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第二章 -16
◆◆◆
あんなこと、言うつもりではなかった。アイザは自分のあまりにも愚かな行動に、自嘲気味に笑った。
ユゥキの表情を思い出すと胸が痛い。愕然とした、信じられないものを見るかのような顔をしていた。そうさせたのは自分だ。
昨日、いなくなったユゥキを見つけた瞬間、自覚した。彼を誰よりも大切だと思う自分を。ユゥキは謎が多く、アイザは彼のことは多分半分も知らないだろうが、愛おしくてたまらなかった。
あんな言い方をしてしまえば、ユゥキがリーナのことを気に病むのは目に見えていた。それでもアイザは気が急いていて、言わずにはいられなかった。
カインを送る少し前、サカリーが訪れた。ユゥキの診察をしたと言った彼は、その報告をしてくれた。やはり、ユゥキは異常に回復が早いとサカリーは確信した。次は採血をすると言われた。
ユゥキが自分達と違うという事実はすんなりと受け入れられた。しかしそれを聞くと、ディズール宰相からもらった手紙の内容もあり、アイザにはユゥキの煙のように急に消えてしまう存在なのかもしれないと余計に思えてしまい、昨日感じた焦燥が蘇ってくる。
昨日は戻ってきてくれた。しかし、二度目があれば、ユゥキは永遠にアイザの前から消えてしまう気がして怖かった。
だから、少しでも繋ぎとめておくために言ってしまった。とにかく早く、自分の気持ちを伝えておきたかった。いなくならないでほしい。飾ることもできず、ただそう言うことしかできなかったが、それがアイザの純粋な願いだった。
アイザはふっと息を吐きだすと、ゆっくりと屋敷へ向かった。
執務室にもどったアイザを待ちうけていたのはトルだった。
「ファイラ様が、本日も書庫を見せて欲しいとおっしゃられておりますが」
「ああ、彼には何のもてなしもできていないな…」
アイザは無精髭の魔導士を思い出し、せっかく招いておいて何もできていない自分に呆れた。彼には本当に感謝しているのに、昨夜書庫を見せて欲しいと言われ、許可してそれっきりだ。
「ファイラ様は先ほどお目覚めになられたようですよ」
「そうなのか。随分遅くまで読書されていたんだな。ちょうどいい、挨拶に行こう」
トルと二人、ファイラのいる客室へ向かうと、ぼさぼさ頭のファイラが出迎えた。ファイラも少しは気にしているらしく、跳ねた髪を撫でつけながらアイザに笑いかけてくる。
「いやはや、見苦しくて申し訳ありません」
「いえ、よく眠れましたでしょうか」
アイザとファイラは他愛ない会話をいくつか交わした。ファイラはあまり遠慮がない性格なのか随分とくつろいだ様子で、アイザは少しほっとした。
「――それで、書庫をご覧になりたいんでしたね」
「ああ、はい」
「いくらでもご覧ください。あまり蔵書はありませんが…」
この屋敷にある書庫にそんなに本は多くない。魔導士は国の援助によって教育を受けるため博学な者ばかりで、ファイラに楽しめる本がそんなにあるかアイザには疑問だった。しかし、ファイラはアイザの言葉を遮って「とんでもない」と首を振った。
「いやいや、数は少なくとも素晴らしい魔導書がたくさんありまして、昨夜も思わず読みふけってしまいましたよ」
「そうですか。魔導書でしたら、この屋敷では読む者もいないのでただの宝の持ち腐れになっている状態です。ファイラ殿に読んでいただけてよかった」
魔導書は魔導士を育成するための本だ。グラッドストン家には魔導士はいないし、本があっても読む者はいなかった。
ファイラはアイザの言葉に、どこか考え込むような表情になった。
「使用人たちは、読むことはないのですか」
「ああ、使用人たちには読み書きは教えております。書庫にも自由に出入りを許しておりますが」
なぜそのようなことを聞くのかとアイザが疑問に思っていると、ファイラの口から意外な人物の名が出てきた。
「なら、ユゥキに魔導書を読ませてみたらどうですか」
「え…?」
先ほどのやり取りを思い出し、アイザはぎくりとした。しかしそれを顔に出さないようにして、笑ってみせた。
「ユゥキはエマヌエーレの人間ではないんですよ」
「いや、それは知っていますが…」
「なぜそのようなことを?」
「いや、その…」
国外の者に魔導書を薦めるなんて、無駄なことだ。魔導士であるファイラがそれを解っていないはずはないのに、彼の態度はどうも煮え切らない。
