまで買って来てくれた岩塩だからな。美味いだろう」 「美味しいけど…もう言わないでよ」  祐貴は恥ずかしさに顔を熱くしながら眉根を寄せた。祐貴が無事に帰ってきてしまえば、迷子の件はすっかり笑い話となってしまった。レコイなどは遠慮がないので、すぐにからかってくる。  レコイは祐貴の反応に満足したように更に笑った。 「あと…ほら、これ。要らないやつあったからやるよ」  そう言って差し出してきたのは、麻で作られた巾着のような大きな袋だ。以前、祐貴が大きめの袋が欲しいと言ったのを覚えていたのだろう。 「あ」  その少し硬い袋を受け取って、祐貴は少しだけ戸惑った。 「もっと大きい方が良かったか?」 「いや、これがいい。ありがとう、レコイ」  首を傾げるレコイに、にこやかに笑って返す。レコイは満足そうに頷いて、朝食の準備を再開した。麻袋を握りしめ、祐貴は調理場を後にした。  袋が欲しかったのは、荷物を入れるためだ。荷物というのは、祐貴の部屋にこっそりと蓄えてある食料だった。いずれこの屋敷を出る際に、食料くらいないと大変だろうと思い、乾パンやドライフルーツなど、貰ったり出されたりした物の中で日持ちしそうなものは全て食べずに保管していた。それらを持ち運ぶための袋を欲していたのだ。  しかし、もうこの袋も、部屋に隠し持った食料もいらなかった。  祐貴は、ここに居続けることに決めたのだ。もっと色々なことを覚えて、アイザをサポートしていく。きっとやりがいがある。今夜、アイザにその意志を告げようと祐貴は決めていた。随分久しぶりに、清々しい気分だった。 『ま、袋は他に使い道もあるだろ…』  貰った袋を一旦部屋へと置きに戻ってから、祐貴は庭の水やりに向かった。  水やりを終えれば、朝食の時間だ。鳴りそうになる腹を鎮めながら食堂に向かえば、準備はすでに終わっていて、使用人たちが着々と食卓へ着いている。その中にはアイザとカインの姿もあり、祐貴は瞬いた。  祐貴は近くにトルの姿を見つけ、そちらに寄って行った。トルは祐貴の姿を認めると、にこりと目を細めた。祐貴も釣られて笑顔になる。 「トル、おはよう」 「おはようございます、ユゥキ」 「あの、リーナ様は?」 「ああ、ユゥキは昨日戻りが遅かったから、お知らせしていませんでしたね。リーナ様は昨日、ディズールのお屋敷へお帰りになりましたよ」 「え…そうなんだ」  そう言われてみると、昨夜、アイザはファイラの相手ばかりをしていて、祐貴の部屋にも訪れていた。リーナはすでに屋敷にいなかったのか。  そこでふと気付いた。もう一人、姿のない者があった。 「ファイラがいない…」 「ああ、魔道士様は明け方まで書物を読んでいたらしく、昼まで寝られるそうです」  その答えに少しだけ祐貴は呆れた。どうせ書物を読むのなら明るい昼間にすればいいものを。  トルに席に着くよう促され、祐貴は大人しく従った。アイザ達と共に朝食をとるのはたった二日ぶりだが、なんだかひどく懐かしい気がした。使用人たちだけでとるのも賑やかで楽しいが、アイザも一緒となるとやはり皆どことなく嬉しそうな感じがする。  でも、リーナが帰ってしまっているのは少し残念だった。これからアイザの側で生きていくと決めたのだから、その伴侶となる人とも良好な関係を築かなければならない。  リーナには悪印象を与えたままであるし、祐貴もリーナに対して嫉妬心がある。あまりいい気もちを持てていない。それを改善していこうと思っていたのだが、いないとなるとまた次の機会を待たなければならない。 「シッチ、カインは今日の昼に出るそうだから、馬の用意を手伝ってやってくれ」  ふと、アイザの声が聞こえて、祐貴はそちらに耳を傾けた。アイザとカインは上座に並んでいて、その隣に座ったシッチが了解を示した後、カインの方を窺った。 「カイン様、もうお戻りになるんですね」 「ああ、祭りで欲しい物も手に入ったし、早く戻らないと愛娘が待ってるからな」  そのカインの言葉に祐貴は驚いた。カインに子供がいるなど思ってもみなかった。周りの様子をこっそり見ると誰も驚いた様子はないので、皆すでに知っていたのだろう。カインはアイザよりも歳が上らしいし、結婚していて当然なのかもしれない。  祐貴が一人納得していると、カインがこちらを見ていた。 「なんだ、ユゥキ。俺に子供がいるのがおかしいか?」  