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第10話

 土曜日の夜、章斗は風呂からあがると、ふんふんと鼻歌を歌いながら部屋に戻った。  今日は約束通り午後から尚斗と買い物に出かけ、バッシュの紐選びに付き合った。尚斗と二人で出かけるのは久しぶりで、とても楽しかった。  しかも、明日は紘希と出かける約束をしている。楽しみなことがまだ残っていて、章斗は上機嫌だった。 「なに着ていこうかな」  クローゼットを開けながら、きょろきょろと首を巡らせる。  紘希はきっと私服もお洒落だろうから、隣に並んで恥をかかせないようにしなければ、と章斗は意気込んでいた。  とは言っても、章斗は自分にセンスのかけらもないことを自覚している。結局、章斗は今日と同じく、尚斗に選んでもらうことにした。  快諾してくれた尚斗を部屋に招き入れ見繕ってもらった服は、やはり章斗が選ぶよりも断然よかった。  選んでもらったコーディネートを見ながら、「さすがナオだなぁ」とほこほこしている章斗に、尚斗は首を傾げる。 「明日誰と出かけるの?」 「学校の後輩」 「…それって、この前言ってた一人暮らししてるって人?」 「そうだよ」  章斗が頷くと、尚斗はつんと唇を尖らせた。その拗ねたような顔に、章斗は戸惑った。 「どうした、ナオ。どっか痛いのか?」 「別にぃ」 「じゃあなんか怒ってる?」  章斗の言葉に、尚斗はふるふると首を横に振る。 「なんかさぁ…兄ちゃんってその後輩の人とすんごい仲いいみたいだから悔しいっていうか…寂しいっていうか」  恥ずかしいのか、ほんのりと頬を染めて、尚斗は怒った風に言う。 「兄ちゃんその人にとられちゃうんじゃないかって思って!」 「ナオっ…!」  きゅうん、と胸が鳴って、章斗は尚斗に勢いよく抱きついた。 「馬鹿だな、ナオが一番に決まってるだろ!」 「うわっ…!って、なんでまた泣くの!」 「だって、だってナオが可愛いから…!」  章斗はほろほろと涙を零しながら、ぎゅうぎゅうときつく尚斗を抱きしめる。章斗の友人に嫉妬するなんて、子供じみているがそこが可愛い。尚斗に愛されていると感じられて嬉しい。 「ナオが嫌なら明日は――…」  行かない、と章斗は言おうとしたのだが、ぴたりと言葉が止まってしまった。  尚斗が望むのなら行かない。でも、行きたいと章斗は強く望んでいた。せっかく、紘希が誘ってくれたのに。  固まってしまった兄に、尚斗は慌てたように首を振った。 「いやいや、行かないでとか言わないよ。ちょっと寂しいなって思っただけ。兄ちゃんを困らせたいわけじゃないし。それに、俺も明日友達と遊ぶ約束あるしね」  その言葉に、章斗はほっと胸を撫で下ろした。 「そっか、じゃあ明日行くな?」 「うん、楽しんできなよ」  章斗は大きく頷いて、いつもより早く眠ることにした。  日曜の駅前は色々な人間で溢れている。しかしその中でも紘希の姿はすぐに見つけられた。 「船橋!」  待ち合わせで溢れる人を掻きわけ、章斗は背の高い彼の元へと駆け寄っていった。 「早いな。俺の方が先だと思ったのに」  待ち合わせは十一時。今は十時半、まだ三十分も前だ。  純粋に感心しながら章斗が言うと、紘希はどこか焦ったように口を開いた。 「いや、たまたまそのこっちに用事あったから…」 「そっか。その用事はもういいのか?」 「ああ、まあ…」  曖昧に頷いて、紘希はじっと章斗を上から下まで眺めた。じろじろと見られて、章斗はなんだか落ち着かない。  制服以外で会うのは初めてだが、紘希はやはり雑誌に載っているような見事なコーディネートだった。文句なしにかっこよく、ちらちらと回りから視線を浴びているのも頷けた。 「何か変かな?」  自分ではいいと思っているのだが、どこか受け付けないのかもしれない。隣を歩くのが嫌だと言われたらどうしようかと思いながら、章斗は自分の服装を眺める。 「や、変じゃないです。良く似合ってます」  紘希はパタパタと手を振りながら章斗から顔を逸らす。章斗はほっと息を吐いた。 「ふふっ。ナオが選んでくれたんだ」  紘希に褒められて、章斗は自然と頬が緩む。