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第7話

-バラ科モモ亜科スモモ属-  まだ残ってるらしい眠気とほぼジュースの甘さのコーヒーとで意識がふらふらしていた。俺はコーヒー飲むと眠れなくなる厄介な体質だった。 「それ、なんなんスか?」  風信がちらちらと俺とフロントガラスの奥を交互に見る。俺のぼやぼやしていた意識がはっきりとした。 「それ?」 「そのリボンっスよ」  風信に言われて俺は左手を見た。 「悪趣味だろ」 「ええ…。ご自分でやったんスか」  左手の薬指に結ばれたリボン。月下を縛っていたネクタイの上に飾ってあったリボンだ。ちらちらと視界を掠めるのにも手の甲を叩くのにも慣れて、存在を忘れていた。寝ている間に好き勝手しやがる。 「深月だろ、こんなことするやつ」 「綺麗に結べるようになったんスね」 「口煩い家庭教師付きだからな」  バカな弟分の顔とそれから頼んでもいないのにそいつを諌める陰険な美人の嫌味な顔がちらついて、解く気も起きず、それが普通になっていたからそのままにしてしまっていたが、指摘されると気恥ずかしさがある。 「左手の薬指っスか」 「(さく)が左利きでな、それのせいだろ」 「え゛」  風信が潰れたカエルみたいな声を出す。 「なんか轢いたのか」 「エドさんって結構まめな性格してると思ったんスけどね」  何が言いたいんだ。まめな性格、あの陰険置き去り誘拐野郎じゃねぇんだ。咲(さく)ほどではないがむしろ大雑把なきらいがあるくらいだと思う。 「んで、その発言の真意は」 「左手の薬指って婚約指輪嵌めるとこっスよ。絶対じゃないですけど」  深月はアホだな、以外の感想が思い浮かばなかった。相手違うだろ。いや、先越されたら困るんだがな。 「似合わない話だな」  津端の事務所にもうすぐ着く。まだらな暗い青が少しずつ明るくなって、海みたいな色になる。少しずつ大型トラックや新聞配達のバイクが見えはじめていた。 「オレ待ちますね。苦手なんスよ。ちびっちゃうかも」 「それは困るな。待ってろ」  風信が大袈裟に震える。津端が得意なやつなんていないだろ。と思ったが深月は懐いてるげだったな。突然訪れて、はいそうですかと通されるわけも多分ない。あったとしても反感買うし、(さく)の顔が立たなくなる。事務所の前に立って深月の携帯電話に掛けるがそういえばあいつは津端に預けてるんだったと思い出す。誰か出るだろ。そのまま繋いだ。 『染井エドワーズか』  津端の声は沈んでいた。呼ばれ方が変わっていて少し戸惑う。エドワーズ呼び、バカにされてる感じがすんだよ、言わなきゃハーフって分からないような見た目だしな。 「はい、染井です」  津端は黙っていた。なんか言えよ。調子を狂わせられる。 「深月と月下が邪魔してると思うんで、今事務所前に来てるんですが」  電話の奥は何の音もしない。切っていいかも分からない。 『君は美仁(よしたか)に惚れているのか』  無音の中でやっと聞いたのはそんな問いだった。いきなりだな。 「はい」  隠すこともない。隠すつもりもない。本人に直接言う気は毛頭ないけどな。 『ほうか…』 「それが何か」  事務所の扉に手を掛ける。焦りに身体がカッと一瞬で熱くなる。事務所入ってすぐの長たらしい階段を登る。津端の部屋に向かうにはどれだけ登らなきゃならねぇんだ。 『彼のことなんだがね…』  勿体ぶるな。早く言え。 「月下が、どうかしたんですか」 『君は彼のどこに惚れた』  質問を質問で返すな。俺はただでさえ睡眠薬で身体はダルいし、その前に熱烈な時間を過ごしたわけで、とにかく疲れている。津端の興味に付き合っている暇はない。 「顔です」  そう言っておけばすぐに済むだろ。