どうやら、驚きが顔に出てしまっていたらしい。 「いや、えっと、知らなかったから、びっくりした、だけ。…です」 「俺の子供は可愛いぞ~。ほら、見せてやろう。俺によく似てるだろう、可愛いだろう!」  カインは子煩悩らしい。祐貴の言葉を全て聞かないうちに、懐から似顔絵を取り出して祐貴の方へと見せてくる。そこには二、三歳くらいの女の子が描かれているが、正直言ってカインと似ているかは祐貴には解らなかった。  カインはそのまま娘の話に花咲かせた。皆慣れているのか適当に相槌を打ち話を流していくが、話は奥さんのことにまでおよび、結婚の素晴らしさへと変わっていった。  滔々と話すカインにアイザが「いい加減にしろ」と言ったことでやっと会話は中断され、皆苦笑しながら食事を終えたのだった。  午前中の仕事を終え昼食をとった祐貴は、サカリーの診察を受けた。サカリーは先日の落馬での怪我の経過に加え、昨日こけたときにできた傷も診てくれて、祐貴のほかにもルゥが傷薬を貰ったり、マリィの腰の様子を診てもらったりと忙しそうだった。  すっかり健康体だとお墨付きをもらった祐貴は、午後の授業のため書庫に行って辞書を借り、自室に向かった。部屋に辿り着くと、その扉の前にはカインが立っている。祐貴が戻ってきたことに気付くと、カインは小さく手を上げた。 「ユゥキ」 「カイン様。どうしたんですか」 「敬語が上手くなったな」 「勉強しました。少しだけど」 「上出来だ」  祐貴はカインに促されるまま、部屋の中に入った。しかし、カインを部屋に入れても祐貴の部屋にはもてなすものなど何もない。とりあえずいつもシッチと勉強をするテーブルへと二人して着いた。 「えっと、なんですか」  カインは明らかに祐貴を待っていた。カインと二人きりになると、以前井戸で問い詰められたことを思い出して身が硬くなってしまう。 「ああ、もうすぐ俺は帰るから…その前に念をおしておこうと思って」 「ねん…?」 「そんな緊張するな。俺ももう泣かせたりはしたくないし」  カインは祐貴を宥めるように微笑んで見せるが、祐貴は何を言われるのか怯えてしまう。カインは一つ息を吐き、テーブルに肘をついた。 「リーナ嬢のことだが。昨日、帰ってしまった」 「あ…はい。聞きました」 「随分臍を曲げてしまってね。困ったもんだ」  それは聞いていなかった。リーナは怒って帰ってしまったのか。 「なんで…」  祐貴が疑問を口にすれば、カインの表情は曇った。 「アイザが、リーナ嬢よりお前を優先させたからだ」 「え…?」 「婚約者であるリーナ嬢が帰ろうと言ったのに、アイザはお前を探すためリーナ嬢を突き放した」  付きつけられた事実に、祐貴は目眩がした。自分のせいで、アイザとリーナが仲違していた。 「まあ、アイザが使用人を大切にしてリーナ嬢を怒らせることなど、今までもしょっちゅうあったことだ。昨日、迷子になったのがユゥキじゃなくて他の使用人たちだったとしてもアイザは同じことをしただろう」  カインは何を言いたいのだろうか。祐貴のせいだと糾弾したいのかと思えば、フォローするような事実を告げてくる。しかし、祐貴の中はもう罪悪感でいっぱいだった。 「アイザはユゥキに、他の使用人に対する感情以上のものを持っている」 「どういうこと…?」 「前、言ったな。アイザがユゥキを気に入りすぎてる、と」 「うん…じゃなくて、はい」 「その自覚はあるか?」  カインの質問に、祐貴はこくりと頷いた。アイザには一介の使用人であるにもかかわらず、大切にされている自覚はある。 「アイザは…すごく大事に、してくれる」  頷く祐貴を見てから、カインは続けた。 「その大事具合が、ユゥキに対しては大きすぎる。たった数日一緒に過ごしただけの俺でも簡単に解るほどに、だ」  祐貴には答えようがない。他の人と比べたことなどなかったので解らなかった。ただ、自分も使用人たちと同じ扱いを受けていると思っていたのだが。 「……リーナ嬢とアイザの結婚は絶対のものだ。この婚約が破棄されるなんてことは、アイザのためにはあってはいけない」  解るか、と目で尋ねられ、祐貴は頷く。リーナとの結婚がアイザにもたらすものはシッチ達に聞かされて理解できている。そのため、リーナに仕える覚悟もできていたのだ。 「今回の件でユゥキを責めたいわけじゃない。先ほども言ったが、こんなことはよくあるからな。