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第1―5話

吉野千秋を凝視して何も話さない羽鳥に、吉野千秋は気まずそうに身体を起こす。 そして自分に掛けられていたジャンパーに触れると「これ、お前の?」と言った。 羽鳥が頷くと、吉野千秋がニコッと笑って「サンキュ!」と言って、簡単にジャンパーを畳むと羽鳥に差し出す。 羽鳥がジャンパーを受け取ろうとすると、グーッと派手な腹が鳴る音がした。 途端に吉野千秋は真っ赤になって、目を泳がす。 羽鳥が静かに「腹が減ってるのか?」と訊くと、吉野千秋は恥ずかしそうにコクッと頷いた。 「昨日も1日中撮影で弁当は支給されたんだけど、食う気になれなくて。 別に弁当が不味いとかじゃなくて、仕事に集中すると食欲が無くなっちゃうんだ。 それになんつーか豪華な弁当とかケータリングとかじゃない、フツーのごはんが食べたくて」 別に初対面の羽鳥にそこまで言い訳しなくてもいいのに、吉野千秋は嘘がつけないのか、ごにょごにょと自分の食事情を説明している。 羽鳥は受け取ったジャンパーを吉野千秋の肩に掛けてやると、バッグから弁当箱を取り出して吉野千秋の膝の上に置いた。 吉野千秋はキョトンとして羽鳥を見ている。 「俺が作った弁当。 良かったら食えよ」 吉野千秋の顔がパーッと明るくなる。 だが、次の瞬間、おずおずと「でもお前のぶん、無くなっちゃうじゃん…」と呟くように言った。 羽鳥はフッと笑って、バッグからもうひとつ弁当箱を取り出してみせた。 「今日は友達に頼まれて弁当を作ったんだけど、急用が出来て要らなくなったんだ。 食べてもらえると助かる」 「そ、そうなんだ…。 じゃあ、いただきます!」 吉野千秋は嬉しそうに、ニコニコしながら弁当箱の蓋を開ける。 「わあ!スッゲ美味そう!」 吉野千秋は美味い~!最高~!とはしゃぎながら、モグモグと一生懸命弁当を食べている。 羽鳥は隣りのベンチに座り、そんな吉野千秋を見守るように見つめている。 吉野千秋は15分もかからず弁当を完食すると、「美味かったぁ~!お腹いっぱい!」と満足そうに笑って、リュックから取り出したペットボトルの水を飲んだ。 そして弁当箱を元通りにきちんと蓋をすると、羽鳥の座るベンチの前まで来て「ありがとう。ごちそうさま」と言って弁当箱と畳んだジャンパーを羽鳥に差し出す。 吉野千秋の白い小さな手に羽鳥の大きな手が一瞬触れる。 吉野千秋は全然気にする様子も無く、羽鳥の隣りに座ると上目遣いで「質問してもいい?」と言った。 羽鳥が「なに?」と短く訊く。 すると吉野千秋はうきうきした様子で「あの卵焼き、何ていうの?」と言う。 羽鳥は質問の意味が分からず「どういう意味だ?」と訊き返した。 吉野千秋は楽しそうに話し出す。 「うちのお袋が作る卵焼きって小さく刻んだハムとかネギとか具が入ってるんだよ。 でもお前の弁当の卵焼きは具が入って無いのにスッゲ美味くて! コンビニ弁当とかにも具の無い卵焼きって入ってるけど、俺、苦手で食べないし。 でもお前の具の無い卵焼き、最高に美味かった! だから名前知りたいなって思って」 「出汁巻き卵」 羽鳥のぶっきらぼうな答えに、吉野千秋は目を輝かす。 「出汁巻き卵って言うんだ~! 出汁巻き卵、マジ美味いよなー!」 笑顔で出汁巻き卵を繰り返す吉野千秋に、羽鳥がポツリと言った。 「お前、文学部2年の吉野千秋だよな?」 吉野千秋は無邪気に「うん」と即答する。 羽鳥は吉野千秋の顔を真っ直ぐ見ると、「俺も2年の」羽鳥芳雪と言おうとしたその時、スマホの着信音が鳴り響いた。 吉野千秋はベンチからパッと立ち上がると、隣りのベンチにダッシュで向かう。 そして慌ててリュックのサイドポケットからスマホを取り出し耳に当てる。 「あ、うん、まだ大学。 え!?校門に来てる!? 嘘!何で? え…もうスタジオ入りの時間!? ご、ごめん…寝ちゃってた…うん、うん、すぐ行く!」 吉野千秋はそう言うとスマホをリュックのサイドポケットに突っ込み、リュックを背負って走り出す。 けれど、裏庭を出る所で吉野千秋は立ち止まって振り返った。 そしてにっこり笑って言った。 「弁当サンキューな! 弁当も出汁巻き卵も最高だった!」 そしてクルリと前を向くと、走って裏庭から出て行った。 羽鳥はベンチから崩れ落ちるように、地面に座り込んだ。 ジーンズが汚れるがどうでもいい。 吉野千秋の表情・行動全てが頭の中を駆け巡る。 吉野千秋のメイクをしていない素顔。 テレビを通じて見るより、きめ細かい真っ白い肌。 それにメイクをしていないと、格段に幼い。 自分と同じ年とは、とても思えない。 初回限定盤のブックレットの衣装の制服を着て、普通に高校に通っていそうだ。 そして初対面の相手に対する警戒心の無さ。 これには羽鳥は心配だった。 今をときめくアイドルが、初対面の名前も知らない男が作った弁当を、疑うこと無くアッサリと完食したのだ。 