あれこれあいつに抱いた好きを思い出してこじつけるのは面倒だ。あいつは顔が綺麗だから、顔が好きでも十分説得力はある。 『津端の事務所に来なさい』 「今向かってます」  一方的だ。そうでないとやってられない立場の人なのか。久々の運動らしい運動に脚が張る。月下が何かヘマこいたのか。俺が片付けられる範囲のことか。またちくちく嫌味を言われるんだろうな。  津端の部屋に入ると、津端は机に両肘をつき、手を組んでいた。不気味に、値踏みするみたいな目を俺に向ける。 「恋慕とは儘ならないものよな」  まさか内密に事を運べって言うんじゃないだろうな。津端は何人か女がいる。深月が息子というならその中に母親がいたっておかしくはない。本妻の子じゃないのは確かだが、それでも誰が深月の母親かは分からなかったが、改めて見れば分かるかもな。 「男で在りながら女の業を背負わせたというに男の業も知ってしまった。儘ならないものよ」 「誰の話をしているんです?」  津端は暗い。スタンドライトが眩しく津端を照らしていた。胡散臭い幸せの壺みたいな骨董品で顔の半分は見えない。 「男の業を知っている以上、汲み取らねばならぬ。染井エドワーズよ、悪いことは言わん。津端の元につけ」 「秋桜に頼み込まれて絶縁でも叩き付けられない限り、そうもいきませんね」  津端はただ暗い。どこかを見ていた。耄碌したか。 「津端は業を知っている。秋桜を愛し、惚れぬいて死んだ男の顔を立てねばならぬ。お前の返答次第で津端は潔く手を引く。二度は言わん」  俺は津端の言葉を繰り返す。死んだ?誰が。秋桜を愛して惚れた男?死んだ?聞き間違えだ。そうだろ?。 「惚れた者を守る。志を秘して去ぬ。津端は彼奴を女にした。だが彼奴は男の業を黙して掻き抱き自害した」 「…ッ誰の、話だよ」  聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。少しずつ分かってきてしまう。やめろ! 「わぬしの恋路は絶たれた。だがまだ彼奴の意思は続く。お前の返答次第でな。話はそれまでよ。津端が愛息子の長年の世話、感謝する」  月下。 「想い人は隣の部屋で眠うておる。あとは好きにせよ」  随分と勝手な話だった。俺は感覚のなくなった足を引きずって部屋を出る。隣の部屋。そこに月下が。  身体は軽くなっていた。睡眠薬も、激しい営みも、長い階段も全て身体は忘れていた。扉の前に立って、冷静になったつもりで勝手に動いた足が蹴破る。大きなベッド。お化け屋敷みたいな事務所に似合わない、明るい色の電気と、ラブホテルのベッドより断然質のいいベッド。その上で、頭を撃ち抜いたらしい月下は眠っていた。深月がその真横で眩しさに細い身体へ顔を埋めて寄り添い寝ている。 「み、」 「津端さんについてください」  後頭部に当たる固い感触。ハジキ。 「風信…っ」  背後に立っているのは風信だった。悪い冗談だと思った。今なら一発ボコで許してやる。それどころじゃないんだ、今は。でも分かっていた、冗談だと思いたいだけだと。 「難儀なんスよ。我を殺せる人間は間諜員に向かないし」 「ならやめたらいいだろうが」 「そう簡単にやめられないことはあなただって分かってるでしょ」  風信。月下。俺は。 「長年共に過ごしたあんたらを殺したくない。二度でも三度でも言います。津端さんについてください!」 「情けねぇと思わねぇのかよ」 「情けなくて結構。形にこだわって中身が伴わなきゃ意味がないんじゃないスか」  後頭部にぐりぐりと固いものがさらに押し付けられる。風信、分かってんのか、死んだのは月下なんだぞ。お前の… 「それが、オレを真の底から信用し何も知らず死んでいった男に手向けられる唯一つの譲歩っスから」  風信は俺の知った声で、俺の知らないことを言う。