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跡 濁されたまま 10
数日前と同じ感覚だ。牧島は布団から起き上がって、時計を確認する。大学に行く支度をしながら見るニュースは数日前に見たものと引き続いているものもあれば、新しいものもある。長い夢を見ていたような気分だ。双海という男がいた。日野という男がいた。だが夢の話だ。もう交わらない人間に罪悪感を覚える必要はない。良心の痛みを気に留める必要はない。夢の中の人間だ。泡沫のように消えた。寝癖のついた髪を乱暴に掻き乱す。どうせまた会うことになる。意識的に2人を消そうとしても、どこかで消えきらない確信がある。日野の支配的な言動がそうさせるのか、双海の穏和な執着心がそうさせるのか。牧島は思考を振り切って大学に向かう。
講義が始まるまでの空き時間に自動販売機で買った缶ジュースを持って原田と昼食を摂ったお気に入りの場所に行けば、先客がいる。片寄 緋菜子と原田。2人で何か話している。女だということは分かったけれど原田と、その原田を混乱させている片寄 だとまでは近付くまで判別できず、分かった途端に牧島は咄嗟に隠れた。隠れられる場所など限られていたが、原田たちのいる場所からは死角になりそうな、建物にそのまま造られた背の高い花壇の縁のレンガへ座る。缶のプルタブを起こして、炭酸飲料の弾ける音がした。何も隠れることはなかったかもしれない。微かな炭酸の音が耳をすり抜けていく。ただいつものように軽く挨拶を交わせばいい。ぐいっと缶ジュースを煽る。蛍光黄色の缶から牧島の喉へ酸味と甘みの強い液体が流し込まれた。原田と片寄 の声は聞こえない。盗み聞きをするつもりもなかった。口内に広がる炭酸と人工的な甘味に集中する。脳裏にはまだ自身に迫ってくる双海や、双海を束縛する日野がこびりついている。原田は日野について知りたいというし、その理由は原田が好きかもしれないという片寄 のため。妙な相関図が想像の中で出来上がって、その真ん中に自分がいる、と牧島は気が付くと、溜息が漏れた。遠目から見ても片寄 はかわいい。だが原田の言う好きは、牧島が思う片寄 がかわいいと同じなのではないだろうか。日野が双海を抱いている空間が真横にあった。声が押入れの扉一枚を隔てて耳に入っていた。日野は牧島がいることを知っていた風な口ぶりで、それでも双海を抱くことをやめなかった。双海は牧島に迫って自慰に耽った。思考を振り払うように牧島は首を振る。考えるな、考えるなと思っているくせに、すぐに日野の傲慢な笑みと双海の影を落とす表情に気付けば掠め取られている。
――おかしいだろ、やっぱ
日野は誰とでも深いキスをするのだろうか。カラオケボックスで身体をまさぐられた。呼ばれた名前は牧島の名前と同じ響きで違う人へ向けている、そのような気がした。とすると日野が見ていたのは牧島であったけれど。
――双海さんの息子と・・・
辿り着くには躊躇いのある答えだった。
「まっき~くん」
頭の中で結論が出る直前で声が掛かる。原田の声だ。考えていたことがすっと抜けていく。
「あれ、おはよう。片寄 さんと一緒みたいだったけど」
「うん、次の授業別だから・・・」
原田の話を聞きながら踵から脳天までを舐め回すように見た。
「あれからどぉすか?」
原田はきょとんとして何の話か分からないという表情を一瞬してからすぐに察したらしい。
「特にどうってこともないよ。相変わらず」
「気持ちの整理はついたすか」
気遣って親身になっているつもりで、違う。自覚はあった。けれど確認したかっただけだ。否定が欲しい。原田からただ、「やっぱり違った」という言葉が欲しい。原田の答えが、牧島の答えになるような気がしていた。次に出る言葉で決まる、そう思ったのに原田はとぼけたような口調で「気持ちの整理って?」と訊き返してきた。
「片寄(かたより)さんと、どうなりたいのかって話」
ただひとこと、「やっぱり違った」それが欲しい。だが現実はそうもいかないらしい。原田は牧島の意にそぐわないことを言う。原田が口にするよりも雰囲気で理解した。