吉野千秋は人見知りということだが、今日は何か心境の変化でもあったのだろうか? そして羽鳥を上目遣いで見上げる黒いタレ目気味の大きな瞳。 まるで吸い込まれそうな、黒い瞳だった。 凍てつく冬の夜空のように、星々や月を際立たせるようなくっきりとした黒い瞳。 そして羽鳥は今更気が付いた。 自分はあの瞳に、たったひとりで映っていたんだと。 羽鳥は思わず、裏庭の地面に突っ伏した。 吉野千秋が人見知りと知っていたから、羽鳥は吉野千秋を驚かさないように自制心を最大限に働かせ、自然に振舞った。 余計な事も一切喋らないように気をつけた。 本当は真っ赤になるのは自分の方だった。 本当は夢を見ているようにふわふわと浮かれていた。 だが、吉野千秋は羽鳥をこれっぽちも疑いもせず、羽鳥の手作り弁当を一生懸命食べてくれた。 弁当に興味まで持ってくれた。 ニコニコと笑顔を向けてくれた。 アイドルスマイルでは無い、素の吉野千秋の笑顔。 一瞬、触れ合った手と手。 それら全てが羽鳥の心臓を貫いた。 だから吉野千秋が不快にならないように、自制心を最大限に働かせられたのだ。 好きだ。 好きだ。 好きだ。 吉野千秋が好きだ。 今まで付き合った女の子達に振られた理由が、羽鳥はやっと分かった。 女の子達は羽鳥が『好意』をもって接してくれているのは分かるが、最終的に気がつくのだ。 この人は私が恋するように、私に恋していないと。 そして羽鳥の二重の切れ長の瞳から涙が溢れた。 俺は絶対叶わない相手に初めての恋をしてしまった。 スーパーアイドルの階段を昇り始めた吉野千秋に。 「遅れてごめ~ん。 教授につかまっちゃってさー」 高屋敷はいつもの軽いノリで裏庭に入って来てフリーズした。 羽鳥が何故か地面に突っ伏しているのだ。 高屋敷は慌てて羽鳥の元に駆け寄った。 「羽鳥、どうした!? 具合でも悪いのか!?」 高屋敷の声に羽鳥が顔を上げる。 羽鳥は今は泣いていないが、明らかに泣き顔だ。 高屋敷は驚き過ぎて声が出なかった。 羽鳥はポーカーフェイスで冷静沈着で生真面目なしっかり者だ。 その割りに面倒見が良くて、そのギャップに惹かれる人間は多い。 高屋敷はどちらかというと感覚で物事を捉えるタイプなので、羽鳥に頼る事が多い。 羽鳥は「しょうがないな」と言いながらも高屋敷の面倒を見てくれる。 その羽鳥が泣いている。 高屋敷は羽鳥が泣いているのを初めて見た。 もしかしたら、病気かも知れない… 高屋敷は羽鳥に肩を貸すと、羽鳥を何とかベンチに座らせた。 羽鳥のシャツやジーンズは泥で汚れている。 高屋敷はパンパンと手で泥を払ってやった。 羽鳥は何の反応も示さない。 「羽鳥、医務室行くか?」 羽鳥は首を横に振る。 そしてベンチに置かれた畳まれたジャンパーを、胸にしっかりと抱いた。 微かに羽鳥とは違う匂いがする。 吉野千秋の香りが移ったのかも知れない。 香水などとは違う、甘い香り。 羽鳥はジャンパーを胸に抱いたまま、身体を折って咽び泣いた。 高屋敷は何も言わず、羽鳥が泣き止むまで肩を抱いていたのだった。 羽鳥は泣き止むと、高屋敷に「面倒かけて済まなかった」と言って弁当を渡した。 高屋敷は「気にすんな」と明るく言った。 羽鳥がベンチから立ち上がる。 「羽鳥、弁当食わねーのか?」 羽鳥は秋晴れの空を見ながら 「天使降臨。 俺の弁当を食ってくれた」 と呟く。 高屋敷は受け取った弁当を落としてしまいそうなほど驚いた。 羽鳥が『天使降臨』なんてゲーオタ・アニオタじみた言葉を言うなんて…! 確かに高屋敷がゲームの話をすると、羽鳥は聞いてくれてはいたが、全く興味が無い筈なのに。 高屋敷が言葉を失っていると、羽鳥はさっさと裏庭から出て行った。 初恋に気づいた途端に失恋確定。 そんな羽鳥を癒してくれるのは、やっぱりEmeraldしか無くて。 羽鳥はいつもと変わらず録画したEmeraldを観て、Emeraldの3曲しか無い曲を繰り返し聞き、注文した雑誌をファイリングし、寝る前には必ずDVDを観る。 悲しい筈なのに、DVDの吉野千秋を見ると、どうしても胸が高鳴る。 ドキドキも止まらない。 そして。 裏庭で会った『普通の大学生の吉野千秋』を思い出す。 裏庭で会った吉野千秋はいつも羽鳥を幸せにしてくれる。 失恋確定でも、それは変わらない。 たまに好きだという気持ちに押し潰されそうになるが、そんな時はファンとして出来ることをやろうと考える。 だが、アイドルを好きになったことも初めてだし、まさかメンバーに初恋に落ちるなんて羽鳥は想像もしたことが無かったので、どうしたらいいのか良い考えが浮ばない。 そんな悶々とした日々を過ごし、裏庭で吉野千秋に出逢って1週間後の10月31日。 Emeraldファンクラブから会報が届いた。

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