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第三章 -5
体が熱かった。身の芯にマグマを抱えているかのように、内側から抑えようのない熱が全身を侵していく。ひやりとしたものが顔に当てられた。それが心地よく、その冷気を、砂漠が水を吸収するように一心に求めた。温くなったそれが離れていくのが嫌で、祐貴は思わず声を上げていた。
「…ぁ…」
「気付いたの!?」
途端、弾んだ声が返ってくる。祐貴は朦朧とした意識の中、重い瞼をうっすらと開いた。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ若い女性だった。横になった祐貴の顔を覗きこんでくる彼女の顔には安堵の色が見て取れた。
『だれ…』
呟いた声は、ほとんど音にならなかった。
柔らかく微笑んだ女性は、また祐貴の額に冷たい物を当ててくれた。それはどうやらおしぼりらしい。
「すごく熱が出てるの。でも、怪我の治療はすべて終わっているから、熱さえ引けば大丈夫よ。今は眠って、ゆっくり休んで」
祐貴はその言葉を聞いて、素直に小さく頷いた。それは、その女性の存在がなぜか心強く感じられたからかもしれない。そしてそのまま、まるで小さい子をあやすように髪を撫でられ、再び瞼を下ろす。何も考えられなかった。
祐貴が再度目覚めたのは、そのちょうど一日後だった。
目覚めてすぐ自分は宿屋にいるのだと思ったが、起きようとした体に痛みが走り、違うことに気付いた。何とか痛みを堪えながら上半身を起こし両腕を見ると、ところどころ包帯が巻いてある。
そうだ。自分は暴行を受けたのだ。思い返すと、ぶるりと体が震えた。祐貴は落ち着こうと大きく息を吸った。
そして、そう、気を失う前に女性がきて――…
そのとき、部屋の扉が開かれた。同時に赤い髪の女性が入ってきて、まっすぐ祐貴に寄ってきた。
「あら、起きたのね!おはよう!熱はどうかしら?」
「あっ…え…」
声を上げようとしたが、口の中が痛くて上手く言葉が出ない。その隙に女性はベッドのすぐ隣まで来て、祐貴の額にその手を当てた。その手は柔らかくひんやりとしている。
「だいぶ下がってるわね。よかった。お腹すいてるでしょう?ご飯用意できてるの。すぐ持ってくるから待っててね」
「あ、あの…っ!」
彼女は入ってきたときの勢いよろしく、呼び止める祐貴に気付かずに出て行ってしまった。
とりあえず、あの女性が助けてくれて、この手当もしてくれたということなのだろう。祐貴は呆気にとられたまま、周りを見渡した。祐貴が寝ているベッドの脇にはちいさなチェスト。他は小さな木製の椅子と、床に大きな葛籠があるだけだ。壁には光りが燦々と指し込む窓が一つと、タペストリーが張ってある。ここは、あの女性の家なのだろうか。
「さ、お待たせ!」
元気な声とともに再び扉が開かれた。女性は手にお盆を抱えている。彼女は椅子に腰を下ろすと、起き上がった祐貴の膝の上にお盆を置いた。お盆の上には水の入ったコップと、ミルク色した粥のようなものが乗っている。
「ゆっくり食べてね」
「あ、あの…」
ほこほこと湯気を上げる粥と女性を交互に見つめ、祐貴は困惑するばかりだ。どうしたものかと悩んでいると、ほのかに甘く芳ばしい香りが鼻をつき、それに誘われるように腹からぐぅ…と音が鳴った。祐貴はぐっと口を噤んで顔を赤くした。
「あはっ、まずは食べて。お腹が可哀想よ」
「…いただきます…」
促されるまま祐貴はスプーンを手に取り、粥を口元に運んだ。ぱくりと口に含めば、そこまで熱くはないのに酷く染みた。
「っ…」
「気を付けてね、口の中も怪我していたみたいだから」
