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第3話

-バラ科モモ亜科スモモ属- 「気にすんな。むしろ悪かった。ヨシの気持ちどころか八重の気持ちも考えてなかった」  このまま続けると(さく)は風信が言うところの"ハイパー懺悔タイム"に入る。まずいな、と思ったが口を開くだけひどくなるだろう。 「俺はいい」 「いや…なんて詫びていいか分からん。分かっていたはずなのに…」 「深月と一緒にいるんだから大丈夫だろう。子供じゃない」  少なくとも月下のほうは。頭は回る。そこら辺の人より、こんなところに身を置いていても常識には囚われるし窮屈なほど律儀なやつだ。そういうところがまた回り回って巡り巡って(さく)を追い詰めているし、さらにそれが月下を追い詰めてしまっている。気付かないものか。もしくは後に引けないか。 「深月、あいつ変なんだよ」 「いつも変だろうが」 「違ぇよ、なんかヨシのこと、なんか…とにかく変なんだよ」 「おやつシェアの話か?」  (さく)は黙った。あれは甘やかされて可愛がられた反動でただ自分も何かを甘やかしてみたい可愛がってみたいっていう衝動なんだろう。雛鳥役に月下を選ぶのは確かに変としかいいようがないが、ただ単にあいつの見る目がないだけだ。それを説明しようとして咲は項垂れる。 「トンボとか虫の脚ぶっこ抜く妙な遊び、あいつするじゃん。その後蟻に食わせるやつ。捕まえた蝶を蜘蛛の巣に入れたり」 「昔な」 「あれに似てんだよ。ヨシの話する時。蕎麦食わせてもらった話とか、今日は一緒にアイス食べたとか普通に話してるけど、ギラギラしてるしオレのこと全く見てないし」 「…それは…。だから俺に任せたのか?」 「半分はな。飛広也(ひろや)に任さなかったのも、あんまり親しいとそのうち深月と揉めんじゃないかって。お前なら深月の制御、出来るだろ?」 「深月を月下にくれてやるって話、してなかったか」  (さく)は項垂れた首を起こす。これは俺は知らない話のはずだ。だが(さく)はそのことを詮索しない。気付いていないだけかも知れない。訊かずともあの個室にいたのが俺だと理解しては…いないだろうな。そこまで気が利いた性分じゃない。 「その方が色々丸く収まるんじゃねーかなって思ってよ。ヨシは深月を可愛がってるし、深月は例の通りだ」  (さく)は頭が悪いが、頭が悪いなりに気を遣っている。だがまずい気がした。あの親鳥ごっこは果たして治るのか。 「やっぱ俺がやるわ。(さく)は何も気にしなくていい、月下のこと」  咲が不思議そうだった。大体のことを共有しているし、共有出来るとはいえ咲には言えなかった。月下を蹂躙したことも、それがただ相手を捩じ伏せたいだけじゃないってことも。そこに艶っぽい感情が無いにせよ、"親鳥"からの餌付けに甘んじて唇を赦す"雛鳥"が許せない。咲の妹、俺の精神的にも妹だった女と結婚したことだって、俺は。組長命令だから仕方がなかった。月下はずっとここにいる、それだけを頼りにしていた。楔だった女が死んで、ヤツはそんな気もないのに場合によっては解き放たれた気分でいる。それが勘違いなんだと分からせなければならない。嫁が死んでも、咲が義兄弟じゃないと言い始めても、俺にならヤツの居場所を確保出来る。殴られたって、詰られたっていい。素直になるな。ただ俺を拒否して、逃げて、足掻いていれば、それで。 -ハナミズキ-  月下さんは虚しい人だ。  片膝をついて届け物を渡すと、杖をついた津端さんはボクの隣まで歩いてきた。まだ若いけど、昔車に激突されて足を痛めてしまったのだそうだ。この人もボクを可愛がってくれてまだ右も左も上下の関係も分かっていないボクを秋桜さんやエドさんの脇から抱き抱えて膝に乗せて話してくれた。ボクの後方にいる、ただの付き人として来た月下さんを津端さんは眺めていた。変なんだろうな。秋桜さんとエドさんがまだずっと下っ端の頃からボクはここにいるけど、どうしても年齢とか経験の差とか諸々の事情で割りかしあの組では新参の月下さんの方が立場が上なのにボクの付き人みたいなポジションにいるの。 「泊まっていくかね、花水木(はなみき)くん」 「今日は月下さんが一緒なので」 「なに。