え？ だって、あの時… 吉野千秋は… テレビの前で固まっている羽鳥の目に、華やかなステージで輝くEmeraldが映っているというのに。 「出汁巻き卵か～。 あれ、美味いよね。 俺も好きだよ。 でも吉野、若いのに渋いな～」 楽しそうな司会者の言葉。 それを聞いて、どっとウケる会場。 悲鳴のようなEmeraldのファンの歓声。 吉野千秋が真っ赤になって、照れくさそうに「そ、そうですよね…」という小さなかわいらしい声も。 羽鳥の目は鏡になったように映像を映すだけ。 耳は音を素通りするだけ。 女子アナに促された司会者がEmeraldをステージへと誘う。 どうやらトークの時間を予定より大幅に過ぎているようだ。 Emeraldの５人がそれぞれの定位置につくと、羽鳥がそれこそ今日まで何百回と聴いた前奏が流れる。 そして始まるパフォーマンス。 けれど羽鳥の目には、10月の秋晴れのベンチに座り、羽鳥を上目遣いで見ていた吉野千秋が蘇る。 『質問してもいい？』 『あの卵焼き、何ていうの？』 『お前の具の無い卵焼き、最高に美味かった！ だから名前知りたいなって思って』 俺は何て答えたんだっけ？ そうだ。 ぶっきらぼうに『出汁巻き卵』とだけ言ったんだ。 それなのに、吉野千秋は目を輝かして 『出汁巻き卵って言うんだ～！ 出汁巻き卵、マジ美味いよなー！』 と笑顔で出汁巻き卵を繰り返していた… そして羽鳥はひとつの答えに辿り着く。 俺の弁当を食べたから…？ つまり吉野千秋はあの日まで出汁巻き卵を知らなかった。 それが全国ネットの生放送で、好きな食べ物だと言うくらいに好きになった。 あの時、弁当箱と羽鳥のジャンバーを返してくれた吉野千秋の白い小さな手に一瞬触れた羽鳥の大きな手が、小刻みに震え出す。 ひときわ大きな歓声がして、羽鳥の目がテレビを観る。 Emeraldは正面ステージから二手に別れ、左右の階段を昇り、階段の交わる二階席の高さの小さなステージで合流したようだ。 吉野千秋は横澤隆史と２人で階段を昇ったらしかった。 ライトが当たりキラキラとEmeraldの赤いスパンコールの衣装が輝きを増し、ダンスを踊る５人それぞれが、赤い残像を残して動いているように見える。 羽鳥はおかしいな、と思った。 テレビ画面が良く見えない。 あんなに光輝いているステージの５人が霞んで見える。 そして頬を伝わる冷たい感触に、自分は泣いているのだと気が付いた。 涙越しに見える吉野千秋は、それでもかわいい。 かわいくて、恋しい。 そして残酷だ。 羽鳥の弁当で初めて知った出汁巻き卵を好きだと言う吉野千秋は。 これじゃ運命だと思ってしまう。 運命の人。 初恋の人。 もう引き返せないじゃないか。 Emeraldが最後のポーズを決めると、金色のテープが発射され会場に降り注ぐ。 大歓声の中、Emeraldのメンバーはパフォーマンスが成功して笑顔で喜び合っている。 そしてそこで番組はCMに切り替わる。 羽鳥の涙はとめどなく頬を伝い、床にポタポタと雨の跡のような雫を作る。 無情にも切り替わったCMが教えてくれる。 お前はテレビ越しでEmeraldを観ている何万人といるファンのひとりにすぎないと。 羽鳥が吉野千秋を運命の人だと思っても、初恋に焦がれても、それは羽鳥の勝手で、吉野千秋に届くことは一生無いのだ。 CMが終わり、また司会者と女子アナが映し出される。 ２人は楽しげに次のアーティストを紹介する。 何がそんなに楽しいんだろうと、羽鳥はボンヤリ思う。 この２人は番組が始まってから、ずっと楽しそうだ。 ああ、そうか。 仕事だから笑っているんだ。 それでもいい。 こんな悲しい夜は。 仕事でも楽しそうに笑っていてくれる人の声が聞ける。 それは単なるテレビ放送で、テレビの音で孤独を紛らわす羽鳥を他人は寂しい奴と笑うだろう。 『孤独』という言葉が羽鳥の心にすとんと降りてくる。 そう、吉野千秋に勝手に運命を感じて、勝手に初恋に落ちた自分は孤独で悲しい。 でも、好きだ。 でも、好きなんだ… 吉野千秋からしたら、砂浜の砂の一粒のような存在でも。 羽鳥はそれでもラストにEmeraldがまたステージに出てくるのを待って、テレビの前から離れなかった。 それから羽鳥は、大学とバイトは普段通りの毎日を送っていたが、Emeraldは避けるようにして生活していた。 結局、先日の４時間生放送の歌番組は最後まで観たが、時間が押していたのか、ステージ上にアーティストが揃うと、司会者と女子アナが自分達の左右に並ぶアーティスト達を見渡して、「今夜はありがとう」とだけ言うと、女子アナが次回の放送日を告知して番組は終わった。 Emeraldはチラリと映ったが、前後二列に分かれて立っていて、前列に木佐翔太・柳瀬優・小野寺律がいて、吉野千秋は横澤隆史と並んで後列にいたので、吉野千秋が横澤隆史を見上げて笑っている横顔が辛うじて分かった程度だった。 羽鳥は吉野千秋が一瞬しか映らなくて良かったと思った。 ラストの吉野千秋を観たくて、全然興味の無いアーティストのパフォーマンスを散々観たというのに、吉野千秋がテレビ画面に向けるアイドルの姿を見たく無い。 いつもだったら音楽番組の録画の編集を直ぐにやるのだが、今回はやる気になれない。 モリミヤのブログも見る気になれないし、Twitterに至っては全く見る気になれない。 そんな状態で１週間が過ぎると、モリミヤからDMがあった。 モリミヤと言えばEmerald関連の話しだろうが、今までのモリミヤとの付き合いを考えると無視出来ず、Twitterを開いてDMを読んでみる。 『タケさん元気？ 風邪でも引いた？』 羽鳥はモリミヤのDMがEmeraldのことではなくてホッとすると、 『はい。風邪を引いてます。 治るのにもうちょっとかかりそうです。』 と無難な返事を返した。 親切なモリミヤに嘘をつくのは良心が痛んだが、今はEmeraldのことは聞きたくないし、知りたくない。 モリミヤは『お大事に！！こじらすなよ！返事はいいから』と言ってくれた。 羽鳥はその言葉に甘えて、それきり返事はしなかった。 今まで片時も離さなかったiPodも、ベッドのサイドチェストの引き出しに入れっぱなしだ。 別にEmeraldに興味が無くなった訳では無い。 ただ、吉野千秋の姿を見てしまったら、吉野千秋の歌声を聴いてしまったら、立ち直れなくなりそうで怖かった。 そしてEmeraldを避ける生活に慣れて来た11月30日。 B５版の白い封筒が届いた。