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跡 濁されたまま 7

――嘘だろっ!?  牧島の目が開く。背中が蒸し暑い。肩が上下した。見慣れた天井が暗い視界の中薄らと見える。肌に馴染んだ布団を掴んでいる。草臥れた寝間着もよく知っているものだ。牧島は呼吸が落ち着くのを待つ。思い出すことを拒否しながらも冴えてきた頭で息を整える。  夢ではない。記憶を辿る限り、現実だ。額を押さえると溜息がでた。日野に下半身を触られ、耳を噛まれ、歯の浮くようなことを言われた。その光景と感覚を思い出せる。そして事実だったと断言できる。双海が言っていた、日野と関わるなというのはそういうことだったのだろうか。言われたそばからすぐに破ってしまった。暗い部屋の中、時間を確認しようと端末を手に取る。目覚まし時計の役割も果たしているため枕元にあるのだ。画面の光りが眼球を刺す。深夜2時。帰宅したのは何時頃で夕飯は何を食べたのか。いつの間にかシャワーを浴びて、いつも通り寝間着に着替えて眠ってた。覚えているし、その光景も思い出せる。けれど頭の中は真っ白で、疑似的に日常の習慣をこなしていた。それよりも。それよりも、待ち受け画面に通知が着ている。メールだ。牧島に産卵を真似た自慰行為を見せた双海暁人。 ――マジかよ  彼のいうことを破って、すぐに痛い目をみた。日野から何か聞いたのだろうか。責めの言葉が書いてあったらどうしよう。牧島はメールを開く。また会いたいという旨の短い内容。日野と何かあった、それを含む内容はない。また会いたい。時間も日付も指定はなく、ただそのまま双海の気持ちだけが書いてある。返信しようとして、すぐに明確な答えが出せずメールを閉じる。    返信せずに何日か経った。返信していないことも忘れていた。その間双海からメールは来なかったし、日野から連絡がくることもなかった。新手の詐欺だったのかもしれない。あのまま交流を続けて、何か契約させられるだとか。双海と日野との交信がぱったりと途絶えたかと思うと、入れ違うように原田が牧島に構うようになった。日野に原田との関係を訊かれてから、むしろ原田が日野と牧島の間に割り込むように話し掛けた日の後日から。「あの後大丈夫だった?」と珍しく原田から積極的に訊ねてきた。「何かすごく大変そうだったから」と原田は言う。ああもしかして日野さんイケメンだから、と牧島はすぐに察して、靄が胸にかかった気分になった。 「原田さん」  いつの間にか自然の流れだったのか、原田と昼食を共にするほどにまでなっている。原田という存在が、日野を完全には牧島の中から消さないのだ。日野を狙っているのならもう終わったことで。原田と探り合うような話をする度に牧島の中から日野と、そこから双海まで存在を消させてはくれない。このまま日野のことを勿体ぶって、気付いているが言わないのは、後からくる原田の落胆を見るくらいなら正直に言ってしまうのが楽なのではないか。牧島は原田を見つめる。 「何?」  天気がいいから外で食べようと言い出したのは原田で。まるでカップル席のようにひとつ孤立したベンチがあるのは、清掃員の片付け忘れだったのだろう。原田はきょとんとした表情で牧島を見る。それとなく、原田が話しかけてきた時に言えばよかったのだ、あの時だけの知り合いだったと。どう切り出せばいいのかもまとまらずに原田を呼んでしまって。原田は不思議そうに牧島を見て、誤魔化すように笑ってから顔を逸らした。原田でなかったら嫌な女だと思う。でも原田だから。牧島は横目で原田を見る。やはり地味だ。あまり派手な服装を好まないのかいつでもジーンズやパンツスタイルで、胸元をあまり出さずボディラインが出る服を着ていないように思う。 ――オレと会う日だけか?  それでも原田は、身形はしっかりして清潔感があり、顔立ちも悪くはない。飛び抜けて美麗なわけでもないが特徴的過ぎるパーツがない。醸す雰囲気が柔らかく、声が澄んでいるし言葉遣いも丁寧で、話している内容もバカではない。