しかし、対照的に紘希はむっと眉根を寄せた。視線が再び章斗に戻る。 「弟が?」 「そう、髪もナオがしてくれたんだ。ナオは俺と違ってセンスあるから」 「ふーん………でも俺なら、ここの髪はこうする」  すっと紘希の手が伸びて、サイドに降りた章斗の髪をそっと耳に掛ける。耳に触れた指がなんだかくすぐったくて、章斗は顔を熱くした。 「こ、こっちの方がいい?」 「俺はこの方が好きですけど」 「…なら、こうしてる」  すぐ近くのショーウィンドウに映る自分を眺めながら章斗が言うと、そのとなりに映っている紘希が目を丸くしたのが解った。 「なに?」 「いや、いいの?弟がしてくれたんだろ」 「だって、船橋がこっちの方が好きなら…俺もこっちがいい」  ますます紘希の目は丸くなる。  章斗が首を傾げていると、紘希はぷいと顔をそむけ歩き出した。 「行きますよ」  章斗は慌てて後を追う。後ろから見える紘希の耳はほんのり赤い。とりあえず怒っている様子ではないので、章斗は小走りで彼の横に並んだ。  章斗は行きたい場所が特になかったので、今日は紘希が行きたい所に行くことになっている。  歩いて数分、二人が辿り着いたのは閑静なビルだった。潜った扉の上には『科学館』と書かれている。 「ここ?」 「そう。ちょっと待ってて」  入った先には大きめのフロントがあって、紘希はそこで何やら受付の人と話をし始めた。章斗は一人、きょろきょろと回りを見渡す。小奇麗なフロアには結構人がいる。カップルや、親子連れも目立つ。 「お待たせ」  戻ってきた紘希の手にはチケットが二枚握られている。 「ここ何?科学の勉強するの?」 「休みの日まで勉強したくないって。これですよ」  はい、と手渡されたチケットには『プラネタリウム』の文字。 「三階だって。行きましょう」  エスカレーターで三階にあがると、すぐに薄暗い部屋へと入る。すると、紘希に手を掴まれた。 「暗くて危ないから」  訊ねるより早く、紘希が説明する。しかし、暗いとは言っても足元はほのかなライトで照らされていてこける心配はきっとない。  それでも章斗はぎゅっと手を握り返し、おとなしく紘希の後についていった。 「俺、プラネタリウムって初めてだな。船橋、星が好きなのか?」 「俺は三回目。別に星に詳しかったりはしないけど、綺麗なもの見るの好きなんで」  指定席らしく、チケットに書かれた座席に着くと、傾斜の大きい椅子に隣り合って腰掛ける。繋いでいた手が離れ、章斗は少し寂しく思った。 「それに神話のナレーションが入るし、映画みたいですよ」 「へえ…楽しみだな」  時間が来て、ブーっとブザーが鳴る。更に暗くなる部屋と傾く椅子に、章斗はドキドキと胸を高鳴らせた。  果たして、人工で作られた満天の星空は、紘希の言葉通りに綺麗だった。美しい光景と物語のナレーションは章斗を退屈させることはなく、むしろしっかりとその世界の中へと引き込んでいった。一時間という短い時間だったが、章斗は十二分に堪能し、楽しんだ。  すべてのプログラムが終わりロビーへ出た章斗と紘希は、備え付けられたソファに座っていた。 「…うっ、うぅ…」 「まさか、ナレーションで泣くとは…」 「だって、だってさ…あそこでいきなり殺されるなんて酷い…っ、ただ、人を助けただけなのに…」  章斗はほろほろと零れ出る涙をハンカチで拭いながら、涙を止めようとぎゅっと目に力を込める。  がっつり世界に引き込まれてしまった章斗は、語られた神話の数々に涙もろさをいかんなく発揮してしまっていた。 「ごめん、ごめんな。ナオにもいっつも呆れられるんだ」  ずぴずぴと鼻を啜りながら、章斗は紘希に謝る。泣いてしまったためここで足止めしてしまっているし、他の客からは奇異の目を向けられていた。紘希自身もきっと呆れていることだろう。 「別に謝んなくていいですよ。呆れてませんから。むしろ…」 「むしろ…?」  紘希は苦笑しただけで、そっと優しく章斗の頬を流れる雫を拭ってくれた。その手に促されるように俯きがちだった顔を上げると、潤んだ視線が紘希のそれとかち合う。  そのまま紘希の顔がすいっと近付いてきて、章斗は自然と瞳を閉じた。 