掛けられた声になるほどと思う。飲み下すのも少し痛い。そう言えば、殴られたときに何度か血だか胃液だかを吐いた。それで喉が焼けたのかもしれない。
その食感は米ではなくパンのそれだった。温かい粥は食道を通り、胃にもじんわりと沁みいった。ほんのり甘くておいしい。祐貴は自然と食べる手を速めていき、あっという間に器は空となった。
「いい食べっぷりね。おかわりはいる?」
笑い混じりに訊かれ、祐貴は首を横に振って応えた。
「ごちそうさま」
改めて女性を見る。赤い髪は頭上に大きなおだんごで纏められている。体つきはほっそりとしているのに弱々しい印象がないのは、爛々とした大きな薄茶の目のせいかもしれない。肌は白く頬にはそばかすが散っているが、それは彼女に柔らかな雰囲気を与えてくれていた。にこりと笑うと周りが一気に華やぐ。
「じゃあ、自己紹介するわね。私はイリス」
「…イリス…」
無意識に繰り返す。するとイリスの笑みは一層深まった。
「そう。貴方は?」
「………祐貴」
「ユゥキ…不思議な響きね」
そう言いながら、イリスは祐貴の顔をじっと見つめてきた。反射的に祐貴はふいと目を逸らした。瞳の色をあまり見られたくはない。
「ねえ、覚えているかしら。私たち、以前会ったことがあるのよ」
「え?」
驚いて、祐貴はイリスを仰いだ。しかし、どう見ても祐貴は彼女を知らない。そもそも祐貴はグラッドストンの屋敷からずっと出なかったわけだし、いままで旅を続けてきた中でも若い女性に会った記憶はないのだ。
「やっぱり、覚えてないかしら…一瞬だったもの」
「一瞬?」
疑問符をいっぱい浮かべる祐貴に、イリスは苦笑した。
「ごめんなさい、分かりにくいことばかり言って。二ヶ月くらい前、マーシィア川の近くでぶつかったの。貴方は誰かから逃げてるみたいで…」
祐貴は目を見開いた。それは、こちらに来たばかりの頃の話だ。祐貴を売ろうとした男たちから逃げる途中。
「あ…のとき、の、人…?」
そうだ、あのとき女性にぶつかった。顔はよく覚えていなかったが、イリスくらいの若い女性だった気がする。
「覚えてるの?よかった。ユゥキはすごく印象的だったから、ずっと気になっていたの。すごく具合が悪そうだったのに川に飛び込んでしまったから、驚いたわ。でもそれで正解だったのかも…ずいぶん近くまで追手が来ていたから、私には匿えなかったかもしれないもの。とにかく…無事でよかったわ」
「!」
イリスの言葉に、祐貴はかっと頬を熱くした。
あのとき彼女は助けてくれようとしていた?今、こうやって怪我の治療をしてくれたみたいに。間違いない。イリスは今、ただの他人の――奴隷と分かっている祐貴の無事を喜んでくれている。
でも、自分は彼女の手を振り払った。逃げた。捕まるのが怖かった。
「あの…ありがとう」
あのとき彼女を疑ったことを恥じながら、しかし謝るのも何かおかしな気がして、祐貴は礼を述べることにした。
「え?」
「あのとき、助けようとしてくれて。あと、今…怪我の治療とベッドも…ご飯もおいしかった。ありがとう」
「やだ、気にしなくていいのよ。私の自己満足なんだから」
イリスははにかんだように笑う。そして、祐貴の膝の上からお盆を取った。
「さ、まだ体も本調子じゃないでしょう?薬を飲んで、もう少し寝た方がいいわ」
「あ、いや――…」
もう動けるし、ここを出ていく。一所に甘えるわけにはいかない。そう言いながらベッドから出ようと毛布を捲った祐貴だが、肩に激痛が走り言葉を飲んだ。
「ダメよ、おとなしくしてなきゃ。肩、脱臼していたのよ?」
小さな子供のように諫められ、祐貴は渋い顔をした。
「…っ…でも、荷物、宿に預けたままだし…」
そこまで言って、祐貴は自分の体を見た。今着ている服はゆったりとした柔らかい生地のシャツとパンツで、祐貴がもともと着ていた服ではない。
