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第三章 -3
◆◆◆
カツカツと硬い靴音が、高い天井に響き渡る。
長い廊下を進むアイザは速足になりながらも、走らないよう何とか自分を抑えつけて宰相執務室の前まで来た。すぐに扉を二回叩いて、中からの返事を待つ。
「どうぞ」
「失礼いたします」
柔らかな声が聞こえ、アイザは扉を開いた。
中に入ると正面の執務机にいるディズールが、にこやかな笑顔で迎えてくれた。彼のすぐ脇では秘書官が書類を抱えてコマネズミのようにうろちょろと動いている。
「おはようございます。ディズール宰相」
「どうしたんです。貴方が袖の下を使うなんて、よっぽど急ぎの件なのでしょうか?」
ディズールは立ち上がって、礼をするアイザを中に招きながら訊ねてくる。
宰相であるディズールにはたくさんの客が訪れる。そのため、前々から約束を取り付けたり、よほど身分が高くなければ、面会までに数日かかることもあるほどだ。しかし、取次の係官に交渉すれば、無理やり順番を早めてもらうこともできる。所謂、贈賄というやつだ。もちろん、係官としては職権濫用となり許されざることなのだが、それが暗黙の了解とされているのも事実だ。国で二番目に偉いとされるディズールにそのことを知られるわけにはいかないはずなのに、この通り筒抜けだ。
しかし、アイザがこの手を使ったのは初めてだった。それほど、ディズールとの面会を希求しているということだ。
「人払いをお願いできますか」
アイザがそう言うと、アイスブルーの瞳が僅かに眇められた。
「……ソニ、書庫に行って三ヶ月分の議事録と、三年分の学院の出願名簿の写しを取ってきてください」
ディズールがそう命じると、動き回っていた秘書官はぴたりと止まり、はいと礼をしてから部屋を出ていった。
これで、この執務室内はアイザとディズールだけになった。
「ありがとうございます」
「いいえ。なんだか差し迫っているようですし…この前、リーナがまた何やら迷惑をかけてしまったようなので」
苦笑交じりに言われ、アイザはぎくりと表情を固めた。
「あの、リーナのことですが…」
本当はリーナのことで城を訪れたわけではない。しかし、放置できない問題であるためアイザはそう切り出した。しかし、ディズールは首を振りながらアイザの言葉を遮った。
「その話は今はよしましょう。他の用件でいらしたんでしょう?」
「……はい」
ディズールはリーナとアイザの結婚を望む一人だが、アイザの心中を悟っているようだった。そのため、彼が二人の婚約について今まで口を出したことはない。
その心遣いに感謝しながら、ここに来た本当の理由を話し始めた。
「魔導国師団の奇襲を受けました」
奇襲などというと誇張した形になってしまうが、実際屋敷の一部は壊れ、怪我人も出た。
ディズールが目を瞠る。その反応を受けて、アイザはやはり、という思いにかられた。ディズールがもし知っていたのなら、訪れてすぐその話題になったはずだ。
ディズールが知らない。―――つまり、国は関与していない。
「どういうことでしょうか…?」
ディズールの声が一気に鋭くなる。
「五日前、深夜になります。魔導国師団第一連隊連隊長リズ=フラットルと、その部下数名が私の屋敷を訪れました。彼らは黒髪黒目の男を出せと要求してきました」
「黒目?」
「はい」
「…それで、どうなったのでしょうか」
「家捜しをした後、いないとわかるとすぐに引き上げて行きました」
アイザは考え込むディズールの反応を窺った。すると、その目がすっと流れてアイザを射抜いた。
「貴方の屋敷に一時でも…黒髪黒目の男がいたのですか?」
その質問に、アイザは言葉を詰まらせた。ディズールには言ってもいいのだろうか。ユゥキに不利にはならないだろうか。
量りかねているうちに、ディズールは「それはまあ、いいです」と言って、その質問を打ち切った。
「怪我はなかったでしょうか?」
「……私は打ち身で少し痣ができた程度です。使用人たちも少し怪我をしましたがどれも軽症で、皆元気にしています」
