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第四章 -2
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祐貴はただひたすら目の前のヴェダの背中を追った。少しでも余所見をしたり、歩みを止めたりしたらあっという間にはぐれてしまうだろうし、ちょっとでも気を抜けば足場を崩して地面に落ちてしまうだろう。
二人は雪が降りしきる中、屋根の上を進んでいた。
辺りはもう暗い。傾斜があったり凹凸があったりと足場が悪い上に、遮るものがないそこは風も強い。ヴェダはまるで明るく平坦な地面を歩くようにすたすたと進んでいくが、祐貴は歩くだけで必死だった。下にはちゃんとした道があるのだからそちらを通ればいいのに、ヴェダは「屋根の上を渡り歩くことに慣れろ。とにかく着いてこい」と言って譲らなかった。イリスの家を出た瞬間屋根へと引き上げられ、そのまま歩いて今に至る。
ヴェダはまったく振りかえらない。祐貴がついてこないならそれでいいと思っているのかもしれない。
「っわ…!」
不意に足元が柔らかな布に掬われ、慌ててそこをどこうとした祐貴はバランスを大きく崩した。
「――っ!」
倒れそうになる方向には何もない。屋根は途切れていて、細い路地に落ちるしかない。
しかし、宙に投げ出されそうになった体は傾いだ状態のまま止まった。
腕に圧力を感じ見上げてみれば、先ほどまで少し先を歩いていたはずのヴェダがすぐ傍らにいて、祐貴の腕を掴んでいた。
「…あ…」
「どんくさい奴」
ふん、と鼻を鳴らすヴェダに、ありがとう、と言いかけていた祐貴は言葉を呑んだ。助けてもらったのだから礼を言うのは当然なのだが、ただでさえ悔しさが先に立ってヴェダに礼を言うのはためらわれるのに、どんくさいなどと言わればその思いもひとしおだ。
「日付が変わる前にランドックに入るぞ」
祐貴がしっかりと立ったのを確認すると、ヴェダはそう言ってまたすたすたと歩き出す。
ランドックまでならまだ先は長い。ますます暗くなっていく中をまだまだ歩くと考えただけでぞっとするが、祐貴はぎゅっと唇を引き結ぶと、その後を追った。
祐貴は彼の後についていく道を選んだのだ。
「どうする――?」
そう問うてくるヴェダに、祐貴は問い返した。
「………絶対に、城に連れて行ってくれるんだな?それが可能なんだな?」
このような輩との口約束にどれほどの縛りがあるだろうか。それでも問わずにはいられなかった。縋るものが他に見つけられない。
「俺は――俺たちは、狙った獲物を逃すことはない。絶対にだ」
ふっと笑うその顔は自信に満ちている。その表情に祐貴は漠然と、こいつならできるんだろう、と確信めいた思いを抱いた。先ほど祐貴をあの場から攫ったように、あっさりとあの包囲をかいくぐっていける気がする。
しかし、今の体勢を思いだすと、申し入れを受けるのがためらわれる。頷けば、この男に犯されるのだ。想像もつかないその行為に、嫌悪と恐怖が湧きあがる。
「…………わか、た…」
たっぷりの間の後、祐貴は震える声で頷いた。
この男は飽きるまでと言った。一回で飽きる可能性の方がきっと大きい。一度くらいなら我慢できる。もう絶対に、絶対に、帰ると決めたのだ。それくらいの犠牲は払えないと駄目だと、祐貴は自分を諫めた。
「交渉成立だな」
眇められたヴェダの目に、祐貴は身を固くした。
しかし、予想に反してヴェダはすぐに祐貴の上から身を起こした。戸惑う祐貴を余所に立ちあがると、拘束されていた祐貴の腕と足を解いていく。そして、縄が解けても寝ころんだままの祐貴を見て笑った。
「今すぐ食ってほしいみたいだが、悪いな、先にここを離れる」
「…っ」
かっと頬を熱くして、祐貴は急いで起き上がった。犯されることを望んでいるはずもない。
「予定外に抜けてきたからな。早く戻ってやらないと…今すぐ発つぞ」
今すぐ発つのは祐貴も望むところだ。しかし、はっと思いだす。目の前でスキッピオに攫われ、きっとルッツとサリィには心配をかけっぱなしだ。それに、荷物も置いたままだ。あの荷物だけは持っていきたかった。アイザに買い戻してもらった服だけは。
「……あの!」
祐貴はぐっと拳を握ると、部屋を出ようとするヴェダを呼びとめた。
それから荷物を取りに行きたいと頼むと、ヴェダは呆れた様子だったが駄目だとは言わなかった。さらに祐貴が金を無心すると、厚かましいと祐貴を罵りつつも意外にもあっさりと莫大な額を貸してくれた。今も、無関心に見えてちゃんと助けてくれた。
