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第9話
もうすぐテスト週間に入るため、学校は少しざわついていた。
「ここまでテスト範囲だから。あ、この公式とこっちの応用は絶対出すからなー」
数学教師の言葉に、生徒からえー!と不満の声が上がる。普段なら紘希も、声は上げずとも内心で舌打ちくらいはするのに、今はそれどころではなかった。
「教えてやるだけありがたいだろうが。じゃあ、今日はここまで」
教師がそう言ったと同時に、チャイムが鳴り響いた。今日の授業はこれで終わりだ。
途端に教室内が騒がしくなる。あちこちで試験範囲を確認する声などが聞こえる。しかし紘希は一人、ただぼうっと外の景色を眺めていた。
「船橋くん」
名前を呼ぶ声に、紘希は無言でそちらに目をやった。近付いてきたのは西岡と、その友人の女子だった。
「あの、最近どうなのかなって思って」
紘希の机のとなりまできた西岡はそう切り出した。
「どうって?」
「ほら、香寺先輩だよ!」
その言葉に、紘希はぎくりと肩を揺らした。そんな紘希の反応に気付いてないのか、西岡ともう一人の女子はどんどんと質問を浴びせてきた。
「上手くいってる?」
「ねー、映画行った?あれすごい泣けるラブストーリーらしいけど、どうだった?」
なるほど、もう一人は映画のチケットを押し付けてきた女子らしい。
「上手くいってるよなぁ!昨日も一緒に帰ってるの見たぜ!」
そこに急に野太い声が割り込んできた。ニヤニヤしながらやってきたのは、西岡を狙っている男子生徒だ。
「な!?」
彼は無遠慮に紘希の肩をばしばし叩きながら同意を求めてくる。かなり痛いが、紘希は不自然でないように笑顔を作ってみせた。
「まあ、仲良くやってるよ。映画はまだ行ってないけど」
だからもう絡んでくるな、と念を込めて言ってみる。
西岡だけが僅かに悲しげな顔をしたのを、紘希は気付かないふりをした。しかし彼女は直ぐにいつもの笑顔に戻る。
「そ、そうなんだねー。良かった!ところで、コンタクトに代えたの?」
切り替えられた話題に、紘希は完全に動きを停止した。びたりと固まった紘希に、流石に三人は気付き、目を丸くする。
「船橋くん?」
「え、どうしたんだ?」
紘希が何も答えないでいると、教室の扉が開き担任が入ってきた。
「ホームルーム始めるぞ。席につけー」
西岡たちは訝りながらも自分の席へと戻っていき、紘希はほっと息を吐いた。
今日、紘希はいつもの伊達眼鏡をかけていない。
どうして眼鏡をかけていないのか。そんなの紘希だって聞きたいくらいだ。なぜ、自分は眼鏡をかけていないのか。
「~~~~~~~っ」
紘希は叫び出したいのを堪え、ぐっと唇を噛みしめた。
本当は、理由は解っている。だけど、認めたくないのだ。
昨日の章斗との行為にしてもそうだ。
最後まで事務的に終わらせるつもりだった。それなのに、感じる章斗の顔を見たいと思ってしまった。そしていざ向き合えば、欲が湧きあがった。章斗との行為の中で抜いたことなどなかったのに、我慢ができなくなった。思わずキスまでしてしまった。
セックスの仕方だけを教えればいいのだから、キスなんて必要ないのに。
出すものを出して熱が退くと、瞬時に後悔の念が紘希を襲った。章斗を突き放すように冷たく接してしまい、用事があるなどと嘘までついて追い返した。
どうしてキスをしたのかと訊ねられるのが怖かったのだ。その理由を認めてしまうのが怖い。
章斗は紘希の好みのタイプではないのだ。性格も、デリカシーのかけらもないし、どん引きするほど病的なブラコンだ。
ただ、好みではないが、笑う顔は綺麗だし、行為の最中はかなり色気があるとは思う。紘希の好きなご飯をせっせと作る様は健気と言えなくもない。妙に素直でなんの衒いもなく紘希をかっこいいと褒めそやし、紘希が話しかけるだけでとても嬉しそうにする。「船橋!」とニコニコしながらよってくる様は、可愛らしい。
懐かれている自覚はある。人間、懐かれれば情も湧く。紘希に冷たくされて帰る章斗の姿はどこかしょんぼりとしていて、手を伸ばしたくなった。腕を引いて、抱きしめて、撫でて…
―――いやいやいや、だから、違うって。
思わず章斗を肯定する方に意識がいっていることに気付き、紘希は頭を振った。
そうこうしているうちに、ホームルームは終わってしまった。
先ほどの話がしたそうな西岡を振り切るため、紘希は慌てて教室を飛び出した。今日は章斗との約束はない日だ。一目散に昇降口に行き、下足に履き替える。
「あ、船橋!」
あと一歩で校舎から出る、という時に、紘希は大きな声に呼び止められた。はっと振り返ると、徳永と小野原、光山までいる。
紘希はきょろきょろと回りを見渡した。幸い、章斗の姿はない。
「どうしたんだよ、そんな慌てて」
声をかけてきたのは徳永だった。
「ああ、バイトがあるから…」
早くこの場から立ち去りたくて、紘希は早口に説明した。これは嘘ではない。今日はバイトの日だ。だから章斗との約束もない。ただ、ここまで急ぐ必要はないのだけれど。
