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第四章 虎になる-1
リズ=フラットルとセレン=マルギーが並んで魔導学院の廊下を進むと、学院生たちはさっと道を譲る。ちょうど本日の講義がすべて終了した時間帯で、すれ違う魔導士の卵たちが彼らに羨望と畏敬の念を込めて頭を下げていった。
しかし三階まで上がってしまえば、そこにはもう学院生たちの姿はなく静粛な空気が漂っている。ドアを打つコンコンという音が、いやに高く響いた。
「失礼いたします」
「失礼しまーす」
部屋の中から返事がないうちに、リズは扉を開いて中へと進む。セレンもすぐ後に続いた。
扉の正面奥にある机に腰掛けていたドードルが顔を上げ、二人を認めて目を眇めた。
「手ぶらか?」
不機嫌そうな声で問われ、リズは僅かに肩を竦めた。
「目標を見失いました」
「そうそう、手の届くとこにいたんですけどね。急に消えちゃって」
「消えただと?」
ドードルから舌打ちが漏れる。
「詳しく話せ」
荘厳な声で命じられ、リズとセレンはドードルの机の前でぴっと背を正し、報告を開始した。
二人がドードルから命じられていたのは、黒髪黒目の男の捕縛である。決して傷つけることなく連れてくるよう言われていた。
しかし、これは公務ではなかった。公務であるはずがないのだ。
この命は正しく言えば、ドードルではなく、ドードルのさらに上にいる、『フィ』が望んでいることだからだ。なので、その男を欲する理由を、リズははっきりとは聞いていない。しかし、フィが必要とするならリズに断る謂われはない。セレンにしたって同様だ。
今日初めて目にした目的の男――名は確か、ユゥキといった――は、何とも力のなさそうな平凡な人間だった。手の届く範囲に行けば、すぐに捕まえられるとリズもセレンも思った。
しかし、邪魔がたくさん入った。一つは、スキッピオ一家。ただ、スキッピオ一家のおかげでユゥキを見つけられたというのもあり、一概に邪魔者だとは言えないのだが。
その他は、確実に邪魔だった。アイザ=グラッドストンと、煙幕を使ってユゥキを逃がした何者か。
「―――つまり、第三者が介入してきたということか」
話を聞き終えたドードルの言葉に、リズが頷く。
セレンがニッと笑った。
「第三者というより第四者?グラッドストン伯がまず第三者でしょう?あ、スキッピオが三かな?じゃあ五ですかね、隊長?」
「…黙っていろ、セレン」
呆れた声でリズに窘められ、セレンは素直に口を噤む。リズは一つ溜め息を落としてから、ドードルに向き直った。
「対象が消えてしまった後のグラッドストン伯の狼狽ぶりからして、彼が関与している人間による妨害とは思えません。スキッピオかと思いすぐに奴らの賭場に乗り込んで捜索しましたが、どうやら違ったようです。一時対象と行動を共にしていたという魔導士のファイラ=トーンかとも思いましたが、奴は制約により王都には入れないとのことです」
「他に見当は?」
「……まったく」
ふう、とドードルの口から息が零れ、リズはぐっと拳を握った。彼を失望させてしまった自分が腹立たしい。
「何者が介入してきたかも解らない、足取りも掴めていない、と?」
あの後、ユゥキが世話になっていたというパン屋にも行ってみたが、荒らされたそこには店主とその娘しかおらず、ユゥキの影はなかった。あの平凡な母娘があの救出劇をやってのけて惚けているとは考えられないし、あんなことがあったすぐ後に、ユゥキがあそこへ帰るとも思えなかった。
ドードルの問いに、リズはただ頷くしかできない。処罰も甘んじて受けるつもりだ。
しかし、隣に立つセレンが弾かれたように口を開き、ペラペラと言い訳を繰り出した。
「だから、言ってるじゃないですか、代表。対象を取り逃したのは邪魔が入っちゃったせいなんですよ。特にあのグラッドストン伯…グラッドストン領だけならまだしも、王都にまで来てたんですよ?まったくやってらんないですよ。早々に駆除すべきだと思いません?」