少しの嘘を織り交ぜて、アイザはそう返した。本当は、痣は少しどころじゃない。今も背中や腹に黄色や紫の大きな斑点がある。アイザはあの翌日、まったく動けなくなった。内腑を痛めたり、骨が折れたりしていなかったのが奇跡だ。使用人たちは言葉通り軽傷ですみ、今では皆屋敷の復旧作業に骨を砕いてくれている。
アイザの言葉に、ディズールは「それはよかった」と頷き、次いで渋い顔になった。
「とにかく、王から魔導国師団にそのような命はでていません。魔導院が単独で命じたということになりますね…厄介だ」
この国の師団は全て、王の命令で動く。だが、魔導国師団だけは魔導院の直属となり、院からの命令だけで動くこともできるのだ。
「…少し、調べる必要がありそうですね」
そのとき、コンコン、と扉が叩かれ、先ほど出ていった秘書官が本の束を抱えて戻ってきた。
「もどりました」
「ソニ、ありがとう」
ディズールは立ち上がって壁にかけていた上着を取った。
「続いて申し訳ありませんが、過去五年分の囚人録と重軽犯罪手配者から黒髪の者を全て挙げてください」
「了解しました」
「私は少し出かけます。昼過ぎには戻りますので」
ソニが頷くのを確認し、ディズールはアイザに向き直った。
「ここでお待ちになりますか?それとも一緒にきますか?」
「お供させていただきます」
アイザは即座に返した。
二人が向かった先は、白椿城からほど近い場所にある魔導学院だった。そこは魔導士の資質を一定以上持つ者が国の補助を受けて魔導士になるため学ぶ場である。現在は、六歳から二十五歳までの魔導士の卵たちが三百人ほどいる。今の時間は講義が行われているのか、廊下に学院生は見当たらなかった。
ディズールがここを訪れたのは、魔導学院が魔導国師団の訓練場と隣接しているから、というわけではない。
大きな門を抜けたディズールはそのまま校舎に入っていき、三階にある学院長室を真っ直ぐに目指す。
学院長は魔導院の代表、サランド=ドードルが兼任して勤めている。本来、魔導院代表は宰相となるため学院長は副代表が兼任するものなのだが、現在は貴族院のディズールが異例で宰相を務めているためにこのような形となっていたわ。
ドードルは学院長室にいることが多い。そのドードルに面会するために来たのだ。
果たして、学院長室にドードルはいた。
ドードルはもう六十を迎えそうな歳だが、その肉体と精神は強く、実年齢よりずっと若い。髪に混じった白い色は、老いよりも貫禄を与えている。急に訪問してきたディズールとアイザを見て、彼は少し不快そうに眉根を寄せた。
「いかがされましたか、宰相殿。グラッドストンのひよっこまで連れて。私は生憎予定が詰まっていて忙しいのですが」
ドードルから不遜な声が飛ぶ。明らかにアイザを卑下する言葉をぶつけられても、アイザは最敬礼を送った。ドードルは魔導院代表たる実力も実績もある。どんなに悔しくとも、アイザは遠くおよばない。
しかし、宰相の地位はそのさらに上だ。いくら二十以上年下であっても、ディズールは堂々とした態度だった。
「魔導国師団のことでお話があります。忙しくともお時間を作ってください。よもや有能な貴方様にできないとも思いませんが」
「……そう言われたら、作らないわけにはいきませんね」
ヒヤッとした空気が流れる。
貴族院と魔導院は対立が激しい。しかし、これでもドードルはディズールの実力だけは認めているのだ。
ドードルはふっと息を吐くと、ディズールに向けていた視線をアイザに流した。重鎮にまっすぐ見据えられ、アイザはわずかに緊張した。
「お話を伺いましょう。ただし、グラッドストン伯には退室してもらおうか」
「!」
「宰相と代表の会談に、君は不要だ。君がいるのなら、時間は作れない」
はっきり身分の差を言い渡され、アイザには反論はできなかった。隣に立つディズールが、気遣わしげな目で優しくアイザの肩をたたく。
「すみません…」
「……いえ、下でお待ちしています。失礼いたします」
謝るディズールに首を振って、アイザはその場から退出した。どうせあの場に残っても彼らと対等に渡り合えるわけがないと解っていても、悔しさが湧きあがってくるのを止めることはできない。
アイザはそのまま建物から出て、門の近くにあるベンチに座った。
