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バレンタインに想いを馳せて(穂高side)2
「穂高さん知ってる? 民法において、婚姻が異性カップルにのみ成立すると規定する、条例がないっていうこと」
ふわりと笑って、俺が持っている婚姻届が挟まれたクリップボードを手にした。そして自分たちの名前を書く欄を、ゆっくりとなぞっていく。
「全然知らなかった。千秋は物知りだね」
「この島で一緒に暮らすようになってから、同性同士の婚姻について、ちょっとだけ調べてみた。だけどね、戸籍法では同性結婚が想定されていないから、婚姻届にあるここの原文を改める必要があるんだって」
言いながらその部分を指差したので、顔を寄せてみた。それは、千秋が最初になぞったところだった。
「夫になる人と妻になる人……。確かに同性だと記載するときに、頭を悩ませてしまうね」
「あのね、書いてみたいといった張本人に聞くのもなんですけど、この婚姻届に俺たちの名前を書く場合、どっちがどっちだと想定していたんですか?」
「勿論、夫になる人は千秋だろ。精神的にも肉体的にも支えられている上に、とても癒されているから」
自信満々で即答したというのに千秋は眉をしかめて、ひどく憂鬱そうな顔をした。やや迷惑げなその表情に首を傾げると、えっとですねと口調を強めて話し出す。
「穂高さんが俺のことをそんな風に思うように、俺も同じ気持ちでいます。それに、ここの世帯主は誰ですか?」
そんな分かりきったことを聞くなんてと思いながら、ひょいと自分を指差した。
「互いに生活費を折半しているとはいえ、契約しているのは穂高さん自身でしょ。他にもアレだし……」
「あれ?」
変なところで言葉を濁したので、疑問に思ったそれを訊ねたというのに、頬を染めた千秋は口をつぐんで、むっつり黙りこんでしまった。
「あれって何だろか?」
「…………」
「千秋、教えてくれないか。本当に分からないんだ」
細い両肩に手を置き、ゆさゆさ揺さぶってみる。躰を揺らされながらも、白い目で俺を見上げてきた。呆れた眼差しなれど、頬が赤いのですごく可愛い。
「……アレっていうのはエッチのことで、俺は穂高さんのを受け入れている立場だから、必然的に妻側になるかなって思ったんです」
まくしたてるように早口で告げると、つんとそっぽを向いてしまった。
笑いながら、むくれている頬をつんつんと突ついてみる。これくらいで機嫌が直らないのは分かっているが、目の前でされる可愛らしい仕草をする千秋に手を出さずにはいられないんだ。
「妻側になりたくないのであれば、千秋のを俺の中に挿れてみるかい?」
自分としてはナイスな提案をしたと思ったのに、口元を引きつらせて逸らしていた顔を向けてきた。
「そんなに俺を、夫になる人にしたいんですか?」
「そういうわけじゃないのだが。千秋が不満そうにしていたから、俺なりに考えてみた」
俺の言葉に小さなため息をついてから、クリップボードに挟んでいたペンを取り、夫になる人の欄にサラサラ流れるように『紺野千秋』と綺麗な文字を書く。氏名の下にある生年月日をきちんと書いてから、妻になる人の妻の部分に二重線を引き、夫と書き足すしっかり者の恋人。
「はい、穂高さんの番」
手元に放り投げるように婚姻届を渡されたけど、嬉しさが隠しきれなくて頬が緩んでしまった。
「そんな締まりのない顔して書いたりしたら、間違うかもしれませんよ」
「絶対に書き損じしない」
奥歯をきゅっと噛みしめて、『井上穂高』と明記した。
婚姻届に書かれた並んでいる自分たちの名前に、何とも言えない感情が胸の中に染み渡っていく。
「穂高さんが年を取って漁ができない身体になったら、パートナーシップ制度を扱っているところに、引っ越しするのはどうかなって考えているんだ」
自分の生年月日を書き終えてから、顔を上げて千秋を見つめた。
そんな先の未来(しょうらい)のことを、きとんと考えていたなんてな――
「千秋、ありがとう。だが俺としては君と一緒にいられるなら、どこだって構わない」
「穂高さん……」
書きかけの婚姻届をサイドボードに置き、千秋の躰をぎゅっと抱きしめた。
「君が俺の傍にいてくれるなら、どこだっていい。こうして離れずに、傍にいてくれるだろうか?」
「もう……。婚姻届の書き込みがまだ途中なのに」
「俺の質問が先だよ。答えてくれ千秋」
耳元で甘やかに告げると、小さく震えて首を横に振る。
「ちょっ、耳に息がかかってくすぐったい。これじゃあ答えられないですって」
敏感な千秋を感じさせたくて、ついしてしまうイジワルを見逃してほしいのだが――。
抱きついていた腕の力を緩めて、千秋の顔の正面に自分の顔を合わせた。ぶつかる眼差しから、千秋の想いが溢れているように見える。
愛おしげに見つめてくる視線に、自然と微笑みがこぼれてしまった。
「いつもそうやって笑ってくれる、穂高さんの傍にいさせてください」
礼儀正しい千秋らしく、ぺこりと頭を下げる姿に頷くのが精一杯だった。感極まってしまい、頭の中で考えていたセリフが無情にも右から左へと流れていく。
「千秋……」
脳内に流れていくものがたくさんある中、ありきたりな言葉が心の中に残った。いつも告げているその言葉に、自分の気持ちを乗せるように口を開く。
「ありがとう。ずっと愛しているから」
「穂高さん、俺も愛しています」
言うなり長い睫を伏せて、くちびるを重ねてきた。愛情を確かめ合うように交わされるキスを、もっと深いものにすべく千秋の躰を押し倒す。
さっき終えたばかりだというのに、また始まってしまった行為のせいで婚姻届の記入がバレンタインデーの次の日になってしまったが、これはこれで忘れられない記念日にもなったのでよしとすることにした。
こうして、ふたりの記念日が増えるのもありだろうな。
めでたし めでたし
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