「気持ちの整理も何も、答えはもう・・・」
「やっぱりいいす。聞きたくないす。・・・変すよ」
片寄緋菜子を好きという。女の身で。義理とはいえ兄弟で身体を貪り合うあの兄弟も、男の身で。
「オレはアンタらとは違う。オレは・・・オレはアンタらみたいに・・・だっておかしいでしょうが・・・」
原田は困ったカオをして牧島を覗き込む。哀れまれている気がして牧島は原田を睨んだ。
「何の生産性があるんだよ」
「全ての恋愛に生産性が要るの?」
首を傾げて訊ねる原田の声は低い。
「行き着くところはそこだろ。ソレを求めてるんじゃないの」
「男女の恋愛にだって生産性があるとは限らなくない?」
怒気を孕んでの落ち着きなのか、牧島に哀れみを本当に抱いているのか。原田は相変わらず穏やかだが、どこか不穏でもある。
「でも普通は・・・」
「生産性がもし全体的に下がったら苦労はするかもね。でも生産性、生産性っていうなら別に誰だっていいよね。色んな段階とばして、牧島くんはその相手と結婚して、何を生産するかは分からないけど。それで牧島くんは幸せになるんだ」
言いたいことはそういうことではなかったはずだ。尤もらしいことを言ったつもりで、それが牧島の思っていることと違う。けれどそうして盾を作らなければ、自分が自分ではない異質のものに呑み込まれそうで。原田に伝えなければ。けれど何を。何をどこまで。どこまで話して大丈夫なのだろうか。原田の中の自分が変わる。原田の中の自分が変われば、自分の中の原田が変わってしまう。それをイヤだ、とすぐに思った。
「違うんす、そういうことが言いたいんじゃないんす」
「別に牧島くんの人生観とか価値観とか恋愛観とか、そういうのって勝手だと思う。私がいちいち口出すことじゃ、ないもんね」
口調は相変わらず穏やかで、綺麗な声をしている。原田に言いたいことはそういうことではない。それを言い出したけれど、全て裏目に出てしまうかもしれない、何をいまさら。牧島は黙ってしまう。
「私と緋菜子のことも変に映る?でも緋菜子は関係ないから。緋菜子はやっぱ、“フツーに”男の人、好きだから」
原田の言いたかったことを原田が自ら否定する。牧島の眉間に皺が寄る。気を遣っているのか、それとも嫌味なのか。緋菜子が好きという原田。義理とはいえ兄で同性を抱く日野。息子に執着し嫁の弟に抱かれる双海。関係のない他人。けれど彼等の妙な世界に引き込まれている。自分の価値観が分からなくなっていく。だのに原田は普通だと思わなかったことを普通を知っているかのように話して、それすらも否定する。
「やめてくれよ!」
底無しの汚泥のような思考に牧島は怒鳴った。裏切られた気分だ。淡い想いを寄せた原田に、一方的に理想を抱いた自分に、生きてきた中の経験も知識も覆し巻き込む年上の男たちに。
「どっちなんだよ、おかしいのか、おかしくないのか。はっきりしてくれよ、オレは・・・!」
日野の欲望に濡れた瞳を思い出す。双海が自ら揺らす腰を思い出す。巻き込まれた。そして純でいられなくなった。原田の口から出る否定が怖い。拒否が怖い。肯定が怖い。
「牧島くんが何か気にしてることなら・・・別におかしくないよ」
同情か気休めか。原田が他人を拒否するような言動をするとは思えない。牧島は目を瞑る。落ち着け、落ち着けとなんども言い聞かせる。双海に襲われた時のように、呼吸が乱れそうだ。原田に何を言ってもらいたかったのか、原田がどう言えば納得がいったのか分からない。
「緋菜子のこと好きじゃない。私はやっぱ明るくて頼もしくて、背が高くて頭も良くて顔も整った気の利いたお金持ちの男の人が好き」
背後に立つ原田を振り返る。空を見上げている。今日は晴れだ。太陽を避けるように腕で目元を覆って。珍しくもない、建前もない、よく聞く女の怖いフレーズ。
「それが、フツーっす」
肩から力が抜けて、弁解する気も失った。原田が譲ったから。
「まっき~くん」
原田の顔を見られず、原田に背を向けたまま手を上げてひらひらと振る。
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