ファイラは何かを知っている。そして隠している。
「何故です、ファイラ殿。どうしてエマヌエーレ人でないユゥキに魔導書を薦めるんですか」
少しきつい声でアイザは尋ねた。純粋にそれが何か気になる気持ちもあったが、自分も知らないユゥキの何かを、ファイラが知っていることに対する嫉妬もあった。
ファイラは少し言いにくそうにしながら、それでも口を開いた。
「……ユゥキには言うなと言われていたんですが、俺はあの才能が消えてしまうのは惜しいと思うんです」
「才能?」
「確かな検定をしたわけではないからわかりませんが、ユゥキには魔導士の資質があると思います」
「まさか…」
ファイラの顔は真剣で、アイザははっと息を飲んだ。創世記の魔導士イレと、何らかの関わりがある可能性を知っているため、アイザはファイラの言葉を否定できなかった。ユゥキに関しては、どんな可能性も否定できない気がした。
「本人は召喚獣の存在すら知らなかったようだし…魔導士になりたい気持ちも欠片もないようで、資質があるかもしれないということを貴方には言うなと言われました。でも、勿体ない。せっかく才能があるのに…せめて、独学でもいいから、魔導書に触れるくらいはしてほしいんです」
ファイラの言葉からは、本当に惜しんでいる様子がありありと解った。だからその時のアイザには、「ユゥキと話してみる」としか答えられなかった。
◆◆◆
ぼうっとした祐貴の頭はシッチの言葉を何度も聞き逃してしまい、祐貴はシッチにみっちりと説教されてしまった。
「解ってる?ユゥキのためにやっている勉強なんだよ?」
「ごめんなさい…」
しおらしく謝る祐貴に、怒っている方のシッチはバツが悪そうに唇を尖らせた。
「まあ、ユゥキは普段は優等生だけど…どうしたの?今日、なんか変だよ」
心配そうな顔で言われ、祐貴は言葉に詰まる。まさか、自分のせいでアイザの婚約を駄目にしてしまったなどと言えない。主人に愛を告げられたとも、言えるわけがない。シッチには相談できなかった。
「なんでもない…昨日の、疲れがあるのかも…」
誤魔化すようにそう言って笑ってもシッチはまだ訝しげなままだったが、深く追求はしなかった。
「じゃあ、今日は無理しないでここまでにしよう。もうすぐレコイ達も帰ってくるし、お土産貰いに行こうか」
シッチの言葉に頷いて、祐貴はほっと胸を撫で下ろした。勉強で使った本や筆記具を片付けて、部屋から出ていくシッチに続いた。
今日はレコイ達数人が、リートの収穫祭へ出向いている。お土産を買ってくると言っていたので、それを受け取るためにシッチが寝泊まりしている部屋まで赴いた。ベッドが四台置かれており、それぞれ生活感が溢れている。以前シッチが、隣のベッドで寝るレコイのいびきがうるさいと文句を言っていたことがあった。祐貴の泊まっている部屋とはえらい違いだ。
シッチと並んでベッドに腰掛け、今日の夕飯は何だろうなどと他愛ない会話をする。その間も、シッチは祐貴の反応に何度か溜め息を落とした。そうしているうちに廊下が騒がしくなり、部屋の扉が開かれた。レコイを筆頭に、三人の男がなだれ込んでくる。
「お帰り!」
シッチが立ち上がって言えば、皆笑顔でただいまと返す。
「よう、ユゥキも来てたか。ちょうど良かった」
皆それぞれ荷物を抱えていて、人数が多いおかげか、昨日の祐貴とシッチが買ってきた以上に大量だ。部屋の中央に荷物を置いて、それぞれが漁りだす。
「あったあった、これだ。ユゥキ」
レコイに手招きされ、祐貴は立ち上がって彼の側に寄った。すると、ずいと袋を差し出された。
「なに?」
「お前に土産。って言っても、出資はアイザ様だけどな」
開けてみろと言われ、祐貴は素直に従った。紐で縛られた袋の口を開くと、中に見えたものは青い布。
祐貴は言葉を失い、顔を上げてレコイを見返した。レコイは瞠目する祐貴に、にやにやと笑いかけてくる。周りを見れば、レコイ以外も、シッチまでもにこにこと笑っていた。皆、袋の中身を知っていたのだ。
「これ…」
祐貴は震える手で中身を取り出した。それは、昨日露店で見かけた祐貴のジーンズだ。
「ユゥキ、それすごく欲しがってたから、買って来てもらったんだ。ユゥキ、昨日自分の物なにも買ってなかったし」
シッチは笑顔のまま、祐貴の反応を窺っている。
「でも、これ…すごく、高くって…」
