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第1―3話
羽鳥は自宅に帰るとまず手を洗い、作り置きの麦茶をグラスになみなみと注ぎ、一気に飲み干した。
それから冷蔵庫の中身を確認した。
米は冷凍した物もあるし、材料も揃っているので、今夜の夕食はチャーハンに決めると、チラリとダイニングの椅子を見る。
そこにはバッグが置いてある。
羽鳥はバッグから目を逸らすと、愛用のエプロンをして料理に取りかかる。
一人暮らしをするようになって、仕送りの節約と健康の為に始めた料理は、日に日に上達しているようで楽しい。
料理は自分に向いているのかもしれないと思うと、手も進む。
チャーハンは程なく仕上がり、ついでにワカメスープも作って、ダイニングテーブルに並べる。
そして良く噛みながら食事をする。
羽鳥は元々テレビを見ながら食事をすることに拘りは無いが、今日はテレビは観たく無かった。
何故ならドラゴンワン芸能事務所は、Emeraldのデビュー曲のCMを一切していない。
曲をどこにも流していないのだ。
EmeraldのHPにも『発売日をお楽しみに!発売日の午前6時に解禁です!』としか載っていない。
つまり明日が本当の発売日だから、明日の朝6時を過ぎればCMも流れるかもしれないし、情報番組でMVを流してニュースになるかもしれない。
だから今日デビュー曲がテレビやラジオで流れる可能性は限りなくゼロだが、慎重な羽鳥は、万が一にもEmeraldのデビューシングルを通しで聴く前に、細切れに聴いてしまいたくないと強く思っていた。
羽鳥は夕食を終え食器を洗って片付けると、バスタブに湯を張った。
湯が溜まるとゆっくり風呂に入る。
いつも丁寧に身体を洗うが、今日は普段以上に洗い残しが無いように注意深く丁寧に洗う。
最後にバスタブにしっかり浸かると浴室を出る。
バスタオルで頭から爪先まで拭き、Tシャツと下着と半パンを着る。
全て新品だ。
思わず自分自身に笑い出しそうになってしまう。
ここまですることないのに、と。
でも羽鳥はやりたかった。
Emeraldのデビューシングルを聴くのに、何か特別なことをしたい。
男のアイドルグループがファンクラブに入るくらい好きな時点でおかしいのだから、自分の家の中でひとり自分なりにEmeraldを思ってすることが、多少変でも誰に文句を言われる筋合いでも無いだろう。
それからアイスコーヒーを淹れてローテーブルに運ぶと、寝室のベッドのサイドチェストの引き出しの中からポータブルオーディオプレイヤーを持って来て、ローテーブルに置く。
羽鳥のリビングには勿論ステレオはあるが、まずはじっくりヘッドフォンで聴きたかった。
今までは音楽を聴くのにイヤホンで不自由を感じたことは無かったが、Emeraldの為に買ったのだ。
そして最後に。
ダイニングの椅子に置かれたバッグの中からCDショップ専用の袋を取り出し、それもそっとローテーブルに置く。
全ての用意が終わると、羽鳥は慎重にCDショップ専用の袋からEmeraldのCDを二枚取り出す。
そしてCDケースを傷つけないように丁寧に包装を剥がす。
初回限定盤と通常版ではブックレットの表紙も違う。
初回限定盤では、どこかにありそうで無さそうな女の子の理想のようなブレザータイプの男子高校生の制服のような衣装を5人がお揃いで着ていて、『こっちにおいで』とばかりにこちらに向かって手を差し伸ばして立っている。
羽鳥はブックレットを傷つけないようにゆっくりとページを捲る。
最初に開いたページには、左側に横澤隆史を先頭に小野寺律・木佐翔太・柳瀬優・吉野千秋の順に、前の人物の肩に手を置いているフォト。
5人共、楽しそうだ。
右側がファーストシングルの歌詞。
次のページは左側がカップリング曲の歌詞で、右側がフォト。
最初のページの逆の順番に、今度は上体を反らし後ろの人物にもたれ掛かって手を繋いで爆笑している。
本当に体重を掛けているようで、一番後ろの横澤隆史がしっかり前にいる小野寺律を支えている。
そのちょっと焦った横澤隆史の表情も笑顔だ。
羽鳥は、5人は本当に仲が良いんだなと思った。
それからは1人ずつのフォトショット。
どこかの高校で撮影したのだろうか、みんな校舎のあちこちで、おどけたポーズを取っている。
みんなかわいい。
でも、やっぱり。
羽鳥の目は吉野千秋に釘付けになる。
吉野千秋は理科室らしき場所で三角フラスコからビーカーに薄く色の着いた液を流し込んで困った顔をしている。
下がった眉にアヒル口。
羽鳥の胸がドキリと跳ねる。
予定では初回限定盤を聴いて、通常版を聴いて、最後にDVDを見る予定だったが、通常版のブックレットを見たくて堪らなくなり、通常版を手に取った。
通常版は初回限定盤とは全く違い、普段着っぽい衣装を着ていて、草原のような所が舞台だ。
フォトショットは草原の昼間と夜に分かれており、昼間バージョンでは5人でバーベキューをしていて、夜バージョンでは5人で夜空いっぱいに瞬く星空を座って眺めている後ろ姿だ。
そして1人ずつのバストアップのフォト。
5人は草原に咲いているらしい花を持って、ポーズをつけている。
やはりみんなかわいいが、羽鳥はお約束のように吉野千秋に釘付けだ。
他の4人が花束を持ったり、花冠を頭に乗せている中、吉野千秋は四つ葉のクローバーをひとつだけ持って幸せそうに微笑んでいる。
また羽鳥の心臓がドキリと跳ねる。
ブックレットの吉野千秋を見れただけでも、初回限定盤と通常版の両方を買って良かったと羽鳥は心底思った。
けれど、と気を引き締める。
まだ肝心の歌を聴いていない。
羽鳥はまず初回限定盤のデビューシングルをポータブルオーディオプレイヤーにセットした。
出だしから疾走感溢れるナンバーに驚かされる。
Emeraldならもっとアイドルアイドルしたかわいらしい曲だと思っていたから。
歌詞も恋の歌じゃない。
だからと言ってメッセージ性だけが押し出されている曲じゃない。
青春の迷い、傷つき易い脆さ、危うさがバランス良く歌詞と曲で表現されている。
それにメンバーそれぞれのソロ部分も短いけれど良かった。
ただ吉野千秋の時には余りにドキドキと心臓の鼓動がうるさくて、歌を聞き逃しそうになってしまったけれど。
カップリング曲は一転してかわいいポップな曲だった。
初めてのデートの設定。
まるで自分がその曲の主人公のように、胸をときめかせ、手を繋ぐのすら迷う様子が伝わってくる。
羽鳥はふうっと息を吐くと、通常版をポータブルオーディオプレイヤーにセットして、カップリング曲を聴く。
カップリング曲は失恋ソングだった。
メロウな曲調が胸に迫る。
もし本当に失恋した人が聞いたら泣いてしまいそうだ。
羽鳥は3曲をもう一度聴いて、緊張しながら、DVDをセットした。
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