牧島はう~んと唸ってしまう。 「どうしたの?」  原田が訊ねて、声に出してしまっていたことを自覚する。 「最近よく原田さんといるな、って」  遠回しだが、原田から言わせるのも手かもしれないと牧島は答えた。 「嫌だった?・・・ごめんね。牧島くん、他に友達、いたもんね」 「あ、別にそういう意味じゃなかったんすけど」  何故自分にかまうようになったのか、その理由を答えてくれ!と内心で思いながら言葉を探す。もしかしてオレのこと実は好きなのか?などという期待もわずかに残しながら。 「気を悪くしないでほしいんだけど・・・」  前振りに息を呑む。やっぱりか、と。原田の表情が複雑に濁る。 「緋菜子分かる?」  出てきた名前が意外で牧島は、え?と訊き返してしまった。 「片寄(かたより)の・・・」  原田も、え、と返してきて、驚いた表情をした。補足するよう苗字を告げる。 「ああ、片寄さん。よりって名前じゃなかったんだ」  下の名前で呼ばれると分からなかった。それよりも周りの子たちが呼んでいた名前は苗字からのニックネームだったということに意識が向いてしまう。男子の間でも噂になっている“よりちゃん”は原田とよく一緒にいる大学のマドンナ。原田とは系統が違うせいで、何故2人は仲が良いのだろうと思ったこともしばしばある。「この大学ブスばっかだな」と牧島の友人が入学式早々言っていたが、それを差し引いても同期という範囲だけでなく大学全体をとっても華々しさと愛嬌と美貌がある。 「緋菜子が、あの人のこと」  原田の声が低くなる。真剣な面持ちで、膝の上にある拳を握る。怒っているのだろうか。牧島は俯きだした原田の顔を覗き込むよう背を丸めた。 「なんで片寄さん?」 「一緒にいたでしょ・・・って行ってもいちいち見てないか。まっき~くんと漣さっ・・・ッ」  原田が言葉を切って口元を押さえる。ぎろりと丸い目が牧島を睨む。牧島は原田の急変した態度に首を傾げた。 「何?え?片寄さん関係あった?え?片寄さんが一目惚れしちゃったってこと?」  原田は怪訝な顔で疑問点を述べる牧島に、一度目を見開いてから、すぐにまたいつもの表情に戻る。 ――どういうこと?探りいれてたのは片寄さんのためってこと?  じわりと胸が熱くなった。原田がこくりと頷いた。白く小さな頤ときめ細かい肌が陰ってもなお白く、胸に広がる熱をさらに加速させる。 「だから、どうしようか、って思って。利用してるみたいでごめんね。断られても仕方ないんだけれど・・・あの人の知ってること、教えてほしくて」  原田は牧島と目を合わせずそう言った。 「じゃ、じゃあ原田さんは別にあの人のこと好きじゃないんだね?」  牧島から原田の顔は見えない。後頭部と横顔がわずかに見えるだけ。それでも原田の顔がきつく歪んだのが見えた。 「むしろ・・・知り合いなのに、ごめんね、むしろ、嫌いなタイプだから」  原田の声は冷たい。はっきりした意思表示に牧島は新たな原田を見た気がした。 「見た目が?」  同性から見ても、日野は完璧な男のように牧島には思えた。筋肉隆々で笑顔が爽やかで包容力のある兄貴、というようなキャラクターではないが、筋肉は確かにあってそれでも痩身を保ち背丈もある。顔立ちのパーツもバランスもよい。それだけでなく声もいい。原田のタイプではない、とはどういうことか。「見た目よりも心で選ぶタイプ」などと言い出すのだろうか。それとも冴えない男が好きなのか。とするなら、自分はどの位置にいるのか。短い間に牧島の中で問が幾つも浮かぶ。 「雰囲気が」 「あ、分かるかも」  表情の戻った原田がにこりと笑って牧島を見た。 「でも、もうあの人とは関わらないから、ごめんだけど、何か教えてあげられることないすよ」  日野とどうやってあの後別れたのか覚えていない。思い出せない。カラオケ店から出たところも記憶が曖昧なのだ。 「よかった」  明るい声が返ってきて再び「え」と間の抜けた声が出る。 「原田さん?」 「そうすれば、緋菜子に嘘つかなくて済むでしょ。いいのかな、って、あんな年上の人」 「そんな年上に見えた?