「……っと、飯食いに行きますか!」  その声に、章斗は目を開いた。するともう紘希の手は頬から離れ、彼は立ち上がって背伸びをしている。  キスをされると勝手に思い込んでいた章斗は、自分の勘違いを恥じて慌てて立ち上がった。 「うん」  おかげで涙は止まった。  二人はどこかそわそわとしながら騒がしい街中へと戻っていった。  危ない、危ない…  よく来る定食屋に章斗と共に入り、紘希はひとまずほっと息を吐いた。自分の理性のなさが情けない。  プラネタリウムのロビーのソファで、紘希は無性に章斗にキスがしたかった。章斗の泣き顔は嫌いではないし、むしろ情事を思い起こさせ紘希の劣情を煽る。でもあそこは他の客もまだいたし、急にそんなことをしたら章斗に不審がられるかもしれない。  ぎりぎりのところで思いとどまったのだが、あのとき章斗は目を閉じていた。  あれは、紘希を受け入れようとしていた風だった。  もしかして、かなり脈があるのではないか、と紘希はプラスに考えている。そう思うと嬉しくて、気持ちが浮ついてしまう。  今日会ったばかりの時もそうだ、弟のヘアスタイリングより紘希の要望を優先させてくれた。 「そうだ。この後買い物行っていいですか」  先ほどまでの星空について会話に花を咲かせていたが、紘希は不意に話題を変えた。 「いいよ。何買うの?」 「服」  今日の章斗の格好は、ムカつくぐらい章斗に似合っている。それが尚斗の見立てだと言うのなら、それ以上に章斗にぴったりの服を選んでやりたいと思ったのだ。  割り勘で勘定を済ませ、今度は駅に隣接するショッピングモールへと向かった。  何軒かを梯子して、紘希はシャツから靴まで一式を買いそろえた。買う前に断られるのが嫌だったので章斗に試着は一切させていないが、サイズはぴったりな自信がある。そして、それとは別に、章斗に選んでもらって自分の服も買った。  その間章斗はきょろきょろと店を見回すだけで、何も買っていない。 「いっぱい買ったなー」  小休止に入ったカフェで、アイスコーヒーを啜る章斗が感心したように言う。 「これ、あんたにプレゼントです」  上手い言葉が見つからず、どこか素っ気なくなってしまったが、紘希は紙袋を指差して言った。 「え?」 「あんたに似合うだろうなって服選んだんです」  章斗はぱちぱちと瞬きを繰り返し、まじまじと紘希を見返す。 「俺、今日、誕生日じゃないけど」 「そういや俺、あんたの誕生日知らないや。いつですか?」 「十月四日だけど…」  それならまだまだずっと先だ。紘希はその日を脳に刻みつけた。 「そうじゃなくて、なんでくれるの?結構高いじゃんこれ…」  案の定、章斗は少し困ったような反応を見せる。 「俺が選んだ服を着て欲しいんです。貰ってもらえなきゃ、俺にはサイズ小さくて着れないんですけど…迷惑ですか」 「だって、俺、金ないし、何も返せないし」 「それなら…今日も晩飯作ってくれませんか。それで、一緒に食べてください」 「…そんなんでいいのか?」 「はい」  頷く紘希に、章斗の顔からだんだんと戸惑いが消えていく。やがて、そこにははにかんだ笑みが浮かんだ。 「ありがと。すごく嬉しい」  紘希がきゅんとなったのは言うまでもない。  翌朝、まばらに学生が登校していく中に、紘希は章斗の姿を見つけて駆け寄った。 「香寺さん」  呼べば、すぐに章斗は振り返る。 「あ、おはよう」 「おはようございます」  にこっと笑顔を向けられ、紘希も微笑んだ。紘希はそのまま章斗の横に並び、共に通学路を進む。  昨日の今日で、紘希の気分はかなり良かった。昨夜は紘希の家で仲良く章斗の手作り料理を食べ、その後駅まで章斗を送っていった。いつも家に来てやるようないかがわしい行為はまるでなく、初恋のような甘酸っぱさがくすぐったくて気持ち良かった。  今日も章斗は大きなトートバッグを抱えている。紘希の家に来る予定の日だ。 「今日いつもより遅くないですか?」 「あ、うん。いつもどおりに家出たんだけど、電車が遅れててさ」 「そうなんスか」 「そうだ、船橋今日の昼って学食?」 「そうですけど」  紘希は毎日学食か購買だ。