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蒼い炎16

 突然かけられた声にも驚いたけど、愕然とした井上さんの視線にどうにも堪えられなくなり、アキさんの身体の上から飛び退いた。 「ち、あき……千秋、ちあきっ」  そんな俺を無視して居間の入り口から動かずに、頭を抱えて体を震わせながら必死に声をかけ続ける姿に、次第に自分がしてしまった行為が飛んでもないことだと知り、自然と歯がガチガチと音を立てて鳴り始めてしまった。 「千秋? 千秋……返事をしてくれ、ちあきぃっ!」  大きな声をあげながら家の中に足を一歩踏みしめたのを見て、思わずアキさんの肩に縋りつき、ぎゅっと抱きしめる。 「アキさんは……アキさんは俺のモノだっ。絶対に渡さない!」  アキさんを離さない、離したくはない――たとえそれが恋人の井上さんであっても! 「可哀想なヤツだな、君は。一番大切な人の変化にも気づけないなんて」 「えっ!?」  何のことだろう――? 「千秋の顔をよく見てごらん。俺たちの知ってる、千秋の顔じゃない」  低い声で告げられた言葉に、ゆっくりとアキさんの顔を見つめた。 「!!」 (な、んだよ……誰なんだ、この顔は――目の雰囲気が違うだけで、まるで別人に見えてしまう) 「君のしたことで、千秋の心に傷が付いたんだろう。それだけじゃない、君の想いが彼の全部を焼き尽くしてしまったんだ」 「俺の想いが、アキさんの全部を壊し、た……?」 「ああ。千秋からいろいろ聞いてる。君が言ってた蒼い炎のことだ。普通の炎よりも温度が高いからそういう表現を使ったと思うのだが、俺からすると狂う方の狂気にしか見えないね。その高い温度で、何でも溶かせてしまうんだ。自分の中にある冷静な判断力を溶かして失わせ、終いには愛する千秋まで壊してしまったのだから。君の想いは、狂気であり凶器だと思う」  そんな……そんなのって、じゃあ俺のしたことは、アキさんを破壊する行為だっていうのか!? 「きょうき……俺の想いが……大事なアキさんを、壊して、こわし、そんな、の……違ぅっ!」  アキさんの肩を掴んでいた両手が、力をなくして震えていった。というか、この身体に触れていちゃいけない気がして、頭を振りながら慌てて飛び退き、距離をとるしかない。目の前にある現実と井上さんに告げられた言葉が、ずしんと重く心に圧し掛かった。 「こ、んなの、望んでない……無視して欲しくなくて。知って、欲しかっただけ……なのに。俺のせいで、あ、ぁ、アキさんがっ」 「……ひとりで責任を背負わなくていい。千秋がこうなったのは、俺のせいでもあるんだからね」 「なっ!? ど、して?」  だってアキさんがこんな風になったのは、俺のせいなのに――俺が手を出さなきゃ、こんな事態にならなかったというのに。 「どうしてなんて愚問だな。君が迫ったことで千秋が危機に瀕していたというのに、恋人として助けるどころか、放っておいてしまっていたのだから。険悪なケンカをしていたんじゃなかったのだが、電話に出ることすら拒否してしまって……」  左手で顔を覆い、辛そうに語っていく姿に声をかけられなかった。 「千秋が一番困っていたときに、仕事の関係だとか遠くにいるからとか、そんなくだらない理由だけで、手を差し伸べなかった俺の方が……君よりもタチが悪いと思う。どうだろうか?」  ――どうだろうか? なんて訊ねられても困るしかない。  困惑して顔を俯かせたら、無言で突進してくる井上さんに慄き、ヒッ!? なんて情けない声をあげてしまった。そんな俺を無視して、テーブルの上に置いてある箱ティッシュから数枚ティッシュを抜き取って、アキさんの身体に付いてる汚れた部分を丁寧に拭いとってから、着ていたコートを優しくかける。 「頼みがある畑中君……。もう二度と千秋の前に姿を現せないでくれ」 「それって――」 「千秋がこうなってしまったことに対して、君に責任をとって欲しいと思ってね。勿論、俺も責任をとるつもりだ。彼が正気に戻るように全力を尽くす。戻らなかったそのときは仕事をすっぱり辞めて、千秋の傍にいてあげて世話をする覚悟はできているから」  アキさんの傍らに座り込み、ゆっくりとした所作で上半身を抱き起こしてから俺の顔を見つめた。 「…………」  目の前の光景を見て、胸の中にイヤな感情が燻っていく――。  意識のないアキさんが井上さんの腕の中に包まれた途端に、少しだけ頬が赤くなった。裸の上にコートをかけられて、あたたかい身体に身を寄せた生理現象かもしれないけれど無意識でも井上さんの存在を感じとり、アキさん自身が安心してホッとしたように見えてしまった。  