そう言うセレンは、言外にグラッドストン伯を潰す許可を下ろしてくれと訴えている。
ユゥキは無傷で、と命を受けたリズ達だが、彼がグラッドストンの屋敷にいるとの連絡を受けた時、同時にグラッドストン伯のアイザを害してはいけないとの命も受けていた。
何に対しても破壊願望を持つセレンの思考は極端だが、グラッドストン伯に関してだけはリズも同意だった。これから先まだユゥキを探すなら、何度も彼は邪魔になってくるだろう。
「すっごくムカつくんですよね、あの人。貴族だし」
ふっと唇を歪めて言うセレンに、ドードルは手を額に当てて眉間に皺を寄せた。
「グラッドストン伯か…」
その声には苦々しさと諦めが混じっている。
「仕方ない、フィがあの若造を気に入っている。フィも幾分か邪魔に思っているようだが…潰したくはないそうだ」
フィがグラッドストン伯を気に入っていることは、リズたちも知っていた。グラッドストン伯を潰そうとするなら、フィの気が変わるのを待つしかないのだ。
「なら関わらせないようどうにか手を回せばいいのに」
それでもセレンはブツブツと文句を垂れる。
「手を回したくとも、グラッドストンの若造はあの対象にかなり執着しているようだからな…」
それはよく解っている。彼がグラッドストンの屋敷でユゥキの存在をひた隠そうとしたこと、裏通りでスキッピオから、自分たちから必死で守ろうとしたことはつい先ほどのことだ。
「とにかく、対象の捜索を続けろ。あの情報屋にはあまり借りは作らない方がいいが…背に腹は代えられん。また情報屋でも何でも使って、できるだけ早く黒髪黒目の男を連れて来い。誰にも出し抜かれるな」
「はっ」
どうやら、処分を下す間も惜しいらしい。鋭く命ぜられた言葉に、リズはさっと礼を返す。そしてそのまま、早速セレンを連れて部屋を後にしようとした。
しかし、リズが振り返っても、セレンはそのまま動かない。リズは訝しんでセレンを呼ぶ。
「おい、行くぞ」
「はあ…でもその前に、聞いておきたいことがあるんですよ、僕」
セレンはリズではなく、真っ直ぐドードルを見ながら言った。その視線は探るように鋭く、不穏な色が含まれている。
しかしドードルは、一身にそれを受けても顔色を変えないまま片眉を上げてセレンを促した。
「あの対象は、何者なんです?」
単刀直入な質問に、リズは息を呑む。失礼なセレンの態度を咎めることができなかった。それは、リズが聞きたくても聞けないでいたことだ。
「今まではただの異邦人だと思ってましたよ。実際今日初めて見ましたけど、何の変哲もない男だった。それなのに、あいつ…僕の召喚獣を止めた」
ぎり、と歯ぎしりの音が響いた。セレンの顔は歪み、苛立ちが顕著に表れている。
リズもあれは不思議に思っていた。セレンの召喚獣が止まったのは他の要因による偶然かもしれないが、タイミングが良過ぎた。少なくともセレンはユゥキの声で召喚獣が止まったのだと確信している様子だ。
ドードルは一瞬だけ目を見開いた。
「召喚獣を止めたか…なるほど」
それは落ち着いた声だったが、先ほどの反応からして彼も驚いているのだろう。しかし、ドードルは驚く以上に楽しそうにフフっと笑った。
「私もあれがどういった人間なのかは詳しくは聞いていない。フィは訊ねても教えようとしないのだ。ただ、あれがどうしても必要――いや、あれさえあれば他は何もなくてもいいとフィは言う。フィの言葉は嘘ではなさそうだな。それほどまでの何かをあれは秘めているということだ」
「他は何もいらない?どういう意味ですか」
リズはセレンを遮り、思わず声を上げていた。
「言葉通りの意味だ。こつこつと集めている武器も、育てている人脈もすべて、あくまでも保険に過ぎない。それらがなくても、あれさえいればフィは起こせると言っているんだ―――革命を」
「まさか、そんな…」
リズたちはフィを筆頭に、血筋にだけ縋りつく無能な貴族どもより、実力ある魔導士たちが権力を持つべきだと考えている。そのために粉骨砕身しているのだが、ただ貴族たちを一掃すれば済む話でもない。確実に政権を奪取するため、地道に苦労を重ねているのだ。