ここに泊まっても構わんな、美仁(よしたか)よ」  月下さんは返事の代わりに深々と頭を下げた。津端さんはボクを息子とか孫みたいに思ってるのかな。津端さんにもボクくらいの子供いてもいいはずなんだけどな。津端さんと親しいらしかった。 「は」  月下さんは頭をさらに下げただけだった。なんか空気感が変だと思った。なんか、胸がざわざわする。ボクの近くにいた津端さんがボクの手を取った。年の割に老いた手。優しい感触。秋桜さんとエドさんに向けるのとは違う顔。秋桜さんとエドさんと月下さんがボクに向けるのとは同じもの。ボクはお父さんを知らないし、おじいちゃんも知らないけど、お父さんだと思った。おじいちゃんだとも思った。自分の祖父や父とどれだけ年が違うかのも分からない。津端さんはボクたちの泊まる部屋を用意してくれたけど、月下さんは津端さんに部屋に残されていた。別室かな。月下さんと一緒に泊まりたいなと思った。朝まで月下さんとおやつシェアしたいけどここにはおやつがないし、月下さんは朝まで甘いもの食べるの嫌かな。でも月下さんの口の中にお菓子詰め込むのは楽しい。嫌そうな顔されながら月下さん経由で食べるのが美味しいから。津端さんの下っ端がボクを呼んで、ボクは津端さんの部屋まで行く。下っ端の人は途中で、ここからは1人で行けって雰囲気で、気付かないフリして一緒について来てもらった。下っ端の人が扉だけ開けて、ボクを促し彼は部屋には入らなかった。賢明だと思う。津端さんがまた開いてる間に月下さんが顔を埋めてる。肩が変で、よく見たら後ろに縛られてた。あれ、月下さんのこと縛ったのってエドさんなんじゃないの。 「深月、よく来たな」  月下さんの白い腕が縛られているのを見ると、腹の奥がまた軋んだ。ずくん、ずくんって楽しい痛み。胸に根っこが生えたみたいだった。津端さんはボクのこと花水木(はなみき)くんて呼ぶのに、今、深月って呼んだ。 「津端さん?」  月下さんは津端さんの股の間で頭を小刻みに動かしてボクに構わない。 「君にきちんと話さねばならんことがある」 「…?はい、ここで構いませんか」  さっさと話したらいいのに。津端さんは月下さんのさらさらの髪を梳く。それがさらに腹の奥の変な感じが大きくなって、何か叫びたくなってしまった。でも何て叫びたいのか分からない。特に言うことはない。何も。 「座りなさい」 「?はい」  床にそのまま正座する。そっちだ、とパイプ椅子を促されたから、失礼しますってボクはパイプ椅子に座った。 「深月、秋桜(あきお)の傍らは心地いいか」 「はい!とても。ずっと父親代わりでしたし。エドさんも…」  月下さんの後頭部を乱暴に掴み、股へと押さえ込む。でもそれとは裏腹に津端さんはボクに優しく目元を細めて、秋桜さんの名前を出すと眉を下げた。 「深月、津端の元で生きる気はないか」  引き抜きの話か。 「ございません。ボクは秋桜さんとエドさんと一緒に上に行きます。…津端さんを支えます」 「ほうか…ほうか…」  そんなことよりボクは月下さんが気になった。津端さんは残念そうだけど、ボクの上にまだまだ優秀な人材はいる。暫く水っぽい音が響いて、津端さんは月下さんに腰を押し付けて、低く唸った。股の間で月下さんは天井を仰いで。 「美仁(よしたか)、深月を癒してやりなさい」  気怠げに立ち上がって、月下さんはボクを据わった目で見ながら近付いてきた。両手が不自由なまま、ボクの前で上体を曲げた。 「月下さん?」  ボクを見下ろして、顔が迫る。美しいなって思った。綺麗だ。口が触れそうになって、でも躊躇ったからボクから頂いた。おやつ何もないよ?何度か唇を舐める。甘い。砂糖とかとかは違う。頭の中に痺れの波紋が広がっていくみたいな、そういう甘さ。挑んできたのは月下さんなのにボクが迎え撃ったものだからボクが月下さんの口内を荒らしてしまう。ミルクキャンディーを月下さんの口の中で舐めた時みたいだ。逃げる小さな塊を追いながら月下さんの舌と遊んだ。 「っ…あ、は、ふ…」  手を使ってはいけないものなのかと思って、ボクも首を伸ばして身を引こうとする月下さんの唇を塞ぎ直す。 「美仁(よしたか)、お前が奉仕されてどうする」  津端さんは月下さんと親しいのかな。なんだかエドさんがかわいそうだ。秋桜さんのことはどうする気なんだろう。面白いけど楽しくない。 