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12.ヒーロー登場
このまま槇さんに舐められ続けていたら、貞操の危機に陥るかもしれない。
と思った理由。それは、傷口から移動した舌が何故か耳元にきているから、です。
なんかヤバイ。俺だって健全な男子校生、そんな所を舐められればゾクゾクする。でもここで無理やり引き剥がしたら槇さんの機嫌は急降下するだろうし。
本当に心底困った。
その時。
ガンッと開いたドアが壁にぶつかる音がして、誰かが走り込んできた。
物凄く近づいてきた足音。そして掴まれて引っ張られる俺の襟首。
「…っ…苦し!」
絞まってる絞まってる!槇さんから離れたのは嬉しいけど、これじゃ死んじゃうって!
咄嗟に閉じてしまった目を開けると、正面には憮然とした表情の槇さん。
そして俺の襟首を掴んで背後にいるのは…。
「何やってんの本当にもう愛唯さんは!!」
志津ちゃんだ。
え、なんで?
っていうか、前にも似たような事があった気が…。
脳裏に浮かんだのは、先日苓ちゃんの学校に拉致された時の事。
なんか最近の志津ちゃんは、俺の危機に駆けつけるヒーローみたいじゃない?
目を瞬かせて志津ちゃんを見ていると、それまで襟首を掴んでいた手が苦笑と共に離れていった。
「愛唯さんがこの人に連れてかれたって聞いたから…、来てみて良かったよ」
この人、と言いながら志津ちゃんが目線だけで示したのは、斜め前方に立っている橘さん。
その橘さんは、面白そうに俺と志津ちゃんのやりとりを眺めているけれど、対して、正面にいる槇さんからは物っ凄い不機嫌オーラが垂れ流れてきている。
あー、どうするの?アレどうするの?
機嫌を損ねた槇さんと苓ちゃんほど、扱いが面倒臭い人達はいない。
「…お前、覚悟は出来てんだろうな」
出た…、槇さんの伝家の宝刀『覚悟は出来てんだろうな』。
これが出た時は、一切容赦しないって事。
「志津ちゃんに提案。命が危ないから逃げた方がいいと思うよ」
親指で槇さんを指し示しながら言ったら、ヒーロー志津ちゃんはいつものヘラヘラ笑いを浮かべて余裕の態度。
「ここまで来て逃げてもしょうがないでしょ。それに、今後の為にもよく話し合っておかないとダメだと思うし?」
ウインクまでするその様子に、普段は見られない志津ちゃんの漢気を感じた。
「志津ちゃんって、顔が良いだけの単なるチャラ男じゃなかったんだね」
俺としては本気で感心して言ったのに、何故か橘さんは爆笑して、志津ちゃんは微妙な顔をしている。槇さんに至っては、そんな志津ちゃんを見て馬鹿にしたように鼻で笑った。
なに…、俺なんか変な事言った?
目を瞬かせていると、槇さんは更に深い溜息を吐きだした。
あげくに、
「…もういい。愛唯のせいで殺る気も失せた」
そう言って疲れたように俺の事を見ている。
その眼差し。物凄く腹が立ちますけど。
ムッとした事に気が付いたのか、志津ちゃんに肩を叩かれ、橘さんには頭を叩かれた。さっきまで騒動の中心にいたはずの槇さんなんて、本当にどうでもよさ気に奥のボックス席に戻っていく。
ちょっと一言文句を言ってやりたくて足を踏み出そうとしたら、それより早く志津ちゃんに腕を引っ張られた。
「ほら愛唯さん。せっかく場がおさまったんだから大人しく帰るよ」
「えー」
何それ。俺だけモヤモヤしたまま?なんか可哀想じゃない?
志津ちゃんに引きずられながらブツブツ文句を言っていたら、橘さんがいつものように格好良く笑って手を振っている姿が視界に入った。
こうなったらヤケクソだ。まるで皇族のように静々と手を振り返してやった。
キールのドアが閉まる寸前、中から橘さんの爆笑する声が聞こえたような気がしたけど、空耳だろうか。
そんな事を思いながら、ひたすら引きずられる俺。
前を進む志津ちゃんを見たら、その横顔が妙に格好良く見えて思わず瞬きをしてしまった。志津ちゃんがイイ男に見えるなんて、度が合わなくなってきたのかも。
…って言っても俺裸眼だけどね。
まぁとにかく、助かったのは事実だ。
「志津ちゃーん」
「はい?」
「ありがとうねー」
返事が返ってこない代わりに、嬉しそうに笑う顔が見えた。
愛唯がキールを出てすぐの事。
「橘」
「ん?」
「顔は?」
「そりゃもう網膜に焼き付いてる」
「行くぞ」
「程々にしようぜ、槇」
「………」
無表情の槇の顔を見た橘は、荒れるな…と密かに溜息を吐きながらも、やはり愛唯の顔に傷を付けた輩に面白い感情など持てるはずもなく…。
地面に倒れていた奴らの顔を思い出しながら、槇の後を追って外へ出た。
槇と橘が並んで歩くと、自然と人波が左右に分かれる。
モーゼだねー、なんて愛唯が笑った事があるが、昔の愛唯のバーサーカー全盛期も同じ状態だったぞ。
とりあえず、これはこれで歩きやすくていい。
なんて事を考えていた橘の視界に、見覚えのある姿が映った。早速発見。
橘から滲み出る空気の変化に気が付いたのだろう、槇の目線が同じ場所を辿る。
「どっちだ」
「赤い方」
「………」
赤系のシャツを着ている男の姿をまっすぐ視界に捉えた槇の目尻が、キュっと吊り上がった。
これは俺の出番なんてないか…と肩を竦めた橘。出番どころかストッパーの役割をさせられそうだ。
そんな橘の心境など構わず、変わらぬ歩調で赤いシャツの男に近づいた槇は、背後から声を掛けた。
「愛唯の顔に傷を付けたのはお前か」
「はぁ?………って、な……ッ!!」
相手が振り向きざまに拳を一発。
槇の顔を見て目を見開いた直後、そいつは鼻血を噴き出して地面に倒れ込んだ。血がダラダラと顎を伝って滴り落ちる。
その場にいた仲間が咄嗟に反撃しようとするも、槇の顔を見た瞬間に顔面を蒼白にさせて固まった。
「…な…、なんで…」
「愛唯に傷を付けていいのは俺だけだ」
「は、はひ…」
赤いシャツの男は恐怖に言葉もままならないらしい。鼻を片手で覆ったまま尻だけで地面を後退る。
さっきまでの人混みが嘘のように、この場だけ丸い空間が出来上がり、槇から放たれる怒りのオーラの凄さに当てられて、通り過ぎようとした通行人さえ足を止めて固まった。
橘は、やれやれ…と溜息を吐き、槇に近づく。
「槇、もうそのくらいでいいだろ。そろそろオマワリさんが来るぜ?」
「…あぁ」
とりあえず気がすんだのか大人しく拳をおさめた槇を促して踵を返した橘は、去り際に振り返り、
「二度と愛唯に手ぇ出すんじゃねえぞ」
そう告げた。
そして思い出したかのように更に一言、
「お前らの命の為に言っておくが、愛唯を本気で怒らせると槇よりヤバイぜ?」
寝ている獅子を起こすような真似すんな。
歩き出しながら言った橘の一言が聞こえたかどうかはわからないが、地面に転がっている赤シャツの男とその仲間達は、恐怖に青褪めた顔で二人の背を見送った。
その後、彼らは二度とこの街に姿を現す事はなかったという。
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