「今日は眼鏡くんじゃないんだな」
それじゃあ、と立ち去ろうとした途端、小野原が地雷を思いっきり踏みつけてきた。
俺はそんなに眼鏡のイメージが強いのだろうか、と紘希は少し泣きたくなった。
しかしそこで、紘希はハッと気付いた。ここには光山もいる。
「あのっ、眼鏡と今と、どっちのがいいですかね」
光山は紘希の好みどスライクだ。ここで彼に眼鏡がない方がいいと言ってもらえれば、そちらを理由にできる。
「えー、俺はどっちでもいいやー」
「俺も興味ないー」
めんどくさそうに答える小野原と徳永は無視して、紘希はじっと光山を見た。
「え?えーと、俺は眼鏡の方がいいと思う、かな?あれ似合ってたけど」
「そ……うですか。ありがとうございます…それじゃ俺、急いでるんで」
紘希はぺこりと三人に頭を下げると、今度こそ校舎から出る。
急ぎ足で歩きながら、紘希はだんだんと心が凪いでいくのを感じた。
光山は眼鏡をかけている方がいいと言った。それなのに、それでも眼鏡をかける気にまるでならない。
「ああもう…」
紘希はぴたりと足を止めた。
もう認めてしまった方が早い。
眼鏡をかけないのは、章斗が素顔の方が好きだと言ったから。
思わずキスをしてしまったのは、快感に打ち震える章斗を堪らなく可愛く感じたから。
―――つまりは、章斗が好きだから。
「なんてこった…」
紘希は脱力し、へなへなとその場に座り込んだ。
他の下校中の生徒たちから訝しげな視線が飛んでくる。早く立ち上がらないと、と紘希は腹に力を込めた。その瞬間、ポンと肩を叩かれた。
「船橋?大丈夫か?」
「え?」
顔を上げれば、紘希を悩ませるその人、章斗が心配そうに紘希を伺っていた。走ってきたのか、章斗は肩で息をしている。
とりあえず紘希は慌てて立ち上がった。
「いや、大丈夫!」
「そう?気分悪いとかじゃないのか?」
「いや…そう、物落として。拾ってただけだから」
「なんだ…そっか」
ほう、と安堵したように微笑む章斗に、紘希は下腹がむず痒くなった。さっきの今で、本人と顔を合わせるのはなんだか気恥ずかしい。
「……それで、あんたはなんで…」
紘希は視線を地面にずらし、もごもごと口ごもる。
「船橋が見えたから、追いかけてきた」
「そ、そうですか」
道の真ん中で留まっているのも邪魔なので、紘希は歩き出した。章斗も当然のようにその隣を歩く。
しかし、いつもなら章斗からぺらぺらと話しかけてくるのに、今日はそれがない。沈黙の中すたすたと歩くだけで、どことなく気まずい。
そっと章斗の方に目を向けると、ばちっと視線がかち合って紘希はぎくりとした。どうやら章斗はずっとこちらを見ていたようだ。
「……船橋、今日眼鏡ないんだ」
「ええ、まあ…」
またこのネタか、と思いつつ、紘希は思い切って言ってみた。
「……こっちの方が好きなんですよね?」
言った瞬間から、言うんじゃなかったと後悔し始めたが、章斗は一瞬だけきょとんとした後、にっこりと笑って頷いた。
「うん、かっこいい」
「どうも」
なんとか素っ気なく返したものの、内心ではガッツポーズをしてしまいそうなほど嬉しい。そのあっさりとした掌の返しように、紘希は我がことながら呆れた。
「――船橋、もう怒ってない?」
急に恐る恐ると言った様子で尋ねられ、紘希は目を瞠った。
「え?」
「昨日怒ってたろ?」
それは、昨日追い返してしまった件だろう。あれは怒っていたというより、戸惑っていただけだ。
だから今日の章斗は口数が少なかったのか。
「別に、怒ってないですよ。昨日は本当に用事があっただけで…」
「ほんとか?良かったー。船橋に嫌われたかと思ってすごい焦った」
そう言って安心しきった顔でへらっと笑う章斗に、紘希はほんのりと頬を染めた。やっぱり、可愛いと思う。しかも認めてしまったせいか、余計に可愛く思える。
「あの…明後日、空いてますか」
「へ?」
明後日は日曜だ。緊張に声を硬くしながらも、紘希ははっきりとした声で訊ねる。
「空いてるなら、一緒に出かけませんか」
こんな風に誘うのは、初めてだ。今まで章斗と会うのは、紘希のバイトが入っていない日の放課後、家に直行してやることをやるだけだった。
章斗を好きだと自覚した今、まずすべきはそういった不健全な関係を崩すことだ。どんな形であれ、章斗が紘希に対して好意を抱いていることは明らかだ。ならば紘希も遠慮なく攻めていける。その好意を恋愛の物に変えてしまえばいい。
章斗はぱしぱしと目を瞬き、不思議そうに紘希を見つめる。
「空いてるけど…どこに行くんだ?」
「えーと…どこか行きたいところないですか」
「俺の?」
章斗はそのままうーんと唸り始めた。
ややあって、「行きたいとこ別にない」と呟くように言った章斗に、紘希はがっくりと肩を落とした。しかし、継いで、
「でも、船橋とどっか行きたい」
と言われ、ぐっと拳を握ってひっそりと喜んだのだった。
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