ただ、これから先、何度もこういったことが起こるのはよろしくない」  カインの瞳には、言葉通り祐貴を責めるような色はない。ただ、本当にアイザの将来を憂いている。 「どんなにアイザが歩み寄ってこようとも、使用人と主人の距離をしっかり保ってほしい」  立場を弁えろとカインは言っているが、それは祐貴を蔑んで言っているわけではないことは解る。  祐貴は今まで甘え過ぎていた自分を恥じた。これからアイザの下で従者として生きていくのなら、そういった弁えは大事だ。いくらアイザがいいと言っても、彼の不利益になることはしてはいけないし、させてもいけない。 「……わかりました」  しっかりと応えた祐貴に、カインの表情が安心したように和らぐ。 「よかった。あいつの方にも早くリーナ嬢と結婚しろと言っているんだがな…どうも頑固だ。結婚のよさをいくら伝えても、あいつはリーナ嬢が苦手のようだし仕方のないことかもしれないが」  今朝の親バカな話も、半分はアイザのためだったようだ。しかし、苦手という言葉に祐貴は驚いた。祭りの会場へ行く途中にどこかよそよそしさを感じた二人だが、それほど親しくはないのか。それならば、今回怒らせてしまったことが余計に申し訳なく感じてしまう。 「よし、じゃあそろそろ行くことにするか。世話になったな」  話は終わったとばかりに手を打ち鳴らし、カインが立ちあがる。祐貴も慌てて立ってカインに従う。  部屋の外までついていくと、扉の前で振り返ったカインは祐貴の頭を一つ撫でた。 「見送りはいらないから。元気でな。早く完璧に言葉を覚えろよ」 「はい」  祐貴が頷くと、カインはいってしまった。  残った祐貴は立ちつくしたまま、頭の中を整理させていった。とにかく、今一番にしなければいけないのはリーナへの謝罪だ。二人の仲を戻さなければならない。  祐貴は部屋の中へ戻ると汚い字で「おそくなります。ごめんなさい」とシッチに宛てた手紙を書き残し、部屋を飛び出した。アイザを探し、彼の執務室へと向かう。  しかし辿り着いた執務室にアイザの姿はなかった。代わりにそこにはトルがいて、突然の祐貴の訪れに驚いていた。  アイザはカインの見送りに行っていると聞いた祐貴は来た道を戻り、屋敷の玄関へ走った。玄関から庭へ出て、大きな門のある場所まで向かう途中で、こちらへ一人歩いてくるアイザの姿が目に入る。ずっと遠くには一頭の馬が駆けているのが見える。きっとカインだ。 「ユゥキ?」  アイザもこちらに気付いた。祐貴は早さを緩めないまま、アイザの元まで駆けていった。 「アイザ様、あの…っ」  走ったため整わない呼吸のまま、祐貴は口を開いた。俯いて肩で息をしていたため、アイザの表情が曇ったことに気付かないまま続ける。 「リーナ様に謝りたくて…昨日の、謝りたいんです」 「謝る…?なぜ?ユゥキが謝る必要なんてない」 「だって、自分のせいで…」  顔を上げた祐貴は、アイザの表情を見て言葉を失った。いつものような優しい微笑みはそこにはなく、陰った顔はひどく悲しげだった。 「アイザ様…?」 「様なんて、付けなくていい」 「え?」 「いつもみたいにアイザと呼んでくれ。敬語なんて使わなくていい」  祐貴は目を丸くした。カインの言いたかったことは、こういうことなのだろう。いくらアイザが許そうとも、祐貴は従者となるのだ。ここでアイザの優しさに甘えてはいけない。自分の立場をはっきりさせなければならないのだ。 「無理、です。アイザ様…」  祐貴が答えると、アイザの眉間に皺が寄った。怒っているというよりも辛そうな表情は、見ている方が悲しくなるほどだった。祐貴はそこから目を逸らすように俯き、アイザの脚元を見た。 「リーナ様に、謝りたいんです。昨日、自分のせいで怒らせてしまったから…直接は無理でも、手紙とかで…」 「ユゥキは謝罪なんかしなくていい。謝らなければならないのは私だ」  声と共に、アイザの足が一歩こちらへ動いた。 「え?」  どういうことだと聞く前に、祐貴の体は温かさに包まれた。上げようとした顔は胸板に押し当たって、視界が暗くなる。 「アイザ…?」  名前を呼べば、抱きしめる腕に力がこもった。祐貴は直立したまま、困惑する。恥ずかしくてアイザを振り払いたいと思うのに、何故か出来ない。 「もっと早く、はっきりさせるべきだった。