「アイザ様に言ったら、ユゥキが欲しいのなら買って来てもらえって、お金出して下さったんだよ」
「そんな…」
祐貴はジーンズをぎゅっと抱きしめた。久しぶりに手にしたジーンズは、ごあごあとしていて少しだけカビ臭くなっていた。それでも懐かしさが胸を突く。
こんな高価なものを買ってもらうのは申し訳なかった。しかしレコイ達は、祐貴だけがこんな高価なものをぽんと買ってもらうことに対して何も異論はないらしい。
「ふふっ…アイザ様はユゥキに甘いよな。でも、まあ、お前給金もらってないもんな」
「それにしても、それのどこがいいんだ?俺はもっとこう、ゆったりした柔らかい生地の方が…」
「まあ、人の趣味はそれぞれってことで。お前が買った服の柄も随分とダサいぞ」
「なんだと!」
ワイワイと盛り上がる人たちを見ながら、祐貴は言葉を探す。
本当は、申し訳ないと言いたかった。自分だけ買ってもらうなんてできないと言いたかった。しかし、彼らにそんな水を差すようなことはできない。
「ありがとう…」
祐貴が小さな声で礼を述べれば、レコイが「おう」と応えた。
「礼はアイザ様に言っとけ。俺たちは買ってきただけだからな」
「うん」
「良かったね、ユゥキ」
シッチは満面の笑みで、とても満足そうだった。
「……嬉しい…」
祐貴はぽそりと零した。
嬉しい。本当だ。アイザの気持ちも、自分のことのように喜ぶシッチやレコイ達の気持ちも。
だけど、祐貴はこれでもう、どこか吹っ切れた。この優しさに報いることはできないから。
レコイ達が他の土産や見てきた出し物の話題で盛り上がるのをどこか遠くに聞きながら、祐貴はこの屋敷を出ていく気持ちを固めた。
夜、ノックの音の後に現れたのはアイザだった。アイザが来ることは解っていたので、祐貴は笑顔で彼を迎えた。
アイザにはその笑顔が意外だったようで、いつもとは違い少し遠慮がちに部屋へ入ってくる。昼間の会話が気まずいのだろう。夕食時も、レコイ達の土産話がうるさかったというのもあるが、祐貴とアイザの間に会話はなかった。
祐貴だって気にしていないわけではない。だけど、これでアイザと過ごす時間は最後なのだと思うと、笑顔で過ごさないと勿体ないと思った。
「ユゥキ」
いつもなら、アイザは「今日は何の勉強をしたんだ?」と聞いてくる。しかし、今日はじっと祐貴を見つめるだけだ。祐貴の方から、切り出さなければならない。
「……アイザ」
名前を呼ぶと、アイザは少し怯えているようにも見えた。祐貴の口から拒絶の言葉が出ることを恐れているのだろう。
「ホーズ、買ってくれてありがとう」
「……ああ、受け取ったか?」
「うん、ほら。本当にありがとう。すごく、嬉しい」
今日もらったジーンズをアイザに広げて見せ、祐貴は微笑んだ。それを見たアイザの顔も、やっといくらか和らいだ。
「今日はね……」
それからいつものように、今日シッチから教えてもらったことを話した。向かい合って座ったアイザは相槌を打ってくれて、穏やかに時間は過ぎていく。
「――そろそろ、眠る時間だな」
アイザの言葉に、祐貴は頷いた。本当はとっくにいつもの時間を超えている。立ち上がったアイザを見送るため、祐貴も腰を上げてアイザに近寄る。
「おやすみなさい」
部屋の扉の前で祐貴が言うと、アイザは静かに振り返った。
「ユゥキ」
おやすみと返してはくれないその表情は逼迫している。このまま和やかに別れることはないのかと、祐貴は少しだけ悲しくなった。
「昼間のことだが――…」
「アイザ様の気持ちには、応えられません」
わざと畏まって言葉を遮ると、アイザが息を飲んだのが解った。
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。応えてくれなくてもいい。ただ…ここにいてくれるか…?」
アイザの表情を見ていると、祐貴も苦しかった。だけど、祐貴はにこやかに笑って見せた。
「いるよ」
それがアイザをひどく傷つける嘘だと解っていても、祐貴は明るい声でそう言った。
「ずっといる」
「それなら、いいんだ。変わらず、そのまま傍にいてくれ…」
アイザの顔は哀しみと安堵と入り混じっていた。
「おやすみ、ユゥキ。良い夢を」
「おやすみなさい」
アイザは祐貴の頬にキスをする。このキスもこれで最後だと思うと、祐貴の目頭は少し熱くなった。
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