「ンっ、ぁっ、は…い…ンん」  口を離して津端さんを向いたのが不愉快で、油断した口角をべろんて舐めた。月下さんは白い肌を淡く染めてパイプ椅子に座るボクの真前に膝を落とし股座に顔を近付ける。 「惨めな男だ」  津端さんは煙草を吸っていた。嫌だなぁと思った。秋桜さんは煙草やらないし、エドさんはもうやめたけどボクらの前では絶対吸わなかった。上がそんなだと下も気を遣うからボクはあまり煙を知らない。 「…そうですか?」  何するんだろうと思って月下さんを眺めていた。ボクが膝を開かないから、大きく上体を伸ばして身体を割り込まそうとしてくる。スラックスの前に向かって口を開く。何がしたいのかよく分からなくてボクは月下さんの顎を掬い上げる。唇を親指でなぞると、潤んだ目が逸らされてしまう。 「何をするんですか?」  津端さんに確認すれば、にやりと笑っただけだった。 「秋桜や染井は教えてくれなかったか」 「大体のことは、教わったと思うんですけど…」  月下さんは悔しそうに唇を噛むから、嫌だなぁとまた思った。ボクは血の味があまり好きじゃない。指を割り入れる。 「その男はな、秋桜の元に埋め伏せた毒だよ」 「はい?」  月下さんの顎を撫で摩り、指で口の中を遊びながら津端さんの言っている意味を考える。埋め伏せた毒。間者。じゃあ月下さんは秋桜さんの味方じゃないんだ。 「誑し込めと言ったのに、まさか誑し込まれているとは」  ボクの腿に顎や胸を乗せ、好き勝手に撫でられる姿は猫みたいだった。かわいいな。このまま連れ帰りたい。気を抜けばボクの指ごと舌噛み切りそうな嫌がってる顔が最高だった。 「染井の魔羅は良かったか」 「…っ」 「若い雄の身体で何度気をやったんだ?」  ボクはやっぱり意味が分からなかった。意味は分かってる。エドさんが月下さんを抱いたことは知ってる。セックスって勃って突っ込めれば、老いも若いも関係ないんじゃないの。誰のだって。あれ、でも突っ込むって、エドさんも月下さんもそういえば男だった。 「おやめ…ください…っ」  胸が破裂しそうだった。胸が破裂してもみてもいいなってくらい、月下さんから目が離せなかった。腹の奥がやっぱきゅうっと締まった感じがして、腿がもぞもぞする。胸が窮屈で、女の子みたいに胸が腫れちゃうんじゃないかってくらい心臓がじんじんして熱かった。 「何のためにお前の丹穴を育てたと思っている」 「…月下さんて女性だったんですか?」  津端さんは楽しそうだった。津端さんが楽しそうだと月下さんが悔しがってつらそうで泣きそうになるからいいなぁって思った。丹穴って女性器のことだったと思うんだけど、違うかな。でも月下さんは男のはず。だって、だって月下さんはおやつシェアするとそこが少し腫れる。甘いもの好きじゃないくせに。 「秋桜のオンナにするつもりだった。まさかその番犬に(さか)られるとは…牝犬として生きるか?なぁ、美仁(よしたか)」  ボクの腿が濡れて色を変える。ボクの指が変に濡れて、赤くもうひとつスラックスにシミを作る。綺麗だ。胸が苦しい。楽しい。腹のずっと奥が生温かい。もっと、もっと。 「秋桜さんには妻子がいます。エドさんかボクにください。出来れば猫として」  津端さんは短くなった煙草をすり潰す。 「お前は帰さん」  月下さんの濡れた頬を、血で濡れた指でなぞる。綺麗だな。もうそれ以外言葉が出てこない。 「連れ帰りますよ、エドさん多分相当気に入ってます」 「その淫売は好きにしたらいい。深月、君だよ」 「ボク?」  涙で濡れて、血は落ちていく。あれじゃないこれじゃないと指で唾液混じりの血を塗りたくる。綺麗だと思ったし、かわいいと思った。こんな綺麗なものは見たことないや。前にエドさんに見せてもらった、光で色が変わるやつを見た時も綺麗だと思ったけど、腹は痛くなかった。赤く照った唇を舐めたい。おやつなんてなくたって、舐めたい。嫌がって胸元を掴もうとする手を取って、月下さんの嫌がることもっとしたい。 「君のお父さんは元気か」 「秋桜さんのことですか?本当のお父さん、いないんです。ボク、妾の子だから」  津端さんはもう十分だろうってくらいに煙草を潰していた。容赦せず敵対した者は再起不能にする。そのやり方が秋桜さんみたいな少し甘い考えの人はついていけないみたいだ。