遠くに魔導国師団の訓練場が見える。そこには数名の人間がいた。背の小さな者から大きな者まで年齢にばらつきがある。揃いの服を身につけているので、きっと彼らは学院生だ。傍らには召喚獣らしき獣の影もある。訓練場は学院にも貸し出しているらしいので、今は実技の授業中なのかもしれない。
その様子を眺めながら、そう言えば、とアイザは思い返す。ファイラは、ユゥキに魔導士の資質があると言っていた。
「………っ」
アイザは頭を抱えて俯き、大きく息を吐いた。そして、片手で懐を探る。胸に縫いつけた袋を握ると、硬い感触が伝わってきた。
それを取り出し眺める。ユゥキが手紙と共に遺した腕輪だ。彼は売ってくれと言っていたが、そんなことができるはずがなかった。
掌でしゃらりと音を立てる金物は、錆びたところは一つもなく陽の光を受けて輝いている。常に彼の腕に填められていたものなのに、もうユゥキの温もりは微塵も残っていなかった。
ファイラとユゥキは、もともと知り合いだったのだろうか。何故いきなり消えてしまったのか。ユゥキは魔導国師団のことに気付いていたのだろうか。まだ二人は共にいるのだろうか。どこを目指していたのかも解らない。
アイザ、とどこかたどたどしい声で呼ぶユゥキが脳裏に蘇る。不器用なキスの名残も、日々薄れていく。会いたい。彼の側で誰からも守ってやりたいのに。
いったい今、どこに……
「グラッドストン伯」
名を呼ばれ、アイザは慌てて腕輪を懐のポケットに戻し顔を上げた。目の前にはディズールが立っている。
「もう、終わられたのですか?」
あまりにも早い。立ち上がりながら訊ねると、ディズールはどこか渋い顔のまま、頷いた。
「まずは城へ戻りましょう。そこでお話します」
そのまま二人は無言で、城へと戻っていった。
元の執務室まで戻ると、ソニが迎えてくれた。彼にお茶を入れてもらい、ディズールは一息ついた。アイザは彼の対面に座って、出されたお茶には手を付けないまま話をじっと待つ。
「宰相、こちら黒髪の目録になります」
出かけている時間は短かったが、ソニは命じられた仕事をすでに終わらせていたらしい。数枚の紙を受け取って、ディズールはソニを労った。
「ご苦労だったね。ありがとう」
「いえ、黒髪の人間はずいぶん少なかったので直ぐ済みました」
ソニに無理をした様子もない。優秀な秘書官には、こんな仕事は朝飯前だったのだろう。
「机に置いてある手紙を早馬で出してきていただけますか」
ディズールはすぐに次の仕事をソニに与えた。ソニは直ぐに了解を示し、執務机の上にうず高く積まれた手紙を抱え、部屋を出ていった。
「―――さて、ドードル殿のお話ですが…」
秘書官が出て言ったことを確認して、やっとディズールは本題に入った。アイザはごくりと唾を嚥下し、無言で話の続きを促す。
「魔導国師団が動いたという事実はない、とのことです」
「え――?」
「第一連隊がグラッドストン領に赴いた事実は一切ない、と主張されました。第一連隊はこの一週間、王都内の警備に回り、一歩も王都から出ていないそうです。王都内警備の命令書と報告書の写しを見せていただきましたが、本当のようです」
目を瞬くアイザに、ディズールは苦笑する。
「そんな…っ!そんなはずありません!」
嘘だ。アイザは目の前が真っ赤になるような怒りにかられ、思わず腰を浮かせてディズールに食ってかかった。奴らは確かに第一連隊のローブをまとい、連隊長だと告げた。高位の召喚獣を喚び出してみせた。
「解っていますよ。貴方が嘘をつくはずもない―――嘘吐きは、あちらです」
ディズールは柔らかい声で言いながら、机に乗ったアイザの手をそっと優しく撫でた。その宥めるような接触にアイザは我に返り、慌てて腰を戻す。
「も、申し訳ありません…」
「いえ、いいのですよ。……ドードル殿は嘘を吐かれている。だが、こちらにそれを証明する方法はありません。第一連隊は確かにこの一週間、王都の警備に着いていたのでしょう。ただし、そのうち何名かが抜けていた、ということでしょうね。しかも隊長格が…」