私の不誠実な態度のせいで、彼女の大切な時間を随分無駄にさせてしまった」 「なに、なに言ってるの?」  アイザの言っている意味がよく解らなかったが、その言葉にどこか不穏な雰囲気を感じ取り、祐貴は焦燥感を抱いた。 「婚約は解消する」  祐貴は目を瞠った。今、何と言った? 「だ、だめ!だめだ、だめです!」  祐貴はアイザの胸を力いっぱい押すと、頭一つ高い位置にあるアイザの顔を見上げる。 「ちゃんと謝るから!謝って許してもらうから、だから…っ」 「ユゥキが悪いんじゃない。もともと、私はこの結婚を望んではいなかったんだ。無理をしてでも、もっと早くに解消すべきだった」  アイザの顔はなおも憂いているが、祐貴を見つめる目はいつも通り優しい。 「愛のない結婚はすべきでない。きっと私はリーナを幸せには出来ない。」  そう言って、アイザは祐貴の頬を撫でる。祐貴はただ茫然と頬に感じる温もりを許していた。 「私が愛おしいと思うのはユゥキだけだ」 「へ…?」 「ユゥキがいなくなってしまうことを考えると、怖くて堪らない。お前をこうやってずっと抱きしめていたいんだ。だから、敬語も使わないでほしい。そんなものでユゥキと壁を感じたくはない。この前の、シッチと笑い合っていたときのような…自然なユゥキをもっと近くで感じていたい」 「そ、そんな、そんなのって…」  密着している体がひどく熱く感じ、祐貴は慌ててアイザから離れようとした。しかし、腰に回った腕がそれを許さない。むしろ力を込められ、心拍数が一気に上昇する。 「好きだ」  せめてとばかりに顔を逸らした途端、頭上から降ってきた直截的な言葉に祐貴は頭が真っ白になった。今までも親愛の情をこめて好きだとは言われたことがある。アイザだけでなくシッチにも。だけど、今このときの言葉がそれらとは違った意味を含むことは、祐貴にも解った。周りの音が一瞬にして全て消え、全身が心臓になってしまったかのようにバクバクと鼓動だけが響く。  喧嘩をさせてしまったから、婚約を解消すると言いだしたのだと思っていたのに、それは間違いだった。でも、アイザに言われた言葉が信じられなくて、否定するように祐貴は首を振る。 「……っそ、そんなの、おかしい…っだって、男だし、ふしんしゃ、だし…っ」 「ユゥキの何にでも一生懸命な所も、その綺麗な瞳も、全てが好きだ」 「そんな…黒いのが、珍しいだけ――!」  怒鳴るようにして顔を上げた瞬間、祐貴の唇はアイザのそれに塞がれ、言葉が途切れる。  頬や額はあっても、唇にキスされるのは初めてだった。そのただ押し当てるだけのキスは、まるで気持ちを否定するなと言わんばかりに熱い。  ゆっくり離れていくアイザを見ながら、祐貴は絶望的になった。カインやシッチ、使用人たちの言葉が脳裏をよぎる。誰もがアイザとリーナの結婚を望み、祝福していた。アイザ自身の出世のためにも、この結婚は必要だった。  それを祐貴が駄目にした。迷子になったことが悪いんじゃない。祐貴が存在すること自体が悪かったのだ。 「自分の…せいだ…」  呆然と口の中で呟いた言葉は、アイザにも聞こえてしまっていた。アイザは祐貴を宥めるように髪を撫でた。 「ユゥキが悪いんじゃない。ユゥキを勝手に好きになってしまった私が悪いんだ。リーナにはちゃんと謝罪をする。出来る限りで償う」 「そんな…っ」 「気持ちに応えてくれなくてもいい。ただ、お願いだ。傍にいてくれ。いなくならないでくれ…」  切実な熱がこもった言葉に、祐貴はただ俯き「放して」とだけ告げた。  アイザは名残惜しそうに体を放してくれた。その瞬間、祐貴はアイザを一人残し、走り去った。アイザが追ってこないのがありがたかった。  あのままあそこにいて、アイザに触れているのはよくない。祐貴は全身にたまった熱を振り払うように全速力で走った。  カインが本当に恐れていた事態はこれだ。祐貴はやっと解った。そして、怖くなった。祐貴がしでかした事の大きさに。そして何よりも一番怖かったのは、自分自身の気持ちだった。  嫌ではなかった。抱きしめられ、愛を告げられ、求められることが、嫌ではなかったのだ。むしろ、リーナより自分を選んでくれたことに優越感を覚え、贈られたキスに幸せを感じている。そんな自分に祐貴は愕然とした。  せっかく、やっと、覚悟ができたのに。  ――間違っていた。ここにいちゃ、いけない。

ともだちにシェアしよう!