ヴェダは本当に祐貴の体だけが目的なのだろうか。今の状況は多少のリスクはあれど、祐貴にとっては好条件すぎて少し気味が悪い。
しかしそれを聞く気にもならない。特に会話もないまま、数時間ひたすら歩き続けた二人は、やがてランドックの街中へと入っていった。
夜もすっかり更けて、多分予定はずれてもう日付は跨いでしまっているだろう。しかし、繁華街はまだ煌々と明かりを放っていた。
「下りるぞ」
そこでやっと、屋根の上の道程は終わった。低い建物の上からヴェダがさっと縄を垂らし、猫のようにすたんと軽く下りていく。祐貴もその真似をしながら下ろうとしたが、不安定に揺れる縄は心許なく、寒さでかじかんだ手足は上手く動かせなかった。結局何分もかけて恐々と下りた後、ただでさえ歩き続けて疲れていた体はぐったりと脱力した。
「こんなんじゃ少し鍛えるくらいじゃ足りねぇな」
呆れ切った声で言うヴェダに、祐貴は言い返すことはできない。ただ無言で顔を逸らすと、被っていたローブを引っ張られ、更に目深にされた。
できるだけ顔を隠せと言って、ヴェダは大通りへと出た。祐貴も言われた通り顔を隠しながら後を追う。地面の感触はしっかりしていて、それだけで少し安心できた。
酔っ払った男や客引きをする女、そこは多くの人が行き交っている。ヴェダは顔が広いらしく、たまに商売女に声をかけられていた。しかしそのどれもをあしらって、真っ直ぐ目的地へと歩いていく。
彼女たちは、ヴェダが盗賊だと知っているのだろうか。疑問に思いながら、つれないヴェダに不満を漏らす女性たちを祐貴は盗み見る。
すると、頭を叩かれた。
「きょろきょろすんな。着いたぞ」
言われて目を向けると、そこには大きな二階建ての店があった。祐貴もこれまでにそれなりに知識を得てきたので知っている。けばけばしさはあまりなかったが、豪奢な造りのそこはどう見ても娼館だ。ヴェダはその店の中にずんずんと足を踏み入れていく。
「あ、ちょっ、ま…っ」
ヴェダが中に入ると、すぐに礼装した男と胸が広く開いた服を着た娼がやってきて彼に腕を絡ませた。ヴェダが何事かを言うと、にこやかに笑いながら彼を奥へと誘っていく。
祐貴も慌てながらも恐々と足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、お客様」
すぐに別の黒い礼服の男がニコニコしながら祐貴に近付いてきた。
「当店は初めてで?当店は会員制となっているのですが、どちらかからのご紹介でしょうか」
「あ、いや、俺は…」
どう対応して良いか解らず、祐貴は奥の部屋へ入ってしまいそうなヴェダを見る。すると彼が振りかえった。
「それは俺の連れだ。客じゃない。おい、もたもたするな。早く来い」
「ああ、ヴェダ様の…奥へどうぞ」
ヴェダに命ぜられ、男に促され、祐貴は小走りでヴェダの元へと行った。
相変わらずヴェダの隣には女性がひっついているし、そこかしこから女性の喘ぎ声が漏れ聞こえてくる。落ち着かなくて、祐貴はじっと床を見つめながら歩いた。そんな祐貴を見て、ヴェダのとなりにぴったりとくっついた娼がくすりと笑った。
階段を上って二階へ行くと、一番奥の部屋に辿り着いた。そこで娼と黒服はいなくなり、ヴェダと二人でその中へと進む。
部屋の中には大きく艶やかなテーブルと、奥に小ぶりなデスクがあり、そのデスクに向かって一人の男が腰かけていた。書類らしきものを見ていたその男は、入ってきたヴェダと祐貴に気付いて顔を上げる。
「ああ…戻ったのか」
その顔に祐貴は見覚えがあった。整った顔に金髪碧眼、相変わらず王子のように綺麗な様相をしたその男は、祐貴を売りさばこうとしたあいつだ。
「それは?」
祐貴の方を顎でしゃくりながら男が問う。ヴェダは無言のまま祐貴のローブを剥いで顔を晒させた。
金髪の男と目が合う。
「……っ」
ヴェダと繋がりがあって当然なのだが、再会は予想外で、苦々しい思いしか浮かんでこない。思わず顔を顰めた祐貴に、男は面白そうに口角を上げた。
「わーお、嬉しいね。俺のこと覚えてるみたいだ」
忘れるはずもない。彼はとても印象的だ。ただ、その印象は悪い方向に向いているのだが。
祐貴が顔を逸らせば、男はヴェダに向き直った。
「それにしても本当に連れてきたか。流石だなぁ」
「少し時間がかかったがな。国師団の奴らの目の前でかっさらってやった」
「ははっ。そりゃ楽しい。俺も見たかったね、リズたいちょーとセレンちゃんの吠え面」
「俺の姿は晒してない。こいつは虎に入れる」