片寄さん、お似合いだと思うけどな」  あの短時間で日野は原田からどう見えたのだろう。原田がひとくち、牛乳パックにストローに口をつけたのを見つめながら牧島は思った。よく知っているメーカーのミルクティーだ。 ――原田さんのミルクティー、なんか似合うな 「まどろっこしいから、もう言うね」 「え?う、うん」  ぎくりと肩が震えた。 ――なに!?告白されるとか!?  背筋を伸ばして、座り直す。原田は目を泳がせて、それから口を開く。 「緋菜子が好きなの」  空耳かと思った。牧島は原田が発したと思わなかった。 「だからあの人のこと追われるとイヤ」  続いた言葉に原田が言ったのだと気付いて。牧島はどう返事をしていいのか分からず、黙る。好きと一概に言っても様々な意味合いがあるだろう。 「別に女の私が付き合えるって思ってないけど、あの人はダメ、そんな気がする」 「好きって、その・・・だから・・・」  頭を掻いて言葉を選ぶ。 「多分恋愛感情なんだと思う。すごくいい子なんだ」  言葉を選ぶけれど、何と言っていいか、訊いていいのかも分からずに牧島は口を開くタイミングを逃したまま空を見上げた。 「って言っても、分からないか。分からないよね。私だって分からないもん」  日野にされたことが走馬灯のように脳裏を過る。男性が女性にすることばかりのように思えた。 ――日野さんってオレのこと女だと思ってるとか?  中性的な格好をしているつもりはない。声も高いわけではなく。顔立ちに合わないため剃ってしまう髭は薄いかもしれないが生えないわけではない。髪も平均的なよくある男性の長さで整えてある。 「キスできる?したいとか、思える?」  牧島自身で驚くほど低い声が出てしまい、やばい、と思うと同時に原田が戸惑った表情で牧島を見た。 「思わない・・・ただ緋菜子と一緒にいたい。他の人が緋菜子のこと深く知っちゃうの嫌って思う。独占欲だって、自分勝手だっていうのは分かってるけど・・・」  原田の言う片寄への好意と、日野が自身へ向けた感情は違うのか。牧島が頭を抱える。 ――もう終わったことだし、もう関わらなければいいんだし、もうどうでもよくない?  日野のことはもう考えるだけ無駄なのだと思っても、ふと浮かんではまた消えて、そしてその後すぐ浮かぶ。 「片寄さんが美人だから?オレだって日野さん・・・あの人のことすっげぇイケメンだと思うもん・・・」  唸るようだった。原田の片寄への好意も、日野が牧島に向けてるくる感情も素直に受け止めきれない。自身が原田へ向けているものを、原田も日野も持っているのか。 「私だって混乱してる。見た目がいいから、好きなのかな、って。だから全部許せちゃうし、何でもしてあげたいのかなって」  日野の顔が思い浮かぶ。思考を掠め取っていく甘いマスク。数度首を振った。 「勘違いだよ。原田さん、勘違い。顔がいいからすよ、多分。だって、おかしいもん、おかしい・・・」  原田の柔和な顔立ちが崩れていくことに気付いてしまうと、牧島の語尾は小さく消えていく。原田が牧島を拒否するように顔を逸らした。 ――とんでもない差別主義者じゃん、オレ  原田を横目で見て、どうしていいか分からずただ線の細い身体を凝視した。 「見た目がいい人と一緒に居られる自分が、すごく特別に思える、みたいなもんなんじゃないすかね」  現実味がなかったのはそのせいか。思うよりも口にすると、すんなりと自分の言葉だが、沁み込むように受け入れられる。牧島ではない何かをじっと見つめている原田は、片寄や日野と比べると身近な存在に思えたし、実際物理的にそうなのだ。そしてそのことに、牧島は拒否感がない。 「自信がないなら、オレと一緒に居てみてよ。それで、片寄さんに向けるものと違うって、感じてみてよ」  原田の反応は暫くなかった。何か不味かったかと反芻すれば、これって告白じゃん、と牧島は息を呑む。返事を待つけれど、原田は返事をするつもりがないのだろうか。原田の反応を暫く待つつもりで、牧島も原田から顔を逸らす。青い空が広がる視界の中で鳥が飛んでいる。