それは絶対に、俺では真似の出来ないことなんだ。  俺じゃあ、アキさんを幸せに出来ない。どんなに想いを寄せても無理なのは、好きになった時点で分かりきっていたことだったのに、バカすぎる自分に思わず大笑いをしてしまった。お腹を抱えて、ゲラゲラと笑ってしまうくらいに。 「一体、どうしたというんだ? 何がそんなに、おかしいというのだろうか?」  俺からアキさんを守るように、ぎゅっと抱きしめたまま眉根を寄せる井上さん。当然だろうな――。 「ハハッ、だってそうでしょ。責任は半分半分みたいな感じで言ったけど、結局美味しいトコは全部、井上さんが持っていっちゃうんだなって。人形みたいになったアキさんを、ここぞとばかりに抱きまくるんだろうなって思ったら、何だか可笑しくて」  自分の愚かさを隠すべく、酷いことを言ってやった。これで徹底的に俺を嫌いになって、傷つけてほしかったから。 「君は……自分が何を言ってるのか、分かっているのか?」 「分かってますよ。分かってるから、事実を口にしてるだけなんですけど。だって間違いないでしょ?」  傷つけて罰して、死んでしまえと罵ってほしかった。アキさんを傷つける存在の俺は、もうこの世に必要のない人間だ。 「だけどねアキさん、あまりいい反応してくれないと思いますよ。まぁ俺が下手だったのかもしれないですけど、声もあまりあげてくれなかったし、テンション駄々下がりって感じで」 「そうか、分かった」  何故だか俺の顔をじっと見つめてくる視線に、違和感を覚えた。 「恋人としてアキさんの面倒を見るのは大変でしょうが、頑張ってくださいね。言いつけ通り、俺はもう消えちゃいますんで」  その視線から逃れたくて急いで立ち上がり、さっさと背中を向けて立ち去ろうとしたら。 「待ってくれ。……畑中君」 「何ですか? お邪魔でしょ俺ってば。早くふたりきりになって、ヤりたいだろうに」 「最後に伝えておきたくて。千秋のために綺麗なウソをついてくれて、どうもありがとう」  ――どうしてありがとうなんて、感謝の言葉が出てくるんだ……。 「はぁ? 何言ってんですか、俺はウソなんて」  ありえないことを告げられ困り果てた挙句に悔し紛れの苦笑いを浮かべた俺を、井上さんは首を横に振りながら見つめる。 「俺も……俺自身も君と同じように、千秋のためを思ってウソをついたことがあるんだ。だから分かる」 「ウソなんて、ついてないって!! 俺は自分の気持ちを素直に言ってるだけだしっ」 「……目を赤くさせながらそんな風に笑いかけられても、それが全部ウソだと分かってしまうんだよ」 「!!」  目を赤くさせながら――?  井上さんの言葉に慌てて顔を背けながら、口を噤むしかなかった。隠し切れなかった感情に、思わず下唇をぎゅっと噛みしめる。 「一度だけ千秋に、別れを告げたことがあってね。好きじゃないってウソをついたのだが、簡単に見破られてしまったんだ。ホストをしていて装うことに長けていたハズなのに、どうしてだろうってずっと思っていた。でも今、畑中君の顔を見て、その理由が嫌というほど分かってしまったよ。瞳はウソをつけないんだって」 「…………」  目は口ほどのものを言う。そう言いたいんだろうけど、今の俺はそれすら何としてでも隠したかったのに。 「ウソをついた俺に、千秋は言ってくれたんだ。それはそれは優しい笑みを浮かべてくれてね。『出逢ってくれて、ありがとう穂高さん。幸せになって下さい』って。だからきっと、今の君にも同じ言葉を贈ると思うな」 「そ、んなの……ありえない、ですって。だって俺はっ!! 俺は……アキさんをこんなにして傷つけた酷い男なんですよ?」  目の前にいるアキさんはずっと無表情のまま、空(くう)を見たままだった。そんな彼の顔を見てから、俺に優しく笑いかけてくれる井上さんが口を開く。 「たとえ酷いことをした相手だけど、友達じゃないか。俺は君を許すよ。ってね」  告げられた言葉を言ったのは井上さんだったけれど、俺の耳に届いたときには、アキさんの声に変換されて聞こえてしまった。  それは心と身体にどしんと重く圧し掛かってきて、苦しくなってしまうくらい、どうしていいか分からないもので――。 「……最初で最後のウソすら、つかせてくれないんですね。こんなことをされたんじゃ、忘れたくても忘れられないじゃないか」  涙が自然と溢れてきてしまい、それを見られないように頭を下げながら、アパートを飛び出すしかなかった。謝ることもさよならを言うこともできないまま大学もコンビニも辞めて、アキさんの前から姿を消したのだった。

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