エドさんは秋桜さんがいいならいいっていうし、ボクも秋桜さんとエドさんの異論がないなら、異論がない。 「帰ってきなさい、深月。乃父(だいふ)のもとへ」  今日何度目かの、嫌だなぁと思った。ボクの居場所は決まってるんだけどなぁ。この人がどういうつもりで自分を父と騙りはじめたのか分からない。秋桜さんと他の会長さんたちと胡散臭い誓いの盃を交わしたとしても津端さんはボクの父には当たらない。ボクを育てたのは秋桜兄妹とエドさんとその家族だ。返事は迷わないけど、月下さんは今後どうなってしまうんだろう。こんなつまらなくて面白くて綺麗な人、そういないんじゃないかな。 「その娼婦が欲しければくれてやる。ここで寂しくなっても大丈夫だろう」 「間者だったんですね」  津端さんを無視してボクは背を曲げ月下さんの唇を舐めた。血の味はやっぱり不味い。鉄の味がする。 「でも秋桜さんのこと好きですよね。どういうものなのか分からないですけど」  月下さんの神経質な眉が寄せられて、エドさんにしか見せない険しい顔しながらポロポロ涙零していて、ボクはそれが流れきる前に血に染まっていない方の指で拭う。気が気じゃない。在原業平は桜に執着しすぎだと思ったけど、ボクは月下さんの涙が溢れるたびに腹の奥が痛くなる。 「ねぇ、秋桜さんのもとに帰りましょうよ。でもあなたはエドさんに抱かれるんだ。つらくなったらボクのところに来たらいいんです。風信(かぜのぶ)さんじゃなくて。慰めてあげます」  最高だと思う。それがいい。ボクはそれがいいよ、誰も損しない。秋桜さんも悲しまないし、エドさんも虚しがらないし、風信さんだって寂しがらないし、ボクも楽しいし。 「その売春婦を好いているのか」 「…好くとか好かないとか分からないんです。でも居なくなったらつまらないです。エドさんと会った時嫌な顔するとホッとします。秋桜さんがお嫁さんの話して傷付いた顔すると胸が熱くなります。奥さん亡くなってからもっと一緒にいたいと思いました。もっとこの人の悲しんで落ち込んで苛立ってる顔がこれからも見たいです」  伏せた睫毛が濡れている。ボクは上体を大きく折り曲げ、さらさらの髪の匂いを嗅ぐ。身体に電流が走る。腰痛かな。下半身が溶けるみたいだった。 「美仁(よしたか)、どうする。好いた男の元で好かん男に抱かれるか?それともお前に誑かされた男の鳥籠で囀るか」  月下さんの赤い唇から唾液がぼたぼた垂れてボクのスラックスをまた汚した。まだ血が出ている。噛んだ舌、ボクも噛みたい。 「私は…っ、私は…」  津端さんが月下さんを手招きした。月下さんは津端さんのほうへ行ってしまって、ボクの体温低そうな月下さんで温まっていた膝と腿は寒く感じた。 「飲みなさい」  津端さんが口に錠剤を銜え、月下さんは口付ける要領でその錠剤を唇で掠め取る。それはボクの専売特許なんだよと、突然怒りが湧いた。 「染井くんは驚くだろうな」  津端さんはデスクの中を色々開いて、月下さんのスラックスをいじり始めた。 「今日は帰そう。けじめをつけて来なさい。君はどうする」 「ひとつ質問していいですか」 「なんだ」 「津端さんはボクのお父さんなんですか」  津端さんの座る椅子に膝を上げさせられ、何やら下半身をいじられているらしい月下さんが高い声を上げた。何をされているのかスタンドライトやら詐欺っぽい壺とかで見えない。返事が聞き取れなかったけど、グレーってことかな。 「染井を呼ぶといい。うっかり秋桜を呼んだら、大変だ」  わざとらしく津端さんは秋桜さんの名前を出したところで月下さんを見つめた。月下さんが頭を振った。 「じゃあ風信さんでも呼びますか?月下さん、誰がいいですか、選んでください」 -バラ科モモ亜科スモモ属- 「迎えに来いってさ」 「オレが行こうか、大変だろう」  (さく)は電話を切った俺を労わる。深月と一緒にいるのが月下だからだ。だが見張りを命じられたのは俺だ。そして深月も俺に来てほしいと言った。むしろ俺だけに来てほしいと。酒飲む直前で良かった。まぁ飲んでても、行ったかも分からんが。 「いや、俺が行く。たまには早く帰ってやれ」  (さく)は苦笑する。上手くいっていないわけではないようだが、ガキのことを考えるとこのままここにいていいのか分からなくなっているようだった。