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第8話
コンコン、と扉をノックされ、章斗は読んでいた本から視線を外した。
扉の方を向いた瞬間にそこは開き、尚斗がひょっこりと顔を出した。
「兄ちゃん、今いい?」
「うん。どうした?」
尚斗のためならどんなに切羽詰まっていようと時間を取る章斗が、彼の来訪を拒絶するはずもない。しかも今は、食事も風呂も宿題も終え、寝るまで時間はたっぷり空いていた。
「課題いっぱい出されてさー。分かんないとこばっかなんだよね」
そう言って入ってきた尚斗の手には、数学のテキストとノートがあった。
「提出しなかったら部活禁止とか言うしさー」
つんと唇を尖らせた尚斗に、章斗は頬を緩めた。拗ねた様子の尚斗も章斗から見ればものすごく可愛いのだ。
「ん、ならちゃんとやらないとな。こっちテーブル出すからちょっと待って」
章斗の机には椅子は一つしかない。その唯一の椅子から立ち上がり、章斗は折り畳み式のローテーブルを出してラグの上に広げた。これなら二人並んで教えられる。
「兄ちゃんまた料理本見てたの?何か美味しそうなのあった?」
尚斗は興味深々に、先ほどまで章斗が見ていた机の上の本を眺めていた。しかし、不意にその顔が訝しげなものに変わる。
「んん?これ、弁当は無理じゃない?」
尚斗の言う通りだ。章斗が見ていたのはスープのレシピばかりが載った本で、弁当には向かない。弁当しか作らない章斗がそんな本を見ていることを不思議がるのも無理はない。
「それは、弁当用に見てるわけじゃないんだ」
「でも、普通のご飯まで作ったら母さん怒るじゃん」
「ああ、家で作るんじゃないんだ。後輩が一人暮らしだから、たまにご飯作ってやってるんだ」
最初にお礼のご飯を作ってから、五回ほど紘希の家に行った。
練習の成果はじわじわと出ている。紘希に体を弄られると、恥ずかしさより苦しさより快感を強く感じるようになってきた。もう大丈夫だと章斗は思うのだが、紘希が駄目だと言うのでまだ本懐は遂げておらずペッティング止まりだ。しかし、何故だか時間が経つにつれ、章斗の中の焦る気持ちは薄れてきていた。
そして練習の度、お礼のご飯を作っている。紘希はたまに戸惑ったような、困ったような不思議な顔をすることがあるが、食べてしまえば頬を緩めて美味しいと言ってくれるので、お礼のし甲斐がある。最近では紘希が自分で食材や調味料を準備してくれるため、懐もそこまで痛んでいない。
一度根菜のスープを多めに作った時、翌日まで食べられるからありがたいと言われた。なので、章斗が行かない日も食べられるよう、日持ちする具だくさんのスープを作ってあげようと本で調べていたのだ。
明日行く約束をしている。新しいレシピを覚え、紘希に喜んでもらえたら嬉しい。
「……ふーん、俺のじゃないんだ」
尚斗のどこか硬い声に、章斗は首を傾げた。
「え?」
「もしかして、結構前に出汁巻き卵ばっかり作ってたのも、その後輩に食べさせるため?」
「へ?ああ、うん」
「俺、甘いのが好きなんだよ」
「うん、知ってるよ。出汁巻きはそいつにしか作らないから大丈夫だ」
「……ふーん」
ワントーン下がった声に、章斗は戸惑った。尚斗はどこか具合でも悪いのだろうか。
「ナオ?…えーと、宿題しないのか?」
「あっ、数学、数学!今日中に終わらせないと!」
料理本を閉じて振り返った尚斗はいつも通りの顔で、座っている章斗の隣に寄ってきた。
先ほどの反応は何だったろうと疑問に思った章斗だったが、隣で懸命に問題を解く尚斗を眺めているうちに疑問は意識の隅に追いやられていった。
「あ、兄ちゃん。次の土曜の午後、空いてる?」
途中、ノートから顔を上げた尚斗が、思い出したように声を上げた。
「土曜?空いてるよ」
学校の課外授業も、遊びに行く予定も何もない。そう答えた章斗に、尚斗は嬉しそうににっこり笑った。
「俺、部活午前中までなんだ。午後から買い物付き合って」
尚斗からのお誘いを章斗が断るわけもない。章斗はすぐさま頷いた。