「今のこの世を作ったのはたった二人の人間だ。いや、一人といってもいい…イレの力で以って、初代の王は国を治めたのだ。強大な力を持つ一人の魔導士でな」
「馬鹿な!あの男がイレに匹敵する魔導士だとでも言うんですか」
ドードルの持ちだした話に、リズは思わず声を荒げた。セレンも目を丸くして、ドードルを伺っている。
「さあな……ただ、あれは黒髪黒目。エマヌエーレ人ではないな」
「なら…」
魔導士であるはずがない。
「ひとつ予想はしている。正しいかは解らんが」
ドードルはリズ達の反応がおかしいのか、口角を上げたままもったいつけるように言う。
「予想とは?」
「なんですか。あの男が何だって言うんです」
焦れてせっつく二人を嘲るように、ドードルはことさらゆっくりと口を開いた。
「あれは、きっと―――…」
そうして綴られたドードルの予想に、リズもセレンも言葉を失った。
◆◆◆
あらかたの作業を終えて、イリスは息を吐いた。
壊された扉や棚の修繕が、ひとまず終わった。最初のうちはアイザにも手伝ってもらっていたのだが、彼は城へ赴くことになったので途中からはイリスとルッツの二人で片付けをしていた。思ったよりも時間がかかり、もうすっかり日も沈んでしまっている。
明日の仕込みは駄目になってしまったが、午後からなら店を開けることができるだろう。
「よし…。ありがとう、ルッツ。付き合ってくれて」
「別にいいよ、このくらい…」
イリスは店に入ると二階の部屋で休んでいる母親に声をかけ、厨房で夕飯の支度を開始した。もちろん、四人分だ。母とルッツと自分、そしてユゥキの。
ルッツは今日、泊まっていくと申し出てくれた。あんなことがあったばかりで、女性二人だと心許なかったのでありがたい。
近衛師団が駆けつけた時、ユゥキはその場から消えてしまっていた。アイザにも行方が解らず、スキッピオ一家の賭場に行ってみると、そこは先に訪れたであろう魔導国師団二名によって壊滅状態になっていたらしい。なので、スキッピオがやってくる心配はないのだが、ユゥキが今どこにいるのかは皆目見当もつかず、心配で胸が痛い。
しかし、イリスよりもきっと、アイザの方が心を痛めているのだろう。彼らがどういった関係なのかは知らないが、アイザはユゥキをずっと探し求めていたようだった。
イリスも母親も、今までユゥキが話したくなさそうにしていたので身上を訊ねたことはなかったのだが、こんなことならもっと聞いておけばよかったと少しだけ後悔している。
「ルッツ、スープは玉ねぎとセロリどっちが――…」
いいかしら、とイリスが問おうとした時、コンコン、と遠慮がちなノックが裏口の扉から響いた。
一瞬、イリスもルッツもぎくりと身を強張らせたが、返事をする前に扉がゆっくりと開く。
そして、おずおずと入ってきたのは――…
「ユゥキっ!」
イリスは慌てて彼の元へ駆け寄った。扉を大きく開き、ユゥキを中へと引き込む。掴んだ手は冷たく、イリスはさっとユゥキの体を見回した。連れて行かれた時の姿のまま、薄手の服はさぞ寒かっただろう。
「無事だったのね。よかった…!」
「心配かけて、ごめん…」
そう呟くように言うユゥキの顔色は良くないが、体に目立った外傷はない。イリスはほう、と大きく息を吐いた。
「本当によかった…アイザさんもすごく心配していたわよ」
そう言うと、ぎくりとユゥキの体が強張った。
「どうしたの?」
「アイザ…いる?」
怯えたように問うてくるユゥキに、イリスは首を傾げる。質問にはルッツが代わりに返事をした。
「アイザさんは城に行ってる。お前が消えちまったから、お偉いさんに相談するとか何とか言ってたぜ」
その言葉を聞いて、ユゥキはほっと息を吐くと、ぎゅっと手を握りしめてイリスとルッツを見た。
「イリス、ルッツ……迷惑たくさんかけてごめん。俺、出ていく」
「えっ?」
イリスは目を見開いてユゥキを見返した。ユゥキの目は真剣で、自棄になって言っているようでもなく、戸惑う。
「これ、お詫び。こんなので繕えないくらい迷惑ばっかり掛けたけど」
