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第5話

「お前、やればちゃんとできるんじゃないか」 「いやいや先生、俺はやるときはやる男です」  八割方志水の手柄である数学の課題とノートを担当教師に渡しながら、俺はドヤ顔で頷いた。  志水に付き合ってもらって三時まで頑張った課題と、翌日、翌々日と俺一人で苦労しながら書き写しまくった数学ノートである。写すの超頑張った。右手腱鞘炎なりかけた。  でも今日は花金なのだ。これが終わればゆったりできるのだ。 「ならこれからはテストのときにやる気を出せ。次赤取ったらこの倍以上の課題出すからな」 「……ぜ、善処します」  今度はテスト前に志水に勉強を教えてもらおうと決意しながら、俺は職員室を逃げるように後にした。  今日はもう授業はない。志水はバイトで帰ってしまっているし、俺も早く家に帰ってゲームでもしよう。  廊下にももうほとんど人の姿はなく、俺は小走りで鞄を置いたままの教室を目指した。階段を一段飛ばしで軽やかに駆け上がっていくと、急に目の前に黒い影が落ちた。危ない、と思うより先に、俺は駆け下りてきた人とぶつかってしまった。 「す、みませ……ひっ!!」  幸いどちらも倒れたりしない程度の衝撃で、反射的に謝った俺は途中で息を詰まらせた。心のうちで逃げるコマンドを即座に選択し、回れ右しようとした。  が、間にあわなかった。  ぶつかった相手が顔を上げ、しっかりと目があってしまった。まずい、捕えられた。 「……あんた…」 「……」  相手はなんと、あの佐巻さんだった。しかも俺を覚えているご様子。そしてその目には何故か涙が浮かんでいらっしゃる。あの気の強い佐巻さんが泣いている事実にはびっくりだが、そんな瑣末なこと気にしてられない。 「ぶぶぶつかってごめんさい失礼します!」  視界に捕捉されたがまだ間に合うとばかりに、俺は逃げ出そうとした。だって佐巻さんはトラウマだ。怖い。  だけど、がしりと腕を掴まれてそれは叶わなかった。 「ちょっと待ちなさいよ変態ホモストーカー!信じらんない、あんた女の子が泣いてるのに放置するとか最低!」 「え、ええええー!?」  いきなりなじられた。どういうこと。 「で、でも、じゃあどうしたらいいの…」 「話聞いて慰めなさいよ!」 「えええええ~!?」  なんで俺のこと変態ホモストーカーとか呼ぶ人を慰めなきゃならないの。理不尽。理不尽だけど… 「な、なにかあったの…?」  言われた通りに訊ねる俺。だって佐巻さん怖い。すごい涙目なのに睨み効かせてくる。 「こんなとこで話せるわけないじゃない!ジュースくらい奢ったらどうなのよ!」  たしかにここは階段で、ゆっくり話をするような場所じゃないけれど、あまりにも理不尽すぎる。 「……なら、えーと…とりあえず自販機まで…」  そしてやっぱり言われた通りにする俺。何度でも繰り返す、だって佐巻さん怖い。  自販機に向けて歩き出すと、やっと手は離された。      そして何故か、佐巻さんと並んでベンチに座る俺。なんという超展開。  体育館の側にあるこのベンチからは校庭がうかがえた。夕陽を背に運動部が汗を流している。帰宅部の俺には考えられない懸命さだ。すごいな、青春だな。でも美人マネージャーはエースのものなんだろうな。ドンマイ、平部員。君にも良い子が現れるさ。そして俺にもラムちゃんみたいな彼女ができるんだ、きっと。  とまあ、こうやって現実逃避し続けるわけにもいかず。俺は恐る恐る隣の佐巻さんを伺った。  佐巻さんの手にはコーヒーが握られている。俺が買った…いや、買わされたものだ。それなのに佐巻さんは口を付けようとはしない。そして無言だ。落ちついてはいるのだろう、先ほどまで溜まっていた涙はやや引いている。 「えーと…それで、何があったのでしょーか…」  このままでは埒が明かない。