「へぇ……入れるんだ。やってけるのかね、この子が」
「人間は慣れる生き物だ」
「慣れる前に死んだりして。ふふっ」
祐貴を放ってなにやら物騒な会話がなされている。それでも口をはさまず、祐貴はただおとなしくしていた。
「とにかく、これに関する情報はもう売るな」
「了解」
金髪が頷いたところで、ヴェダは祐貴の腕を掴んだ。そのまま部屋を出ようとするヴェダに連れられ、祐貴もよろめきながら足を踏み出す。
「今夜は泊まっていくのか?」
出ていこうとするヴェダ達に、金髪が声を掛ける。ヴェダは顔だけ少し振り返り、応えた。
「ああ、明日の朝ウィスプに戻る」
「ふーん。別にいいけどさあ、ここ連れ込み宿でも男娼楼でもないんだよねぇ。解ってる?」
「これに飽きたら娼を買ってやる」
「あっそ。素晴らしいご趣味で」
どこか呆れた金髪の声を残し、祐貴たちはまた娼の喘ぎの響く廊下へと出た。
淀みなく歩くヴェダは角部屋へ着くと、当たり前とばかりにそこに入った。中は広かったが、意匠を凝らした大きめのベッドとテーブルが一つずつあるだけだった。明らかに商売で使われている部屋だ。
「わっ…!」
その唯一のベッドに投げ出され、祐貴はそこに倒れ込んだ。そうして、ついにそのときが来てしまったのだと悟った。今ここで、やられてしまうのだ。
ヴェダは当然のように仰向けに転がる祐貴の上に乗ってきた。腕に手が掛けられ、その重みに体が竦む。覚悟はできているはずなのに、いざとなるとやはり怖い。
「…さ、さっきの奴…あいつもウィスプの虎の一員なのか?」
「あ?タンザは違う。あいつはウチと懇意にしてる情報屋だ」
「情報屋…」
「これから何度も顔を合わせることになるだろ」
「………」
タンザ、彼にはできれば会いたくはない。しかし、それも城に行くまでの我慢だ。そして、これからする行為も、終わるまでの我慢だ。
「口、開け」
高圧的に命じられ、祐貴はことさらゆっくりと唇を開いた。そこに、ヴェダが噛みついてきた。唇に柔らかく歯が立てられる。
「んっ…!」
恐怖なのか嫌悪なのか解らないが、暖かい感触に体が震える。そして、ぬるりとしたものが口腔内に滑りこんできた途端、祐貴は驚きのあまりそれに力いっぱい噛みついてしまった。
「っ…!」
「ぁっ…」
ヴェダが声にならない呻きを上げたと同時に、祐貴の口の中に鉄の錆びた味が広がる。
ヴェダの顔が離れ、祐貴はほっとするよりも先に慌てた。拒絶してはいけないのに、やってしまった。
青くなる祐貴に、ヴェダはどこか楽しそうに頬を歪める。
「まずいことをやったって自覚はあるようだな」
そう言う彼の唇の端に、真っ赤な血が滲む。ヴェダはそれをぺろりと舐め取った。
「その、あの………」
完璧に怒らせてしまった。祐貴はどうしていいか解らず、言葉を探した。
「その………ご、ごめんなさい」
結局出てきたのは謝罪の言葉で、それはどこか間抜けに響いた。
ヴェダは一瞬目を丸くし、次の瞬間噴き出した。
「……はっ…」
よっぽどおかしかったのか、くつくつと笑うと、ヴェダは祐貴の上から退いて隣にごろりと寝ころんだ。
祐貴は僅かに体を起こし、ヴェダの方を伺う。ヴェダは祐貴を見上げながら、ふっと息を吐いた。
「もういい、萎えた。ガチガチに固まってる奴とやるのも楽しくないしな。また明日だ。自分から脚開くくらいはしろよ」
そう言い放つと、祐貴がイエスともノーとも答えない内に目を閉じる。それからあまり時間も経たないうちに、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……なんなんだよ…」
祐貴に寝首をかかれるとは思っていないのか、あっさり眠ってしまったヴェダに、祐貴は脱力した。
行為自体が中止になったのはありがたいが、これから自分はどうしたらいいのだろう。祐貴もここで眠れと言うことなのだろうか。
この男についてくるという判断は、間違っていたのかもしれない。そう思いかけて、祐貴は慌てて首を振った。
「大丈夫、大丈夫だ。ちゃんと城まで行ける――…」
自分に言い聞かせるように、祐貴は呪文のように呟きながら横になった。祐貴もかなり疲れている。今は寝るべきだ。
ヴェダからできるだけ距離を取ると、背中を向けて目を閉じた。しかし、気持ちが昂ぶっているせいか、睡魔はなかなか訪れてくれない。
口の中に残る錆びた味が、いつまでも強く感じられた。
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