月下と笑い合っていた姿だけは偽りじゃない。 「それもくだらねぇ男の業ってやつか」 「くだらないから必死なんス。誰も喜ばない。むしろ誰かは悲しむ。秋桜咲多もまたそうっスよ。分かっていたはずっス。それでも彼は死を選んだ」  風信のくせに。 「なんでだよ…っ!」 「さぁ。それはもう誰にも分かんねっス。ただ分かっておくべきなのは、彼の死で津端さんは少し考えを改めてくださった」  笑えるな。笑えるよ。 「違ぇだろ。懐いてた月下が死んで、だから次は俺が深月を引き留めておくための足枷なんだろ。飼い殺しなんて真っ平だ」 「それでもあなたは生きられて、秋桜さんも無事で済む」 「遠慮すんなよ。俺を消したって深月はお父ちゃんを恨んだりしねぇだろ。昔の兄や昔の父を消す。ここではそれが当然のこと、世の摂理なんだって、理解するべきだ、あいつも。手前がどういう世界で生きてんのか」  舌打ちが聞こえた。本当に犬だよお前は。面倒な相手に懐きやがって。俺は月下の傍に寄る。まだ銃声は聞こえないし脳髄も吹き飛んでいない。 「エドさん!」 「大人ンなる頃だ、こいつも」  寝ている深月の濡れた顔に、一度飲み込みかけた言葉。月下の身体は、思ったより軽かった。やれば持ち上がるじゃないか。布の下の、肉の薄い肌に指が食い込んでしまう。痛いよな。また叱られちまうな。 「無様に頭下げて生かされた命であいつの前に立つわけにはいかねぇんだよ。こいつの兄貴分にもなれやしねぇ」 「無駄死にじゃ、ないスか」 「自ら死を選ぶってのはそういうことだ。そいつがどういうつもりだったかは知らんが、何かの駆け引きのつもりだったなら手前の力でどうにかしなきゃならねぇことだった」  見張れと命じられてみすみす死なせた組員にそもそも帰るところなんてもうねぇんだ。好きな顔を見たら急に惜しくなる。向かないかもな。向いていたつもりだった。この義弟をしなせたバカな弟分を、咲は許すだろう。だから帰れない。責の矛先はどこに向く。 「どうにも出来なかったんじゃないスか。こうするしか…居場所がなくなっちまった彼のこと、そんな風に言う気っスか」  向いてない。どいつもこいつも。それでも必死にくだらねぇ意地だの業だのを知った気になって、背負った気になって、守ってる気になって生きていくしかない。そういう世界に生まれちまった。そういう世界で育っちまった。そういう世界でしか生きられなかった。 「……死んでやっと居場所が…津端に利用される価値が見出せたってことかよ。それなら俺は何も言えねぇわ。あとは咲が決めることだ。月下は間違いなくウチの組員で深月は間違いなく弟分だった…津端の言いなりになるも(おさ)の道、抗うもまた親の道」  早く撃ち殺せ。待てど待てど銃声は聞こえない。月下の身体を抱いてお化け屋敷みたいな事務所を歩く。力自慢が廊下に立っていた。いつもは直立不動のくせにこっちに顔を向けていた。埋もれた円らな目を向けてるんだろうな。似合わねぇやつ。健気だ。上手くいかない。お前もバカなやつだ。 「ヤエサン…コレカラ…ドウスルンデスカ…」  単語以外も喋れたんだな。野太い声は聞き取りづらかった。 「あんた、俺の薬指ほしいか?」  返事はNO。事務所の長い階段を下りていく。月下は何も言わない。嫌味のひとつくらい言えよ。寝てんのか。長い洞窟みたいに薄気味悪い事務所に光が射す。入口だ。どこでもないどこかへ帰る。2人で。咲は大丈夫だ。情と優しさだけが強みの男。だから味方も多い。深月も大丈夫だ。頭は悪いが地頭はいい。  外はまた雨が降っていた。遠く光った空を眺めて、歩き出す。聞き慣れた落雷に俺は泣いた。 【完】

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