勇気を振り絞り、俺は訊ねた。  佐巻さんは俺の方を見ないまま、ゆっくり口を開いた。 「……あたしさぁ…本気なんだよね」 「は、はぁ…」  なにが、とは言えず、とりあえず頷く俺。 「本気で凛哉のこと好きなの」 「へ、へぇ…?」 「何よ、その気のない返事は!」 「す、すみません、だって知ってたし…」  なんてったって、佐巻さんはリノタのリーダーだ。そりゃ、凛哉が大好きに決まっているだろう。 「あんた、解かってない」  ついに佐巻さんは俺の方を見た。ものすごい眼光で。俺は思わずのけぞった。 「憧れとか、ファンだとか、そう言うことじゃないの。私は本気で、凛哉のことが好きなの!他の子たちみたいに、セフレじゃなくてちゃんとした恋人同士になりたいの!私だけ見て欲しいのよ!」  今、ものすごい発言したよこの子。セフレって…爛れてる…爛れてるよ…。  じんわりと、佐巻さんの瞳に涙が溜まる。 「あんたも…凛哉とやったんでしょ…?」  佐巻さんとは思えないほど弱々しい声で訊ねられ、俺は言葉に詰まった。やった、やりました。後遺症も残ってました。 「知ってるよ。だから、勘違いしたんでしょ。あんたまったく免疫なさそうだもん」  否定をしない俺に、佐巻さんはすごく傷ついた顔になった。あまりにも辛そうな表情に、俺までじくりと胸が痛んでしまう。 「凛哉はよほどの不細工じゃなきゃ男でも女でも誰でもいいんだもん。あたしだって、いつも近くにいるから相手してもらえてただけだし」 「そんなことないんじゃ…」 「そうだよ。わかるよ。セックスだって、凛哉は自分本位だし。私も、凛哉が気持ち良くなってくれたらそれでよかった。ちょっとだけでも…私のこと考えてくれたらなって、すごく切なかったけど、少しでも離れたらすぐあたしのこと忘れちゃうから…必死だった…セフレじゃホントはやだったけど、しがみついてたかったんだよ…!」  ぎゅっと缶を握りしめる姿は俺を詰っていたときとは大違いで、俺は掛ける言葉が見つからない。セックスやらなにやら、童貞の俺に分不相応な内容だが、佐巻さんの言う『本気』の意味は良く解った。ミーハーな俺と彼女では、気持ちの大きさがあまりにも違いすぎる。  でも、一つ気になった。なんで、彼女は過去形で話すのだろうか。 「凛哉の一番近くにいるのは、佐巻さんでしょ…?」  気の強い佐巻さんは怖いけど、痛々しい姿は見ていられない。励ましの気持ちを込めてそう言うと、佐巻さんは寂しげにふっと笑った。 「さっきね、凛哉に言われたの。セフレは皆切るって。あの下半身ゆるゆるの凛哉が、しばらくエッチはしないって言ったの」 「えっ?」 「一番大切な人から、節操なしって怒られたんだって。すごい説教されたって」 「え、え、えっ!?」  一番大切な人って…つまり、恋人ってこと、だよな。凛哉に、そんな存在がいるなんて…。  つまり、佐巻さんは告白する前に振られたことになる。 「あ……」  はらはらと、佐巻さんの目から涙がこぼれ出した。ただただ可哀想だ。  俺は掛ける言葉を失い、おろおろと手を彷徨わせた。佐巻さんはさっき慰めろって言ってたけど、俺は女の子の慰め方なんて知らない。  とりあえずポケットに手を突っ込んでみたけど、ハンカチなんて俺が持ち合わせているはずもなく、困り果てた俺は俯いて気付いた。俺、布を持ってた!  しゅるり、とそれを手にとると、俺は佐巻さんに差し出した。 「えーと、拭く?その、えーと、鼻水もかんでいいよ!」  佐巻さんはこちらを見て、目を丸くした。そして直後、きっと眦を釣り上げた。 「はあ!?信じらんない、普通ネクタイとか渡す!?しかも何よ、鼻水って!ありえない!」 「ひぃっ!」  弱々しさを一掃して怒鳴られ、俺は身を竦ませた。怖っ! 「あわわわわごめんなさいすみません…!勘弁して…!」  ネクタイ良い代替品と思ったんだけども…!