「俺の、俺の服どこ!?」
今までにない勢いで訊ねる祐貴に、イリスは驚いたように身動ぎ、ベッドの脇に置いてある葛籠を指差した。
「えっと…服ならここだけど…」
祐貴がその葛籠に手を伸ばそうとすると、それより先にイリスがその蓋を開け、中に入っていたローブにシャツ、ホーズを取り出す。
「でも、ぼろぼろで繕わないと着れないわよ?洗濯もした方がいいし…」
今は、着れる着れないは問題ではなかった。祐貴はほつれたり破れていたりするそれを受け取ってすべてのポケットを漁った。そこには何もない。
「俺の…これだけ?」
「ええ、そうよ。周りにも何も落ちてなかったわ」
さっと祐貴は顔を青くした。解っていたことだった。記憶も残っている。あのやくざのような男たちに、金を全部持っていかれたのだ。本当に硬貨一つも残っていなかった。
「ユゥキ?大丈夫?」
ここを出てから、どうする。祐貴は己に問いかけた。気温が低すぎて野宿など出来そうにもない。
考えろと命令しているのに、同じところが考えることを拒否する。何もかもから逃げたくて、祐貴は手を握りしめて俯いた。
「ユゥキ、宿の荷物は私が受け取ってくるから、今は眠って。傷が癒えるまでここにいるといいわ。ね?」
優しい声と共に、肩にそっと柔らかな感触が降りてくる。祐貴にはその提案に抗えるだけの気力は湧かなかった。示された逃げ道に進むしかできない。
半ば縋るように、祐貴はイリスを見た。よほど顔色が悪かったのが、イリスの表情は痛ましいものを見るように悲しげだ。
「ここにいていい…?」
「いいわよ」
「お金、ない……ないんだ…」
「そりゃ、うちは金持ちじゃあないけど、怪我人を追い出すようなことはしないわ。できることを少し手伝ってくれれば嬉しいけど」
そう言って、イリスは朗らかに笑う。
甘えたら駄目だ。またお前は人に甘えるだけなのか。頭の隅の方でそんな声がするが、祐貴は聞こえないふりをした。
「………ありがとう」
◆◆◆
ランドック一の繁華街は、今夜はいつも以上に騒がしかった。その理由は、客にある。
今宵、ウィスプの虎のメンバー幾人かが繰り出して来ているからだ。彼らは金を持っているから羽振りが良い。店の者もおこぼれに与ろうとする一般客も皆浮足立つのだ。
立ち並ぶ店の中、とある高級娼館の二階の一室にウィスプの虎の頭――ヴェダはいた。
「それで?どうしても、宝石は駄目なのか」
娼館であるにもかかわらず、ヴェダの周りに娼 はいない。目の前に座る男――この娼館の主であり、この一帯で行われる競売の元締めでもあるタンザだけだ。
「次は美術品だけって言っただろう。ヴェダのように野蛮な盗賊には理解できない、高尚な競売なんだ。宝石なんて俗なもんが混ざったら一気に興ざめだ」
タンザはグラス持った手を芝居がかった様子で掲げながら、ふっと微笑む。
整った顔に煌びやかな金髪碧眼、ドレスシャツにリボンタイを締めるタンザにはそんな仕草が良く似合う。
そんな彼の目の前に座っているヴェダは、対照的にお世辞にも紳士とは言えない。ターバンの巻かれた腰の強い黒鋼の髪、切れ長の瞳は獣を思わせ人を寄せ付けない。まだ成長途中のしなやかな体を包むのは、簡素なチュニックにホーズだ。
しかし、タンザの中身が外見とは裏腹に金に汚く狡猾だということを、長年の付き合いであるヴェダはよく知っている。
「お前だって落書きされただけの紙切れや布切れの価値なんて解ってねぇだろうが」
酒を呷りながらヴェダは嘲った。タンザは格好こそ貴族のようにしているが、元は奴隷だ。芸術品に精通しているとも思えない。
「価値なんて解らなくても、利益になることは知っている。貴族内で絵を持つことが流行っているらしいんだ。売りつけるなら今だろ?」
「ふぅん…」
