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跡 濁されたまま 9 ※
押入れの戸の外の雑音が消えた。日野が去った気配に牧島は戸を開ける。這うように近付けば畳の上に双海が失神したように倒れていた。
「双海さん・・・?」
色欲に染まった穏やかそうな目元が、覗き込んだ牧島の目を捉えた。牧島は怯んだ。問おうとしたことが確信に変わる。双海と日野の関係は、ただの義兄弟ではなかった。
「大丈夫すか・・・?」
触れようと伸ばした手は双海が突然伸ばしてきた手に掴まれて。幼い頃に見た水中の生き物特集でみた捕食シーンのように思えた。
「双海さん?」
双海の腕が震えると、掴まれたままの牧島の伸ばしたままの手も震えだす。沈黙を取り繕う言葉はいくらでもある。けれどどれも浮かばない。浮かびはしたけれどすぐに消えていく。双海の指先越しに伝わる熱に淫靡な香りがして、牧島は尻餅をついてそのまま後退ってその手が放されることを望んだ。何も発さない双海の雰囲気はまだ日野との行為を引き摺ったままなのだ。
「双海さん・・・オレ・・・」
「牧島くん」
後退っていく牧島の背に壁が当たる。双海もまた這うように牧島を追う。牧島の顔の脇に双海の手が突き、浅く息を吐く双海の唇が触れるほど近くにまでやってくる。鳥籠の中の能天気な黄色もすでに視界から外れた。壁に背中が減り込むほど牧島は身を引いた。さきほどまでは牧島の手を握っていた手が双海の下半身を蠢く。
「ふ、たみ、さ・・・っ」
黙ったままの双海が目の前で欲情している。牧島の顔を覗き込んで、双海自身を慰めている。耳元で吐かれる喘ぎ声が耳朶を擽る。どうしていいのか分からず、双海の穏和な雰囲気が掻き消され、視界に靄がかかる。怖いと思った。この男を突き飛ばすことも考えが及ばず、得体の知れない恐怖に牧島は身体を半回転させると壁に爪を立てる。肩で双海から距離を取ろうとするけれど、双海はそれを許さない。衣擦れの音と双海の声が聴覚を支配している。
「怖い、す、怖いすよ、ふた、みさ」
「あっ、ああ、んんっ」
潤んだ瞳で真っ直ぐ両目を捉えられ、牧島は目を瞑る。瞼で切られた雫が零れた。知らない男みたいだ。双海の顔をした双海ではない人間に迫られている気分だった。
「もう、出ちゃうよ、牧島くん」
耳を塞ぎたいが半回転させた身体に密着する双海が邪魔で腕が動かない。名前を呼ばれて、双海の痴態を見せられ嬌声を聞かされる。気付けば呼吸が深くなって、息を吸った気にならならない。腹の底で吸った物が空ぶったような、息が漏れているような、そんな気がして必死に酸素を求める。
「あ、イッ・・・ああっ・・・ッ」
双海の肩が何度か連続して震えた。衣擦れの音も止んだ。牧島の呼吸の音が今度は響く。過呼吸だ。牧島は双海を押し退け、掌を口元に当てる。過呼吸の対処法をテレビで見たことがあった。けれど治まらない。
「ふ、たみさっ息がっ」
息が吸えない。頼る相手が、もう目の前の男しかいなかった。息が吸えない。苦しい。眉根に皺が寄って、牧島は掌を口に当てながら息をする。けれどどれも上手く呼吸したように感じられないのだ。
「ふ、たみさっ・・・っ」
口に当てられた掌を強い力で剥がされると、ハンカチを当てられる。双海の家に入った時に感じた、双海の匂いだ。
「ゆっくり吐いて」
双海が横から身体を覆う。落ち着いた声が降ってきた。言われた通り、牧島はゆっくり息を吐く。ハンカチを伝って顔が温まる。
「浅く呼吸できるかい?」
双海の指示に、程度が分からず牧島は頭を振った。「じゃあ」とまた落ち着いた双海の声。
「吸ったあと少し、息止めて」
何度か頷き牧島は息を吸って息を止める。双海が「吐いて」と言って、吐きだすと、また指示が出される。何度か繰り返していると、気分が落ち着いた。双海も、牧島の知っている双海に戻っている。双海を一瞥すると、困ったような顔をされる。
「ごめんね、牧島くん」
まだ衣服の乱れも直さないうちに謝られる。
「いえ・・・あの・・・」
「ごめん、手、洗ってくるね」