楽しみもない視覚に退屈になった思考はいつの間にか日野との出来事に変わっていく。日野が気不味くなって、何も連絡をしてこないのだろうか。それとも双海に何か、言われたのだろうか。双海もまた連絡をしてくることがなかった。妙な余韻を残してこのまままた―― 「まっき~くん」  原田の声に思考が戻る。そういえば告白未満な告白をしていたのだったと牧島は思い出す。 「ありがとう、でも」  原田の言葉を遮って、牧島は「ごめん」と強く言ってしまう。 「何が?」  牧島が強い声音で謝って、それから原田が包み込むような優しい声で問い返す。 「オレに都合のいいことで言い包めようとしてたけど、オレが、忘れたいだけ・・・」  何を、と原田が問い返すことはなかった。 「ちょっと色々あって、頭の中チラついて、そんな気ないのに、オレ、違くて!」 「私で、忘れられるの?」  気付けば原田の刺すような目が牧島を向く。 「・・・分からない。でもきっと原田さんのこと、ずっと想っていれば、消えてくれると思うんだ」  とん、と肩に重量感を覚える。重くはないけれど、何かが乗った。原田が触れたのだろうか。体温を感じない。原田の手は華奢だけれど、人の手の重みではない。 「逃げてきちゃったのかな?」  原田は牧島の目の前にいる。両手を重ねるように組んで。首を曲げれば、視界の端にぼやけた黄色の物体が乗っている。菜の花のような黄色は忙しない。顔に固い物が触れ、すぐに離れていく。 「モトキ」  知っている声が耳に届く。声の主の方へ振り返っている間に原田が興味ありげに見ていた牧島の肩から顔を逸らして立ち上がる。慌てるように荷物を纏めて、牧島に何か言わせる隙もなく「じゃあ、またね」と顔だけを向けて去っていく。気を遣ったのだろうか。声の主だと分かった双海に構うことなく原田の背中を見つめていたが、「牧島くん」と呼ぶ澄んだ声に牧島は双海に身体を向ける。 「あ、どうもっす、ちわ」  数日ぶりに見たが特に変わった様子はない。牧島は軽い挨拶を交わして、居心地の悪そうに視線を彷徨わせる。日野には近付くなと言われた直後に日野に身体を弄られた。双海の言っていることは正しかった。破ろうと思って破ったものではなかったけれど、双海には話しづらい。 「メールも電話も出来なくて、ごめんね。すぐにでもしたかったんだけれど」  穏和な笑みを浮かべる双海に、やはり牧島は風に揺らめくレースカーテンのような透明感を感じた。白地に黒を基調とした模様が大きく入っているシャツだが双海の雰囲気のせいかお洒落すぎず堅苦しくなり過ぎず仕上がっている。牧島は無意識に肩に乗る鳥に触れながら「別にいいっすよ、気にしてないっす」と返すが、双海は少し困ったように笑った。 「少し気にしてほしいな」  双海は変わらず笑みを浮かべたまま、牧島にゆっくりと歩み寄ると肩に乗ったままの鳥に手を伸ばす。王子様、というには少し歳が上だが物腰も動作も落ち着いていて品がある。人工的ではあるが主張しすぎない洗剤の花の香りがむしろ素朴なもののように感じる。 「すんませんっした。でも双海さんに番号渡したすけど、オレは双海さんの番号知らないし・・・」 「ごめんね。そういう話じゃなかったんだ」 ――じゃあ何の話だったんだよ 「それより・・・邪魔しちゃったかな」  双海は原田が去っていった方を視線で指す。申し訳なさそうに語尾が小さく消えていく。告白にも満たない告白の返事を聞きそびれていたことを思い出す。双海にも聞こえていたのだろうか。 「いや・・・いいすよ。むしろ助かったかもしれないす」  断られる流れだったと牧島には察しがついた。受け入れられる理由はあるかもしれないが、自身の態度があまりにも曖昧だったと牧島は思った。双海は何のことだか分からないと言いたそうな表情で牧島を覗き込んだ。 「牧島くん、今日は授業は?」 「あと1コマあるすよ」  にこりと笑って双海は授業後に自宅に誘った。

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