「あ、今日も船橋の家行くの?」
放課後、大きなトートバッグを抱える章斗を見て、小野原がにやにやしながら訊ねてきた。彼は章斗が手料理をふるまっていることを知っているので、荷物の量ですぐにばれる。
「うん」
「どこで待ち合わせ?途中まで一緒行こう」
待ち合わせは昇降口だ。
肩を叩いてくる小野原と、どこか疲れた顔で息を吐く光山と並び、教室を後にする。
「順調みたいだねー、香寺」
「うん」
「お前、本当に船橋に迷惑かけてないだろうな?」
光山は船橋関連の話題が出ると、いつもそうやって聞いてくる。それに章斗が大丈夫と返すのは、もう決まった遣り取りになっていた。
「それに、最近なんか船橋優しいんだ」
もともと船橋はいいやつだとは思っていた章斗だが、最近とみにそう感じる。章斗に対する当たりが柔らかくなってきたのだ。呆れた顔をする回数は明らかに減ったし、急に怒鳴ることもない。会話も増えた。
しかしそれでもやはり心配なのか、光山は微妙な表情だった。
「船橋の方からも苦情はきてないけど…」
「大丈夫だと思うよ。船橋って遠慮するようなタイプじゃないでしょ」
章斗の代わりに小野原がフォローを入れる。「まあな…」と光山が頷いたところで、昇降口に立つ紘希の姿が見えた。
章斗は光山たちに挨拶をして、急いで紘希のもとへ駆け寄った。
「船橋!」
呼べば、紘希が振り返る。
「ども」
章斗の姿を認めると、眼鏡の奥の目がやんわりと細められた。
章斗は頬を緩め、紘希の隣に並ぶ。そのまま二人は並んで校門をくぐった。
そんな二人の後ろ姿を眺めていた小野原は、感慨深げに「うーん」と唸った。
「なんかさぁ、本当にカップルみたいになってるよね。お家デートでご飯まで作るんだよ」
「確かに…」
振りではあると解っていても仲睦まじく歩く二人を見ていると、光山も思わず勘違いしそうになる。
小野原はにっと笑って声を弾ませた。
「実際どこまでやってるのかな、あの二人。本当に実践込みで教えてるのかな?」
「う…生々しい話するな。知りたくもねぇ」
光山は本気で嫌そうに顔を顰める。友人のそんな話は知りたくない。幸い、その点に関しては船橋にも口止めされたらしく、章斗が語ることはなかった。
「最近香寺すごく楽しそうだよね。本当にくっつけばいいのに。船橋の周りは祝福ムードらしいよ。ちょうどいいじゃん」
確かに、章斗が弟以外に対して積極的に関わるのは珍しかった。しかし、それでも動機は弟の尚斗である。
光山は小野原の言葉に同意して良いものか悩むのだった。
「船橋って頭いいんだよな?」
「別に、良くはないですよ。悪くもないけど」
「でも一年の時の実力テストクラスで二番だったんだろ?」
「また徳永情報ですか…」
紘希は苦笑して、ふっと息を吐いた。散々見てきた呆れ顔だが、初めのころに比べると幾らか柔らかく感じられる。
月末にある中間考査のことが話題に上り、章斗は以前仕入れた情報を口にした。紘希の言う通り、小野原を介した徳永からの情報で、紘希は成績がいいと聞いていた。
「勉強しすぎて視力が落ちたのか?」
章斗がふと思った疑問を口にすると、紘希はぶっと噴き出した。そしてそのまま笑いだす紘希に、章斗は目を瞬いた。
不思議そうな章斗の顔がおかしかったのか、紘希はくすくすと笑い混じりに種明かしをしてくれた。モスグリーンのフレームを指差す。
「これ、伊達眼鏡ですよ」
「えっ!」
「俺、両目ともかなりいいですよ。部屋の中じゃ眼鏡かけてないでしょ」
確かに言われてみれば、家に帰った紘希は眼鏡を外して何不自由なく過ごしていた。
「ファッションですよ」
「へぇー」
頷きながら、章斗はまじまじと紘希の顔を見つめた。伊達眼鏡など、章斗には考えも及ばない。
「ちょっと…なんスか」
章斗の視線に中てられて、紘希が僅かに身じろぐ。それでも章斗はじっと紘希を見ながら言った。
「俺は眼鏡なくてもかっこよくて好きだな」
「………………………そりゃどーも」
たっぷりの間の後、笑みを消した紘希はほんのり頬を赤くして頬をヒクリとさせながらそう言った。
