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第1―19話

羽鳥は自分の学部の裏庭のベンチに座っていた。 北風が吹いていて、手袋をしていない手が冷たい。 「やっぱり来てくれたんだ!」 吉野千秋が白い息を吐きながら、走って羽鳥のいるベンチにやって来ると、羽鳥の横に座る。 吉野千秋は今日もカットソーにジーンズしか着ていない。 羽鳥は素早くコートを脱ぐと、吉野千秋の肩に掛けてやる。 そしてマフラーも外すと、吉野千秋の首にぐるぐる巻きにした。 吉野千秋はニコッと笑って「サンキュ!」と羽鳥を見上げる。 大きな黒いタレ目気味の瞳に上目遣いで見つめられて、羽鳥は嬉しくて照れ臭くて、それでも吉野千秋に悟られないようにポーカーフェイスで視線を逸らすと、バッグの中から弁当箱を取り出す。 吉野千秋が歓声を上げる。 「わあ! 本当に作って来てくれたんだ!」 「約束だからな」 「出汁巻き卵は?」 「勿論、入ってる」 羽鳥は吉野千秋は直ぐにでも弁当を食べるだろうと思っていたら、吉野千秋は大切そうに両手で弁当箱を持っているだけだ。 「……食わないのか?」 吉野千秋は黙ってベンチに弁当箱を置くと、立ち上がり、肩に掛けられたコートを羽鳥の肩に掛け、マフラーも外すと、羽鳥の首にぐるぐる巻きにする。 羽鳥のマフラーから、ふわりと甘い香りが漂う。 そうして吉野千秋は弁当箱を胸に抱くと、静かに 「ありがとう」 と言った。 吉野千秋は子供のような無垢な瞳で、真っ直ぐ羽鳥を見ている。 羽鳥は、その冬の夜空のようなくっきりとした黒い黒い瞳を見ているうちに、何故だか無性に泣きたくなった。 吉野千秋が手の届く目の前にいてくれるというのに。 自分が作った弁当箱を「ありがとう」と言って、胸に抱いてくれているというのに。 いつの間にか粉雪が降ってきて、二人を白く染めてゆく。 吉野千秋はもう一度「ありがとう」と言うと、羽鳥に背を向け、歩き出す。 羽鳥は追い掛けようとするが、身体が固まったように動かない。 羽鳥は絶叫する。 「待て! 待ってくれ…!千秋!」 吉野千秋が立ち止まる。 そして振り返り、何か話している。 けれど、その言葉は羽鳥には聞こえない。 「聞こえない! 千秋、戻ってきてくれ! 頼むから…! 聞かせてくれ! 千秋!戻って…」 最後に『千秋』と叫んだ自分の声に、羽鳥の身体がビクッと震える。 カーテンの隙間から漏れる光が、昼近いことを知らせている。 羽鳥はハアハアと荒い息を吐きなから、空中に手を伸ばす。 「千秋…」 羽鳥は恋しい人の名を呟く。 羽鳥の瞳から一粒の涙が頬を伝う。 けれど何の返事も無いことは分かっている。 ここは羽鳥の寝室で、自分はベッドで寝ているからだ。 羽鳥はノロノロとサイドボードに置かれているスマホを手にする。 時計は午前10時半過ぎを表示している。 もう大学の午前中の講義には間に合わない。 高屋敷から9時前に『具合でも悪いのか?午後からは来れそうか?』とLINEが着ている。 羽鳥は機械的に指先をフリックする。 『昨夜から具合が悪くて実家に帰ってる。今日は大学は休む。心配かけてすまん。』 実家に帰っていると嘘をついたのは、高屋敷なら一人暮らしの羽鳥が具合が悪いと言えば、『看病に行く』と言い出しかねないからだ。 羽鳥が来なくてもいいと言っても、高屋敷の性格なら押し掛けてくるだろう。 羽鳥は目覚めた時から、発熱しているのを自覚していたが、喉も痛く無いし、咳も出ていない。 風邪では無いな…と思った次の瞬間、羽鳥はガバッと起き上がる。 サイドボードにはファンクラブからの白い封筒が無い。 羽鳥は鉛のように重い身体で、何とか勉強机に辿り着く。 そして一番下の引き出しを開ける。 封筒はきちんと引き出しの奥にしまわれていた。 羽鳥は封筒をそっと取り出す。 それから中身を丁寧に確認する。 