「宝石の競りは二週間後。質のいいのを持ってこいよ」
「……わかった。少しは色をつけろよ」
ヴェダが頷いたところで今回の商談は終わりだ。タンザがテーブルに置いてあった鈴を鳴らす。
りんりんと涼やかな音が鳴ると同時に、部屋の扉が開き人が雪崩れ込んでくる。娼たちと給仕だ。広いテーブルの上には料理と酒が次々並べられ、ヴェダとタンザの両脇には娼たちが侍る。
部屋は商談の場から一気に本来の娼館の姿へ戻っていった。
「ヴェダ様、私もう待ちくたびれたわ。最近ちっとも来てくれないんだもの」
ヴェダの隣に座った娼――エルザが、甘い匂いと共にその豊満な胸を押し付けるようにしなだれかかってくる。エルザはヴェダより五つも上だが、口も堅く聡いため、いつも贔屓にしている娼だ。
言われてみれば、ヴェダはこの娼館に来るのはずいぶんと久しぶりだった。タンザとはよく取引で会っていたが、場所はいつも様々だ。
「そうだな、ヴェダ、たまには遊んで行けよ。大枚落としていけ」
「あー…そうだな…」
この数ヶ月誰も抱いていないことに思い至り、ヴェダはタンザの言葉に曖昧に頷く。しかし、あまり乗り気がしない。ここ最近は忙しく動き回っていたため、そういった欲求は代わりに発散されてしまったのかもしれない。
最後にしたのはいつだったか、と思ったところで、ヴェダはあることを思い出した。
―――そう言えば、喰い損ねた奴がいた。
脳裏に浮かぶのは潤んだ黒い瞳。あれがどうしても欲しかった。しかし、あれはもういない。
ファイエットからの報告によると、川に身を投げたという話だ。逃した魚は大きいというわけではないが、あれを逃がし――殺してしまったことに、ヴェダは後悔に似た感情を抱いていた。
黙り込んでしまったヴェダに、あまり乗り気でないことに気付いたのだろう。タンザはにやりと笑うと品を変えてきた。
「なら、娼じゃなくて情報でも買うか?」
「なにかあるのか?」
タンザは商売柄、あらゆる分野の情報にも精通している。これまでも標的の情報や師団の動向など、いろいろと流してもらった。
にやにやと笑うタンザは、すっと指を三本立てた。
「三百か」
「いや、三千だ」
三千セル。いつも流してくる情報よりも高い値段に、ヴェダは眉根を寄せた。反対にタンザの顔は楽しげに歪んでいく。
「ふふ、どうする?」
「国師団関連か?」
それならば、必要となってくる。討伐隊や国師団に捕まるわけにはいかない。奴らが動く情報などは確実に手に入れておきたい。
「いいや。国は関係ない。これは『ウィスプの虎』に売る情報じゃなくて、ヴェダ個人に売る情報だ。どうする?」
「俺個人だと?」
「そう、買うか?」
タンザは訊ねているが、その顔はヴェダが買うと確信している。
「どんな情報だ?」
「―――黒髪の青年」
タンザの唇からその言葉が出たとたん、ヴェダは口を噤んでタンザを見た。
「歳の頃はヴェダとそう変わらない、黒髪の異国人の情報さ。買うか?」
タンザも数ヶ月前、あれを見ている。さらにはヴェダがあれを欲しがっていたことも知っている。タンザの自信満々の顔は、その黒髪の異国人があれだと思っている、ということか。
確かにあのとき死体は上がらなかった。生きていてもおかしくはない。そう考えたところで、ヴェダの気分は一気に高揚してきた。
「確かな情報か?」
「そりゃあもう。俺が半端な情報を流した事があるか?」
その言葉に、ヴェダは笑った。確かに、今までタンザの情報はすべて正確だった。懐に手を入れると、財布をテーブルの上に投げる。
「前金」
「まいどありぃ」
ニコニコしながら財布の中身を数えるタンザに、ヴェダの隣のエルザは少し不満そうにしていた。
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