「眼鏡ない方が顔ちゃんと見えるし、ない方が好きかも」
「…そーですか…」
章斗からふいと顔を逸らし、紘希は溜め息を落とす。
その様子にまた呆れられる事をしてしまったのかと、章斗は首を傾げて少しだけ反省した。
「船橋、怒った?」
「別に、怒ってはないですよ」
気付けばいつの間にかアパートの前まで着いていた。
もう馴染んできた部屋にあがると、いつものように章斗と紘希は順番にシャワーを浴びた。
章斗は薄暗い部屋で三つ指ついて、紘希を迎える。ここまではお決まりのパターンだ。
しかしそこから先は、お決まりと言ってもドキドキとして慣れることはない。むしろ、回数を重ねるごとに緊張が高まっていることを章斗は自覚していた。
「力抜いて」
そう言う紘希に局部を晒すのが恥ずかしい。それをぐっと堪えて脚を開けば、大きな掌が優しく触れてくる。
「んっ…はぁ…っ」
性器に愛撫を施され、あっという間に熱が溜まっていく。すると今度はローションのぬめりを帯びて、後ろへと手が滑っていく。
紘希に言われるより先に、章斗はうつ伏せになって腰を高く上げた。
つぷり、と指が一本ゆっくり挿入された。
「…んっ…」
「痛くない?」
紘希の言葉に章斗はこくこくと頷いた。指一本なら、まったく痛くはない。異物感はあれど、内を探る動きが気持ちがいいとさえ感じるようになった。
「あっ…ぅ、そこ、船橋、気持ちい…っ!あ、あ…!」
最初に声を上げろと言われたので、章斗は熱い息の合間に素直に喘ぎを漏らした。
紘希は章斗の気持ちのいい場所を覚えたようで、そこばかりを刺激してくる。その度章斗の体はびくっと跳ね、思わず腰が揺れる。
「あ、あぁ…んっ!」
二本目の指が入ってきた。少しキツイが、初めに比べれば大分楽になった。
ぐちゃぐちゃとローションが泡立つみたいに掻きまわされると、キツさもどこかへ行き、章斗は快感に打ち震えた。触られていない前は限界まで張り詰めて、ぽたぽたと先走りが垂れてきている。
「はぁっ…あ、やっ…船橋、船橋…っそこ…あぁ!あっだめ、だめ、も…出そう…!」
枕をぎゅうと抱きしめて章斗は訴えた。顔だけ振り返ってみるも、涙で滲んだ視界では紘希の表情はよく見えない。ただ、ごくり、と唾を呑む音だけは聞こえた。
「待って…三本目、入れますよ」
「ひっ!あぁ…!」
ぐっと押し入ってきた質量に、章斗は息を呑んだ。指を排除しようときゅうきゅう締めつけてしまうが、それでも快感が勝る。
前立腺をぐっと押されると、内腿が痙攣した。
「や、あっ…あぁ…船橋っ…前、前触って…!苦し…も、イきたい…!」
しゃくりあげながらお願い、と強請ると、何故か反対に後孔からずるりと指が抜かれてしまった。
「な…なんで…船橋…」
達することしか考えられなくなっている章斗は、思わず恨めしげに紘希を振り返る。すると、ぐいっと腕を引っ張られ、体が起こされる。
「なに、船橋…」
「こっち」
船橋の胴を跨ぐように正面に向かい合せで座らされ、章斗は目を丸くした。こういった体勢は――うつ伏せで腰を上げる姿勢以外は初めてだった。
「な、なに?…あっ!?」
戸惑っているうちに、紘希の手が章斗の後ろに回されて、指が入ってきた。章斗は目の前の紘希の肩にしがみつく。
「んんっ…船橋、これ、これやだ…!こんな…あっん!」
恥ずかしい。目の前に紘希の顔があることに、自分だけが乱れていることに、羞恥心が全身を襲う。今まで平気だったのが嘘のように、章斗は逃げ出したくなった。紘希から顔を隠すように目をぎゅっと瞑り俯く。
「自分で、前触って。俺のも一緒に」
「えっ」
突然言われたことに、章斗は驚いて目を開けた。目の前には自分の張り詰めた性器が見える。そのすぐ正面に、タオルに覆われた紘希の物もある。
「触っていいのか…?」
こわごわと顔を上げて紘希を伺う。すると紘希は苦笑して頷いた。
「触って」
章斗はかーっと全身が熱くなった。
初めてなのだ。紘希はいつも裸にはなるが、どんなに反応していても自分で抜くことすらしない。章斗ばかりが達って終わるのが常で、章斗が練習したいと言っても決して触らせることはしなかったのだ。