鼻かんでいいってすごい優しさだと思ったんだけども…!  怯える俺を見ていた佐巻さんは、はあ、と大きな溜め息をついた。 「なんか、涙引っ込んだ」  言葉通り、もう涙は流れていなかった。 「ネクタイは…?」 「いらないっての」 「そ、そう…」  呆れ声で言われ、俺はいそいそとネクタイを巻きなおした。結ぶの苦手なんだよなーと、もたもたしてると、ぎゅっと佐巻さんにネクタイを握られた。締め殺される、と思ったのもつかの間、佐巻さんは手際よく綺麗にネクタイを結んでくれた。 「上手だね、俺いつも結び方汚いからよく志水に締め直されてて…」 「あっそ」 「あ、はい…えーと」  そしてこれから俺はどうすれば。慰めも失敗したし、もうどうしたらいいのかわからない。  そんな困惑が顔に出ていたのだろう、佐巻さんはまたも溜め息をついた。 「てゆうか、最初からあんたの慰めなんて期待してないっての。ただ話聞いて欲しかっただけ」 「なんで俺に…」  佐巻さんなら友達もたくさんいるだろうに。 「だって、他の子たちにあたしが本気だなんて言えるわけないじゃん。あたしは凛哉の一番のファン、ってことになってるんだから…」  そうか、本気で惚れている人間だって解ったら、佐巻さんが取り巻きたちの排除対象になってしまうのか。で、たまたま通りかかった顔見知りの俺をとっ捕まえたと。俺だったら周りに言いふらしたりできないだろうと。王様はロバの耳的な。  俺が一人うんうん、と頷いていると、佐巻さんはすっと立ち上がった。そして俺を振り返り、ニカっと笑った。初めて笑った顔を見た。もともと、きつめではあるが可愛い顔の子だ。笑顔は魅力的で、怖い感じもなくなる。 「ありがと、聞いてくれて。ちょっとスッキリした。何だかんだ涙もひっこめてくれたしね」 「えと、俺も、ネクタイ結んでくれてありがとう」 「あんた、ハンカチくらい持ち歩いたら?」 「……善処します」 「ところで、あんた名前なんていうの?」 「え?あ…」  そうだ、佐巻さんは有名だから俺は名前を知っているけど、平々凡々な俺の名など彼女は知らないのだろう。学年も違うし。  俺が名乗ると、佐巻さんは数秒考え込んだ後、 「じゃあ、ひろぽんだね」  なんて危ないあだ名を付けた。というか、今さらだけど、俺、先輩なのに。  でも、佐巻さんはそのまま笑顔で帰っていったので、悪い気はしなかった。      それにしても、凛哉の恋人って誰なんだろう。やっぱり、芸能人なのかな。うちの学校の生徒だったら佐巻さんたちが気付かないはずもないだろうし。気になるなあ。そのうち週刊誌とか載っちゃう系なのかな。 「んー…んん~~~」  唸りながら一人帰路についていると、携帯が鳴った。画面を見れば、志水からの着信だった。 「あれ?バイト中じゃないのかな」  首を傾げながら電話に出ると、志水が今日空いてるか、と聞いてきた。予定などあるはずもなくスケジュール帳はスカスカだが、俺はちょっと強がってみた。 「えー、俺も忙しい身の上だからどうかな~、ちょっと確認してみないと…」 『そうか、カニがあるんだけど残念だったな。仕方ない、別の奴誘うか』 「え!カニ!食べる!ひまひま、超ヒマでござる!」 『…なら今からウチ来い』 「うん!えっと、三分くらいで着くよ!」  やった、カニだ!  ウキウキしながら俺は家に電話を掛け、今日の夕飯がいらないことを伝えると志水家を目指した。  志水家に着くと、私服の志水が出迎えてくれた。 「早かったな。家帰りついてたかと思ってたけど」 「ん、学校出てすぐだったから」  そして辿り着いたリビングのテーブルには、大量のタラバガニが積み上げられていた。 「すげー!カニだ!でかい!赤い!強そう!」 「何だよ強そうって…」 「どーしたのこれ。すごいねぇー!」 「母親が貰ってきたんだよ。