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第1―18話
それはごく普通のサイズの封筒だ。
だが羽鳥は何となく見覚えがあった。
表には、自分の住所と氏名が印字されているシールが貼られている。
裏にはEmeraldファンクラブの名称と住所が印字されている、ただの白い封筒。
羽鳥は何度か裏表を繰り返し見ていて、あっと思い出した。
寝室に走ると照明を点け、勉強机の一番下の引き出しを開く。
そこの一番奥に、その封筒はあった。
羽鳥がEmeraldのファンクラブに入会して、会員証が送られて来た白い封筒。
羽鳥は懐かしい思いに浸りながらも、今さっき届いた封筒を手にした時から早鐘を打っていた鼓動が、どんどん早くなっていくのが分かる。
ドッドッドッと心臓から脳に響く程に。
約1週間前にEmeraldファンクラブから会報が届いたばかりだ。
今度は一体何の知らせなんだろう?
先月はこんな事は無かったのに。
羽鳥の胸に嫌な予感が渦巻く。
あの炎上に対する、ファンクラブや事務所の見解やお詫びならまだしも、原因と責められた吉野千秋に関する『何か』だったら?
こんな時、ネガティブで臆病者の自分が心底嫌になる。
そして、吉野千秋に焦がれる程恋している羽鳥は、吉野千秋に対してはネガティブと臆病が倍増してしまうのだ。
だが、羽鳥はペーパーナイフを手にした。
ファンとして出来ることをするんだろう?
封筒1通に臆病になってどうする!
羽鳥は自分を叱咤し、スッと封を切る。
中には白い紙と細長い大きめの栞のような物が入っている。
羽鳥は白い紙をそっと取り出すと、封筒を勉強机の上に置き、三つ折りにされた紙を広げる。
そこには一行目に大きく、
『ファンクラブミーティングにご当選おめでとうございます!』
と書かれている。
羽鳥の目は確かに文字をとらえているのに、文章が頭に入って来ない。
なのに、自分の意思とは関係なく、手が震える。
『厳正なる抽選の結果、羽鳥芳雪さま(会員番号000440)が、12月23日に行われるEmerald初のファンクラブミーティングに当選されました。
当日は同封のチケットとファンクラブ会員証と、下記にございます身分証明書のいずれかをお持ち下さい。
身分証明書は…』
そこまで読んだところで、白い紙にポタっと赤い液体が落ちて小さな染みを作った。
ポタポタと赤い液体は上から落ちてくる。
羽鳥はゆっくりと顔を上げ、天井に目を向けた。
白い天井に異常は無い。
その時、生ぬるい何かが鼻から顎へと伝わるのを感じた。
羽鳥は反射的に空いている方の手で鼻から口を押さえる。
掌が濡れた感触がして、その掌を目の前にかざすと赤く染まっていた。
羽鳥は一瞬で事態を把握した。
兎に角、これ以上この手紙は汚せないし、封筒を汚すなんてとんでもない。
中には『チケット』が入っているのだから。
羽鳥は赤く染まった手でまた鼻から口を塞ぎ、ファンクラブからの手紙をそっと勉強机に置く。
そして、そろそろとなるべく上の方を見ながら寝室から出ると、洗面所に向かう。
途中、ポタポタと雫が床に落ちたような気がするが、今の羽鳥ではどうしようも出来ない。
何とか洗面所に辿り着くと、空いている片手でお湯と水のコックを適当に捻り、両手でザブザブと顔から首筋を洗った。
お湯は適温で正にラッキーとしか言いようがない。
羽鳥は暫くそうしていたが、掌の赤い色が消えたのを見て、コックを捻りお湯を止めると、タオルで顔を拭いた。
タオルも汚れていない。
羽鳥は前髪も、インナーに着ていたシャツの襟ぐりも、その上に着ていたセーターの襟ぐりもびしょ濡れだ。
勿論、袖を捲る暇も無かったので、袖ぐりもびしょ濡れだ。
それでも赤く染まった顔も手も綺麗さっぱり消えてホッとしていると、ツーッと両方の鼻の穴から赤い液体が流れた。
羽鳥は慌てて洗面所にも常備してあるティッシュを掴み、鼻の穴にティッシュを突っ込む。
入り切らなかったティッシュが、鼻の穴からヒラヒラと揺れている。
羽鳥のなまじ端正な顔が災いして、思いっ切りマヌケ面だ。
だが、羽鳥はそんな事を1ミクロンも気にしてはいない。
羽鳥は鼻血の心配が無くなると、その場で洋服を脱ぎ、パンツ一枚になるとゆっくり寝室に向かった。
本当は走りたい位だが、鼻血が酷くなっては困る。
そして寝室に戻ると、まずパジャマ代わりのスエットに着替えて、勉強机に置いたファンクラブからのお知らせの手紙と、封筒を慎重に掴み、ベッドのサイドボードに置くと、自分もベッドに横になった。
今まで吉野千秋を見て鼻血を吹き出す心配をしていたが、実際に鼻血を吹いて、これからも気を付けようと心に誓う。
それから、ファンクラブからのお知らせの手紙を手にする。
鼻血の跡は4~5箇所で、大きさも小さくて手紙を読む妨げにもならず、安心して思わず笑みが漏れた。
羽鳥は何度も何度も手紙を繰り返し読む。
夢にも思わなかったファンミーティングに行ける。
生身のEmeraldに、吉野千秋に会える。
1000人しか入らないキャパの会場だから、コンサートの比では無く、席に恵まれなくても、近くで吉野千秋を見れる。
でも信じられない。
何度も何度も手紙を繰り返し読んでも、どうしても、現実とは思えない。
ファンクラブからの手紙は、羽鳥が信じられない気持ちと比例して、羽鳥が無意識に力一杯掴むものだから皺が寄ってしまっている。
羽鳥は手紙を枕元に置くと、サイドボードの封筒に手を伸ばそうとして、止めた。
まず鼻血が止まっているのを確認する事が先決だ。
羽鳥はまず、鼻の穴に突っ込んでいたティッシュをそっと引き抜いた。
ティッシュの先には血が付いているが、乾いている。
羽鳥はそれをベッド脇のゴミ箱に捨てると、サイドボードの上に常備してあるティッシュを2枚引き抜くと、先を小さく丸めて左右の鼻の穴の奥まで入れてみた。
くるくると回して鼻の穴から取り出すと、左右両方とも血は付いて無かった。
羽鳥はホッと息を吐くと、封筒をそっと掴み、中身のチケットを取り出す。
チケットの三分の二には、グリーンにゴールドが散りばめられたEmeraldの文字の下に『エメラルドファンクラブミーティングチケット』と印字されていて、裏面にはファンクラブミーティングの日付けと会場名と開演時間と席のナンバーとバーコードが印字されている。
羽鳥は嘘だと思った。
チケットをひっくり返す。
残りの三分の一は半券らしく、細かな切込みが入っており、Emeraldと印字された三分の二の裏面と同様に、ファンクラブミーティングの日付けと会場名と開演時間と席のナンバーが印字されている。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
羽鳥の頭は、まるで何かに殴られているようにガンガンと音を立てる。
けれど、チケットは事実を、羽鳥に告げている。
羽鳥の席のナンバーは『1ー25』。
一列目のど真ん中だった。
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