俺の杞憂か。まぁ、(さく)でないなら俺もここにいる理由はない。しかし津端の事務所となると気が重い。正直苦手だ。 「エドさん!」  風信がきらきらと脳天気な面で声をかけてくる。 「お出掛けですか?車、オレ、出します?」  振り回していたキーを見て、風信の呑気な顔は引き締まる。ポメラニアンとかいうぬいぐるみみたいな犬が、シベリアンハスキーとか何とかいった大きい犬に変わるくらいには見える。深月が雛鳥役に選ぶならこいつだろう。内心深月に悪態を吐きながら風信の気遣いを断る。 「なんか胸騒ぎするんですよね」 「台風が来るぞ。さっさと帰れ」 「ははは、毎日が台風みたいなこの業界でですか」 「今度は本物だ。んじゃ、ちょっと行ってくるわ」 「はい。行ってらっしゃいませ。お気を付けて」  月下がいながら迎えに俺1人を選ぶ辺り、深月の無意識か意識的か性格の悪さが伺える。誰に似たんだ。俺か?咲か?それともあの陰険野郎か。風信に背を向けたまま手を振って、車に乗った。とはいえ俺、深月、月下とあと1人運転手の胃に穴が空いちまうかもな。そんなくだらないことを考えてながらシートベルトを締める。津端のじいさんが車に轢かれたのは陰謀説があるが、あんな狡猾でも(さく)は実の父親が死ぬんじゃないかって思うくらい焦っていた。デカく育ったのはあの男の援助があったから。忘れてなどいない。溜息をついてキーを挿す。その前になんとなく車内に消臭剤という割には花みたいな、呑気な匂いがする消臭剤を振り撒いた。なんとなく。なんとなくだ。  行き慣れた津端の事務所に着く頃には雨がぽつぽつ降っていた。まだ傘は必要なさそうだが、予報どおりに台風が来るんだな、となんとなく思った。深月の電話を鳴らす。すぐに出た。 『あ、本当に来てくれた!』 「とっとと帰るぞ。早く出てこい」  津端のお化け屋敷みたいな事務所には似合わない。俺も、深月も。 『ほら、月下さん!エドさんが迎えに来てくれました!』 『っは、なぁッ、はっ、ぁんッ!』  は?  俺は電話を遠避ける。聞こえちゃいけない声がした。脳内がどろどろになりそうな。俺、ナニしに来た? 『菓子食ってんのか』 『そうだ、ボク一緒に帰れないんですよ。月下さんのこと頼みます』 「え、ちょ、深月」  深月は俺の問いを無視して俺に月下を任せるという。やっぱり運転手連れてくるんだった。2人きりかよ。どうせ、「あなたの手は煩わせません」とか言ってタクシー頼む気だろ。いや、そこは連れ戻すけどよ。電話が切られると津端の事務所のドアが開いた。津端のとこの力自慢が何か大きなものを抱えている。視界が暗く、少し白いものということしか分からない。それは月下だった。 「ちは」  顔に大きな傷痕のある男は厚く埋もれそうな皮膚の中で円らな瞳を俺に向けた。何度か目にしたことがある。広過ぎる肩、丸太みたいな腕、実は着ぐるみという噂もあるほどで、俺たちからは力自慢と呼ばれていた。子猫を抱くみたいに軽々と華奢な月下を抱えている。両手を前に縛られている。ネクタイか何かのしっかりした拘束の上からリボンが巻かれている。癖のある結び方は深月だ。力自慢は何の煩悩もないのか俺を見下ろした後、無遠慮に月下を押し付ける。お前は人ひとり抱き上げるのは難無いんだろうが、俺と月下はほぼほぼ背丈が同じだ。軽々と子猫抱くみたいにはいかない。 「ヤエサン」  低い声が俺を呼ぶ。円らな瞳が一瞬、光って見えた。喋ったところ始めて見た。月下を受け取る時に少し力自慢の張った腕と触れた。傷痕の下の薄い皮膚が色付いた気がして、なんとなく、マジかと思ったが月下が無抵抗で俺の胸に崩れてくるものだから力自慢のことは頭からすっ飛んだ。 「あ、エドさん!詳しいことはまた後で」  電気の点いていない事務所入り口の奥から深月が姿を現わす。 「深月…お前なぁ」 「なんか、お父さんが、」  深月が何か言って、胸に収まった月下が体勢を崩すもんだから意識がそっちにいった。背丈の割には軽いけどそれでも男の体重でしかも容赦がない。支えた後に深月へまた顔を向けたが、深月は笑いながら力自慢を中へ引き入れ、扉を閉めていた。ぽつぽつ雨が降り、少しずつ強くなっている。

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