頷く紘希に、章斗は「それならさ」と鞄を漁る。 「弁当いらないか?」 「へ?」 「ナオの分だったんだけど、今日調理実習があってお弁当いらないんだって。知らなくて作っちゃったから余ってさ」 「いただきます!」  尚斗のお下がりかと思うと少しひっかかるが、章斗のご飯はおいしいし罪はない。紘希はうきうきと弁当箱を受け取った。  それからくだらない会話をしながら歩き、昇降口で二人は別れた。  昼休み、紘希はいつものように立ち上がることなく、その席で章斗からもらった弁当箱を広げた。彩りよく詰め込まれたおかずはどれもおいしそうだ。 「…船橋くん」  いざ食べよう、と紘希が手を合わせた時、遠慮がちな声がそれを遮った。 「話があるの。ちょっといいかな…その、できればここじゃなくて…」  顔を上げた先には西岡いて、その顔はどこか思いつめたように緊張している。いつものように友人とつるんでもいない。流石に無視することはできなくて、紘希は開けたばかりの弁当箱に再び蓋をして立ち上がった。 「どこ?」 「こっち…」  そう言って西岡が紘希を促したのは、屋上へ続く階段の踊り場だった。  しんと静まったそこで二人向かい合って立つ。 「……それで?」  棘はなく、できるだけ優しく聞いたつもりだった。しかし、西岡は俯いて黙ったまま、いつまでも用件を言わない。 「西岡、用件は?」  二度目、紘希が聞くと、やっと西岡は顔を上げた。そして、どこか気まずそうに視線を彷徨わせ、ややあってから意を決したように口を開いた。 「あのっ、あたしね、その、見ちゃったの」 「なにを?」 「あの…香寺先輩が、他の男の子とデートしてるの見ちゃったの!」 「はあ…?」  紘希の口からは思った以上に間抜けな声が漏れ出た。その声に弾かれたように西岡は早口になった。 「一昨日、街中で香寺先輩と知らない男子が並んで歩いてるの見たの!」 「いや、あの人にも友達くらいいるでしょ」  呆れたように紘希は言った。  西岡は紘希の側にいて毒されすぎてしまったのだろうか。普通、男二人が街中を歩いていてもデートをしているなんて思わない。それなのに、浮気だと思って告げてきている西岡が可笑しかった。たぶん、言うか言わないかかなり葛藤したのだろう。 「だって、あの先輩がいつも仲良くしてる二人じゃなかったし、それに、なんだかすごく親密そうだったから…っ」 「……それって…」  ふと、紘希は思い当たった。そう言えば、昨日章斗は前日に弟と買い物に行ったと言っていた。西岡はきっとそれを見たのだ。  苦笑しながら、西岡に真実を告げてやろうと紘希が口を開きかけたときだった。 「だって、ずっとじゃないけど、その、一瞬手とか繋いでたから…!」  その言葉に、紘希はしばし固まった。  その相手は間違いなく尚斗なのだろう。しかし、手を繋いでいただなんて聞いて面白いはずもない。 「………それ、あの人の弟だから」 「えっ?」  言った声は、思いの外低くなってしまった。紘希は慌てて笑顔を取り繕った。 「弟の尚斗。中学生。すごく仲いいんだよ、あそこの兄弟。土曜日一緒に買い物行ってた」 「え、嘘…やだ、あたし…!」  西岡の顔が真っ赤に染まり上がる。 「ご、ごめんなさい!てっきり、勘違いして…っ、船橋くんが後らか知って傷ついたらヤダって思って…!その…、ごめんなさい!!」 「気にしなくていいよ。じゃあ、俺戻るね」 「う、うん…!」  狼狽する西岡を残し、紘希はさっと教室に向け足を進めた。  教室に戻れば、机の上には残していった弁当が待っていた。 「…………いただきます」  パクリ、と厚揚げの煮物を口に含む。美味しい。美味しいのに、気分が晴れない。  章斗と尚斗は、他人の西岡から見てカップルに思えるほど親密なのだ。それを思うと胃のあたりがムカムカとする。 「………甘い」  口に含んだ卵焼きは、いつも作ってくれる出汁巻きじゃない。  これはもともと尚斗の弁当だったと解っていても、その甘さが辛かった。所詮、紘希は尚斗には勝てないのだと言われている気分だった。

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