ユゥキが服の内から取り出したのは、札束だった。それを押し付けるように手渡され、イリスは思わず受け取ってしまった。その分厚さに、言葉を失う。
「お前、なんでこんなに…!」
驚いているのはルッツも同じで、目を丸くしてイリスの手元の札束を見ている。
「俺、その…さっき知り合いにあって。国に帰れそうなんだ。このお金もその知り合いが立て替えてくれて…」
「待って、ユゥキ。こんなの受け取れないわ、こんな大金…」
イリスは戸惑いながらも、札束をユゥキに向ける。ユゥキが国に帰れるというのは喜ばしい話だが、こんなにたくさんのお金を貰う理由はない。店を以前より綺麗に修繕したってまだお釣りがくるくらいだ。彼を世話したのはイリスの自己満足だというのに。
しかし、ユゥキはふるふると首を振る。
「他に恩返しも罪滅ぼしもできないんだ。お願いだから受けとって」
そう言うと、ユゥキはさっと部屋の奥に足を向ける。
「サリィは二階?」
「そうだけど…待って、ユゥキ」
イリスの呼びとめる声を無視して、ユゥキは二階へと消えていった。
「どうしよう…」
残されたイリスは、不安げに顔を曇らせて縋るようにルッツを見た。
「…もらっても、いいんじゃねぇの?イリスが受け取った方が、あいつ自身楽になるし、それで店もちゃんとした修理できるだろ」
「でも…」
「あいつ、知り合いがいたって…よかったな。しかもこんな金持ちの知り合いなんてさ。消えたってのも、その人に匿ってもらってたのかな」
「そう、そうね…」
「こういう言い方はあれだけど、事情はあんまり知らない方が身のためかもな。あいつが出ていった方が、イリスたちも安全だし…」
「そう…」
イリスはルッツの言葉を聞き流しながら、ひとまずお札をテーブルに置き、夕飯の支度を再開させた。
ほどなくして、再びユゥキが下りてきた。その姿を見て、イリスはぎょっとして作業の手を止めた。
「まさか、今出ていくの!?」
ユゥキはしっかりとローブを着こんでいて、肩から唯一の荷物であった袋を提げている。そして、ひとつこくりと頷いた。
「すぐ行く。サリィにも挨拶したから」
「おいおい、もう夜だぜ!明日、明けてからでいいだろ?」
「そうよ、危ないわ」
ルッツとイリスが口々に反対するも、ユゥキは頑として譲らなかった。その瞳には固い決意が見える。
「知り合いがすぐ出発するって言うから、いかなきゃ。イリス、ルッツ、今まで本当にありがとう」
ぺこりと頭を下げて、ユゥキは先ほど入ってきたドアに手を掛ける。
「……そうか。元気でやれよ」
「うん、ルッツもね」
ルッツは渋い顔ながらも納得した様子で、ユゥキを見送る。
しかし、イリスは納得できなかった。ユゥキが帰れることはいい。それが彼の望みなのだから。すぐ出発というのも、少し寂しいが仕方ない。解っていても、なぜだかひどく焦る。ユゥキを行かせてはいけない、そんな気がする。
がちゃ、と扉が開く。
――駄目。
「待って!!アイザさんが…!」
思わず口をついて出た名前に、イリスは納得した。これが焦っていた理由だ。
「せめて、アイザさんに一目会っていって!すごくユゥキを心配していたわ!!」
会ってほしい。あれだけユゥキを探し求め、心配していた彼に。またユゥキがいなくなってしまったと知ったら、どれほど悲しむだろう。
振り返ったユゥキは少し寂しげに笑った。
「アイザにも、ありがとうって伝えておいて。あと…そうだな『たくさん出世して、立派になってね』って」
その言葉を最後に、扉がぱたりとしまり、ユゥキの姿を遮った。
「待って!」
イリスは急いでドアを開けた。しかし、すでにそこにユゥキの姿はない。
「ユゥキ!?ユゥキ!!」
慌てて周りを見渡すが、通りのどこにも人の姿がない。たった一瞬のあいだに、ユゥキは忽然と消えてしまっていた。
「ユゥキ…」
呟く声が白い息となって暗闇に溶けていく。
立ちつくすイリスの上に、はらりと雪が降ってきた。
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