ファンクラブからの手紙とチケットがちゃんと入っていて安心すると、そっと元の場所に戻す。 羽鳥はその場に座り込むと昨夜のことを思い出す。 チケットを確認して、そして席番が1列目のど真ん中だと分かって、羽鳥の精神は限界を迎えてしまった。 封筒に手紙とチケットを戻すと、何とか引き出しに封筒をしまい、這うようにベッドに戻ると、そのまま眠ってしまった。 こんなふうに熱を出したり、寝坊をしたのは何年ぶりだろう。 羽鳥はボンヤリと座り込んでいた。 何もする気になれない。 けれど、吉野千秋の夢は細部まで鮮明に覚えている。 羽鳥は膝立ちになると、いつも勉強机の上に置いてあるメモ帳を掴み、ペン立てからボールペンを引き抜くと、覚えている限り夢の内容をメモした。 すると少し落ち着いて、喉の乾きを覚え、ふらふらとキッチンに向かい冷蔵庫から500mlのスポーツドリンクを取り出し、その場で少しずつ三分の一程飲んだ。 それから解熱剤を水で流し込むと、スポーツドリンクを持ったまま、またふらふらと寝室に戻り、サイドボードにスポーツドリンクを置くと、ベッドに横になりスマホを手にした。 今日は夕方からアルバイトがある。 だが、とてもアルバイトなど行けそうも無い。 羽鳥がアルバイト先のイタメシ屋に電話をして「今日は体調が悪いので休ませて下さい」と言うと、店長は快諾してくれて、それより具合は大丈夫なのか?誰かに様子を見に行かせようか?とまで言ってくれた。 羽鳥は「実家から親が来ますから大丈夫です」と答えた。 羽鳥はこの店で1年半近くアルバイトをしているが、突発で休んだことは一度も無い。 それに羽鳥は身体も丈夫で殆ど体調を崩したことも無いし、勤務態度も真面目だから、店長は怒るどころか心底心配しているらしく、もし具合が治らないようなら遠慮なく明日も休んでくれて構わないと言ってくれて、羽鳥は「ありがとうございます。また明日連絡させて頂きます」と言って電話を切った。 羽鳥はサイドボードにスマホを置くと、急激な眠気に襲われた。 羽鳥は吉野千秋の夢を記したメモを枕の下に挟んだ。 また吉野千秋が夢に出て来てくれるように、願って。 そして粉雪の中、振り返った吉野千秋が何を言っていたのかが知りたい。 そうして羽鳥は引きずり込まれるように、深い眠りに落ちていった。 羽鳥が目覚めると、もう日が暮れていた。 スマホで時間を確認すると、18時を過ぎている。 羽鳥はベッドのサイドボードの上に置きっぱなしだったスポーツドリンクを一気に飲み干した。 汗をかいているようだが、身体は軽い。 羽鳥はゆっくりと起き上がるとリビングに向かう。 そして救急箱から体温計を取り出すと、ソファに座り熱を測った。 熱は36.8度。 体温の低い羽鳥にしては少し高めだが、どうやら熱は下がったらしい。 羽鳥は汗をかいた身体が気になって、まずシャワーを浴びようと思った。 寝室に戻りクローゼットから着替え一式とバスタオルを用意すると、枕カバーとシーツも剥がした。 そして、枕の下から出てきたメモを一度だけ読み返すと、勉強机の一番下の引き出しに入っている、まだ何もファイルされていない新品のファイルに差し込んだ。 そしてファイルを引き出しに戻すと、浴室に向かった。 羽鳥は風呂から上がると、ペペロンチーノを作った。 材料は買い置きもあるし、簡単に作れる。 朝から何も食べていないことに、食べ終わってから気付く。 コーヒーを淹れて、一息つくと、今朝は横澤隆史のラジオを聴くどころではなかったな、と思い出し、録音を再生する。 横澤隆史のラジオが始まってから、毎朝聴いているラジオ。 今日はメールで大河ドラマ出演についての質問が多いので、と、横澤隆史が来年出演が決定している大河ドラマの話だった。 今は所作や乗馬を習っていて、クランクインは来年の1月から。 主演級の出演者達は今年の秋の始めにはクランクインをしているが、横澤隆史の出演は6月以降なので、1月からでも充分間に合うそうだ。 