言葉を遮られ、双海は立ち上がって部屋を出ていく。そっか、色々イジった手だもんな、などと牧島は納得して、もといた場所へ座る。座布団も出しっ放しでオレンジジュースも荷物もあるのだから、隠れても意味などなかったが、目の前で日野と双海の行為を見なかっただけでもよかったのかもしれない。
「本当に、ごめんね」
双海はすぐに戻ってくる。
「あ・・・いえ・・・あの、その」
「漣くん、今日来ると思わなくて・・・まだ会社にいると思ったから」
双海の目は泳いだまま、牧島を見ようとしない。牧島は双海を何度か見るが、目を合わせる度に逸らされる。
「さっきは、ありがとうございました・・・過呼吸の対処法、自分でやってもなかなか出来ないもんすね」
それなりに誤魔化せただろうか。引き攣った笑みを浮かべながら、双海が気にしているだろう部分には触れずに話す。「でも、それはおれのせいだから」と牧島の努力は無に帰す。
ところで、と話を切り出す双海に牧島は姿勢を正す。
「緒深 ちゃんを知っているのかい?」
「なおみ?」
人名だろうか。聞いたことのない名前だ。誰かの略称なのだろうか、牧島は思い当たる名前を出すが、双海は曇った表情のまま首を振る。
「いや、知らないならいいんだ。くだらないことを訊いたね」
双海は牧島の顔を見ようとはせず、気不味そうに視線が泳ぐ。
「まぁ別にいいすけど・・・。それより・・・え~っと、大丈夫なんすか、日野さんと」
何が大丈夫で、何を大丈夫としているのか。牧島にも分からないまま、確信した日野と双海ただならない関係を問う。
「おれはもう、慣れているから。でも牧島くん、君を巻き込んでしまったことは本当に申し訳なく思う」
双海がやっと窺うように牧島を見た。身体が強張っている。
「慣れているからって・・・、慣れてるんすか」
氷が解けてすでに薄まったオレンジジュースを再び飲む。結露して、グラスがコースターを濡らしている。
「つい最近のことじゃない」
「もしかして、息子さんも知ってたんすか。見せてたみたいな口ぶりっしたね」
引き攣った笑みを浮かべて訊ねた牧島に双海の顔は青褪める。
「別に深く知る気はないすよ。興味もないすし」
「ごめんね、まさか漣くんが君にも執着してしまうなんて」
言い辛そうに謝る双海を一度だけ見遣る。
「でも・・・双海さんと日野さんに会う度にこういうコトされるのは正直、キツいす」
脳裏に蘇る、この部屋で日野にされたことはやはり勘違いや深読みではないようで。双海に病院で見せられた妙な産卵だとか、日野にカラオケボックスでキスされ身体を弄ばれたこと。それからまたここで日野と双海の痴情の縺れを見せられた。こういうことを望んだつもりではなかったはずだ。こういう形の関係を望んでいるわけではないはずだ。牧島なりに言葉を選んだつもりだったが、口にしてみると冷たさが勝る。
「牧島くっ・・・」
「すんません、双海さんと会う度、過呼吸になっても困るすから・・・今日はもう帰るす。オレンジジュースごちそうさまっした」
双海の人の好さそうな顔立ちや雰囲気、声音に絆 されそうになることを牧島は自覚していた。だから双海の言い分を聞く気にはなれなかった。一気に捲し立て、座布団に沈んでいた腰を上げる。一瞬で双海の焦りに染まった表情に胸に針が刺さったような気持ちになった。
牧島は荷物を持って玄関を出る。初めて見たときは感動していた豪華な庭園はどこか陰気臭いと思った。嘘臭いのだ。住人の性癖を隠しているみたいに、牧島には思った。玄関から駐車場に伸びる苔の生した石畳を歩く。荘厳な門を出れば駐車場があり、そこからやっと、牧島に馴染みのある外の世界へ繋がる。それまでは、双海と日野の偽りと虚勢の城のようで。温厚柔和で知的な印象を持ち実際温厚柔和で人懐こく優雅な双海と、眉目秀麗で美しい声を持った冷たさと傲慢ささえ得点となってしまう日野の関係。双海が玄関まで追ってきたのを背中で感じたが、牧島は振り返ることができなかった。
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