アイザはディズールが迷いなく自分の主張を信じてくれたことが嬉しかった。それと同時に、なぜ二人の会談があっという間だったのかを悟った。ドードルは「魔導国師団は動いていない」の一点張りだったのだろう。こちらに何を言う気もなかったということだ。そして、その主張を通せるだけの証拠をそろえている。いくらアイザが屋敷に来たのだと主張しても、彼にとっては新米議員の言葉など小鳥の囀りに等しいのだ。
「気になるのはその、黒髪黒目の男です…一体何者なのか」
アイザはぎくりと体を強張らせた。しかしディズールはアイザにというよりも、自らに呟くように言って、ソニがまとめた資料を手にした。
そこには過去五年の黒髪の犯罪者が挙がっている。その名前と身体的特徴、年齢や犯罪歴が詳しく書かれたものだ。その枚数は僅か三十で、ディズールはそのすべてを素早く流し見た。
「…さすがに黒目の人物はいませんね」
そう言うディズールから資料を受け取り、アイザもさっと目を通す。その中には黒目と記されたものはおらず、もちろんユゥキという名もなかった。
「手配犯でもない…となると……」
目の前で悩みこんでしまったディズールに、アイザは罪悪感に駆られた。先ほど、ディズールは自分を信じてくれた。ならば、自分もディズールを信じて話すべきではないか。彼はきっと、ユゥキを傷つけない。
「……ディズール様」
アイザのどこか緊張を含んだ声に気付き、ディズールの目が僅かに鋭くなる。
「実は――…」
アイザはユゥキの存在を話した。奴隷としてこの国に連れてこられた彼を川で拾ったこと。そのまま世話をし、ゆくゆくは自分の従者にするつもりだったこと。彼の目も髪も黒かったこと。国に帰ると言って出て行ってしまったこと。もちろん自分の恋心などは除いてだ。
ディズールはアイザが情報を隠ぺいしていたことに激昂することもなく、ただ静かに話を聞いていた。
「誓って、ユゥキは犯罪者などではありません。心優しい、努力家の…普通の青年です」
「ユゥキ…とおっしゃる方なのですね、なるほど…ニホンについて知りたいと言っていたのはその彼のためだったのですね」
「はい…」
「確かに、そのユゥキ殿は犯罪者ではないでしょう。手配書にもそれらしき人物もありませんし…ただ、ニホンに関わりがあるのなら、魔導士――魔導院と関わりがあるのも頷けます」
「しかし…私が彼を拾ったとき、ユゥキはこの国の言葉を一言も理解していなかったのです。魔導士の存在も、召喚獣すら知らなかった。関われるはずがない!」
ディズールが苦い笑みをこぼしたことで、アイザは自分が熱くなりすぎていることに気付いた。謝ると、ディズールは気にしないでいいと首を振る。
「それでも、魔導院が探していたのはユゥキ殿で間違いないでしょう。貴族院や宰相――果ては王にまで隠し立てて、第一連隊まで使って捕えようとしている存在、ですか…」
その言葉にアイザはどきりとした。
ディズールはその細い顎に手を当て、目を伏せた。たぶん、アイザと考えていることは一緒だろう。貴族院や王に隠す――謀反の企みが脳をかすめる。もちろんユゥキが謀反に関わっているとは思わないが、きな臭さは拭えない。
「――グラッドストン伯」
「はっ!」
鋭い声に呼ばれ、アイザは無意識に背筋を正した。ディズールの瞳はいつもの優しさが消え、ただただ鋭い。ディズールの真剣な顔はとても冷たく写るが、理知的で人を従わせる雰囲気がある。
「そのユゥキという青年を、魔導院より先に見つけ出し、保護してください」
その命に、アイザは一瞬目を瞠ったが、直ぐに力強く頷いた。
「貴方の今の仕事は、私が半分受け持ちます。私も情報を…そうですね、ファイラという魔導士のことなどを調べてみますので、ユゥキ殿をいち早く見つけてください。彼が何者であるかは解りませんが、鍵であることには変わりません。何より、魔導院に渡してしまうのはよろしくないでしょう」
「はい」
アイザは言われずともユゥキを探そうとは思っていた。しかしそれは、正式に宰相から下りた命となった。
手掛かりはまるでない。誰がグラッドストンにいるユゥキの存在を魔導院に伝えたのかも解っていない。しかしディズールの存在に、アイザは心強さを感じていた。
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