横澤隆史の役は主役の戦国大名の小姓なので、殺陣は殆ど無いから、少しだけプレッシャーが減ったと苦笑していた。 横澤隆史の声は、Emeraldの他の4人のメンバーに比べて格段に迫力がある。 だが、こうしてラジオを毎日聴いていると、必死に穏やかに話そうとしているのが分かる。 けれど大河ドラマに出演するのなら、それはきっと大きな武器になるだろう。 少し強面気味の顔も背の高さも。 だからこそなぜドラゴンワン芸能事務所は、横澤隆史を俳優では無く、アイドルグループに入れたのだろう?という疑問はEmeraldのファン共通だ。 でも横澤隆史はダンスも歌も上手いし、Emeraldでパフォーマンスをしている時は完璧にアイドルだ。 だから余計に横澤隆史推しのファンは、大河ドラマの話を聞きたがるのかな、と羽鳥は微笑ましく思った。 そしてハッとした。 今日は金曜日。 23時から木佐翔太と小野寺律のラジオの初回放送がある。 勿論、録音の予約はしてあるが、羽鳥は体力温存の為、もうベッドに横になろうと思った。 ラジオの為だけではなく、明日はアルバイトも休みたく無い。 洗濯機から乾燥まで終えた洗濯物を取り出して畳み、クローゼットにしまうと、やはり乾燥まで終えた枕カバーとシーツでベッドメイキングをする。 そしてすぐさまベッドに横になる。 一応、体温計と解熱剤と熱さましのジェルシートと500mlのミネラルウォーターとスポーツドリンクをサイドボードに用意してある。 けれど、羽鳥には分かっていた。 もう熱は出ない。 あの発熱は、多分『知恵熱』というやつだ。 ファンミーティングに当選して鼻血まで出す程頭に血が昇れば、知恵熱を出すのも当然だ、と羽鳥は自分が可笑しくなる。 そしてファンクラブミーティングに当選して、鼻血を吹いて知恵熱まで出すのは自分くらいだろうな…と笑いそうになる。 普通のファンなら飛び上がるくらい喜んで、その夜は眠れなかった、くらいじゃないかと思う。 我ながら気持ち悪いな…。 羽鳥はそう実感していたが、それもそうかと開き直った。 芸能人をこれ程好きになったのも初めてだし、その上、男の芸能人に初恋をするくらいだから、気持ち悪いくらいで当然なんだ、と。 羽鳥は今夜からまた吉野千秋の夢を見る事を願うだろう。 夢で見た、あの粉雪の降る大学の裏庭で、聞こえなかった吉野千秋の声を夢で見る事を願い続けるだろう。 それは他人からすれば、馬鹿馬鹿しくて、滑稽で、気持ち悪いことかもしれない。 けれど自分の気持ちは誤魔化せない。 俺は吉野千秋が好きだ。 誰にも迷惑をかけず、誰にも知られず、世界の片隅でたった一人の人に恋することは、神様にも咎められないだろう、きっと。 吉野千秋に好かれようなんて、願わない。 それは有り得ないことだから。 だけど、吉野千秋に恋していたい。 吉野千秋が中心の世界で生きていたい。 そして吉野千秋がいつも幸せでいて欲しい。 大袈裟でも何でも無い、羽鳥の本心だ。 羽鳥は白い天井を見ながら、溢れる涙をそのままに、吉野千秋の面影を追う。 吉野千秋を好きになって、羽鳥は恋をして泣くことを知った。 それも幸福だと思う。 それを教えてくれたのが、吉野千秋だから。 羽鳥はサイドボードのティッシュを数枚引き抜くと、顔を拭った。 そしてスマホを見ると23時5分前になっていることに気が付いた。 慌ててラジオをつける。 そして23時丁度。 軽快な音楽と共に「こんばんは!Emeraldの木佐翔太です!」「こんばんは!Emeraldの小野寺律です!」とラジオが始まった。 羽鳥は小野寺律の声で大事なことを思い出した。 ファンクラブミーティングに当選して、混乱してすっかり忘れていた。 モリミヤはファンクラブミーティングに当選したのだろうか?

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