章斗は変にどもりながら、そっとタオルを捲った。紘希のそこも、章斗ほどではないがしっかり勃っている。そっと手で触れると、ピクリと紘希が身じろいだ。
熱い。ただ触れているだけなのに、章斗はひどく興奮した。そのままそこに手を絡め、擦りあげるように動かすと、紘希から「んっ」と喘ぎが漏れた。
耳元に吐息が掛かり、章斗は爆発したように真っ赤になった。紘希に確かに触れているのだと、全身を甘い悦びが占めていく。
「船橋、気持ちいい?俺、ちゃんとできてる?こう?ねえ、船橋」
「ん…上手いよ…」
褒められたのが嬉しく、いつも紘希が章斗に施してくれるのを真似て、懸命に手を動かしていく。裏筋を撫で、先端を擦る。とろりと蜜が溢れて来て、章斗はごくりと唾を呑んだ。
「上手いけど、一緒に触って」
紘希がそう言って、自分と章斗の性器を一緒にぎゅっと握った。互いのペニスがぴたりと触れあう。
「ひぁっ!」
そのあまりの熱さに驚き、章斗は思わず身を引きかけた。しかし、そのまま擦り合わされると、その心地よさに夢中になった。左手はぎゅっと紘希の肩を掴んだまま、右手で二人分の性器を弄る。
ぬるぬると滑る先走りはどちらの物ともつかず、快感を増長させていく。そのうちに、後ろに入れられていた指が蠢きだして、章斗はぼろぼろと涙を零しながら頭を振った。
「あぅっ…あ、あ、あ、ど、どうしよう、俺…ものすごく興奮してるっ…」
「はぁ…ん、俺も…」
「も、あっ…あ、あ…怖い…っ船橋、怖い、気持ちいい…!」
章斗はぐりぐりと額を紘希の首筋に押しつける。ひっついた肌から、紘希の脈も速まっているのが解る。体だけでなく気持ちまでどうしようもなく昂ぶっていく。
「んあ、あ、もう…イく、だめ…っ」
ひくっと章斗が喉を鳴らしたときだった。紘希の手が章斗の頭に伸び、顎を上向かされた。眼前に紘希の顔があり、それがさらに近付く。
「んっんんっ」
唇に柔らかい感触が押しあてられると同時に、章斗は達した。その後を追うように、紘希の性器も大きく脈打ち、章斗の手は二人分の精液でしとどに濡れた。
「…ぷはっ…はぁ、はぁ…すご…っ」
後孔から指がずるりと抜け、唇が離れる。章斗は大きく息を吸い込んでその余韻にじんわり浸った。
今まで感じたこともないような快感だった。体の奥がじんわりとあったかく、幸福感さえある。
ほう、と吐息を零し、章斗は紘希を見た。そして、ぎょっと目を剥いた。
「船橋!?」
紘希はまるでこの世の終わりとばかりに、悲壮感たっぷりの顔をしていた。さっと章斗から体を離し、顔を逸らした。
「……………風呂、入ってきてください」
「え…うん」
突き放すようにそう言われ、章斗はおとなしく従った。今日のレッスンはこれで終わりなのだろう。
どことなく寂しく感じながら、章斗は素早くシャワーを済ませた。そして、紘希が風呂に入っている間に食事の支度をするため、キッチンへと足を向けようとした。
「あの」
「ん?」
しかし、その前に紘希に呼び止められ、振り返る。バスルームの前に立った紘希が、床に視線を落としたまま告げる。
「今日、この後予定があるんでもう帰ってもらえますか」
「でも、ご飯…」
「今日はいいです」
そう言われてしまえば、章斗は頷くしかない。料理はあくまでもお礼であって、押しつけてはいけない。
「ん、わかった。じゃあこの材料だけ置かせといて。長持ちするやつだから」
そう言って食材を冷蔵庫に詰め込むと、章斗は素早く荷物を纏めて紘希の部屋を後にした。
一人でとぼとぼと駅に向かって歩きながら、章斗は先ほどまでの幸福感がしゅるしゅるとしぼんでいくのを感じた。
何か、船橋を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
何となく、もう少し紘希と一緒にいたかった気がした。
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