でもあの人仕事で暫くいないからな」 「ふぉー」  俺の視線はカニに釘付けだ。だっておいしそう。涎出そう。志水が笑ったのが空気で解った。 「ちょっと早いけどもう食うか。ほら、手洗って来い」 「はい!」  俺は素直に従い手を綺麗に洗うと、テーブルに着いた。向かいに志水が座ると、手を合わせていただきます。  早速カニに手を伸ばし、準備されていたカニフォークで身を突っついた。殻に切れ目が入れてあるが、不器用な俺はなかなか上手いこと身が出せない。苦労しつつ引っ張り出したものを大口を開けて頬張った。 「んっまーい!やばい!うまい!」 「ん、なかなか良いやつみたいだな」  向かいの志水ももぐもぐと咀嚼しながら頷いている。 「あ、そう言えば、志水バイトは?」 「急に休みになった」 「え?そんなことってあんの?てゆーか、志水って何のバイトしてるの?」  考えてみると、俺は志水のバイト先を知らない。飲食店なのか、コンビニなのか、ジャンルすら知らない。だいたい、志水のバイトは曜日もちゃんと決まっていないのだ。  よく見れば、今日の志水は私服とはいっても部屋着ではなく、そのまま出かけられるようなちゃんとした服装だ。バイト先は制服NGなのだろうか。  じっと志水を見ると、志水が俺の手元を指差した。 「おい、零してる」 「えっ!あ!制服!」 「あー…ほら、これで拭け」  カニの殻から滴った汁が、俺の膝にぼたぼた垂れていた。慌ててカニを皿に戻し、志水から受け取った布巾で拭くと、なんとか制服は無事だった。  よかった。汚したらお母さんにどんだけ怒られることやら。  ほっと息を吐くと、志水がずいと手を伸ばしてきた。 「ほら、それ貸せ。とってやるから」 「ん…」  言われた通りにカニの載った皿を渡すと、パキリと殻を割って身を取り出してくれた。器用なもので、あっさりさっくり大きな身が出てきた。 「おお、すごい…ありがたやー!んーまい!」  パキパキと殻を剥いてくれる志水に甘えまくって、俺はむしゃむしゃとカニを食べ続けた。 「お前、今日帰り遅かったんだな」  ふと、志水が聞いてきた。俺はカニを呑みこみ頷いた。 「ん。んー、んぐ、数学の課題、提出してた。手伝ってくれてありがとな。そんでもって…」  佐巻さんにとっ捕まった、と言いかけて、口を閉ざした。  佐巻さんにあっさり連行されたなんて言ったら怒られそうだし、彼女と話した内容も言えるわけないし、これは言わない方が得策じゃないだろうか。 「そんでもって?」  志水が肩眉を上げて続きを促す。いかん。 「そんでもって、数学のノートも提出してきた!」 「それでこんな遅くなんのか?」 「お、お説教をば受けまして…」  嘘だけど。  志水は信じてくれたようで、呆れ顔だ。 「お前、今度こそ赤点回避しないとやべーだろ」 「あ、うん。そうなんだよ!だから、今度はテスト前に教えて欲しいなぁーっと…」 「まず普段から自分で頑張ろうとか思わねえの」 「だって俺一人でやってもわかんないし…」 「お前壊滅的にアホだもんな…一人でやるだけ時間の無駄か。身の丈解ってるだけ良しとするべきか」 「う…ぐぬぬ…」  にっと笑う志水に腹が立っても、言い返せないのが辛いところだ。だからカニにかぶりついて気持ちを落ち着けよう。ああうまい。志水はムカつくがカニはうまい。  むすりとしながら食べ続けていると、カニの甲羅を剥がした志水がおっと声を上げた。 「カニみそいっぱい詰まってんな。このまま食うか?雑炊にするか?」 「はいはいはい!カニみそ雑炊食べたい!作って志水様!」  怒りをすぽんと投げ捨てて、俺は手を上げた。志水がぼそりと「ちょろい」と呟いたような気がしたが聞こえなかったことにする。  そうして俺はひたすらカニを堪能したのであった。  

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