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跡 濁されたまま 11

「双海さん」  古い喫茶店で原田と向かい合うように双海が座る。時折眉間に深く皺が刻まれたり、身体を震わせて話が上の空になっている。調子が悪いのなら断ればよかったのだ。 「大丈夫ですか?体調優れませんか?」  問えば双海は目を見開いて首を振る。潤んだ双眸を向けられ、熱があるようにも思えた。原田の指定した喫茶店は地下にあり、地元に根付いた、閉鎖的にも思える客層だ。暗い雰囲気でダウンライトだけ点いている。 「牧島くんのことなんです。知って・・・ますよね・・・?以前一緒にいらっしゃいましたもんね?」  責めるような口調になってしまう。そして声音までも。双海はすぐに真剣な表情へと変わる。注意力散漫なのかすぐに意識が違うところへ向いているのを何度も目にしているため、いつまで続くのか、半ばまともに話し合うことは諦めている。 「牧島くんが、どうかした、のかい」  短く息を漏らしたり、咳か何かを堪えるように息を詰まらせて双海は答える。話を聞く気はあるようだ。 「やはり知り合いでしたか。どうかしたのかっていうよりかは・・・何かなさいました?・・・双海さんに限らず・・・」  言葉を選ぶが言い淀む。口にしたくないことは、察してもらうしかない。それが分からないのか否か、返答はすぐに来ない。俯き気味に双海の身体が小刻みに震えて、噛みしめられた唇から吐息が聞こえる。原田は黙って見つめていた。 「本当に大丈夫ですか?日を改めます?ムリに来て下さらなくても・・・」  双海はまた首を横に振る。体調不良であることは否定する。それならこの様は何なのか。金魚鉢のようなグラスに注がれたローズヒップティーを飲みながら双海の挙動を見つめ続ける。 「大丈夫、ごめんね、病み上がりで」  取り繕うような笑み。その顔をいつも誰に見せているのか、見せざるを得ないのか、連想された者への嫌悪感を赤い液体で嚥下する。 「それで、牧島くんの、ことだけど」 「はい」  話し出したはいいものの、間を置くことなく再び双海のさりげない奇行と呼べるのかも分からない奇行がはじまり原田はグラスの氷をストローで掻き回す。 「実のところは双海さんの返答はどうでもいいんです」  双海が頭痛か寒気か、何か内的葛藤から耐えるように身を縮こまらせながら原田を上目使いで見た。視線が合った瞬間に逸らされて、原田は双海を見つめたが双海は原田の目を見ようとはしなかった。双海が何を考えているのか分かってしまい、そしておそらく原田が何を言いたいのか双海も分かってしまったのだろう。うんざりした。非言語コミュニケーションを取れるほど慣れ親しんだ相手ではない。それほどに好感を抱いた相手でも。 「牧島くんの何なんですか、とは言えませんよ、私も。ただの大学の同期ですから。だから訊きたいんです、あまり根掘り葉掘り訊くつもりはないですけど」  材木をそのまま使ったテーブルの木目をなぞる。ワックスと照明で反射して網膜に焼きつく。対して双海はテーブルに爪を立てている。爪の白くなった部分が少し長い。 「牧島くんに何か・・・しました?双海さんに限らず・・・何か知ってます?」 「どう、して」  テーブルに立てられた爪が白くなる。喫茶店のテーブルだ。傷がついたらどうするのだろう。すでに傷だらけではあるけれど。 「変なこと言い出したものですから。それにこの前、明らかに怪しい人と一緒にいました。双海さんもよく知っているといいますか。むしろ知りすぎている人と」  言葉を選ぶ。双海と会うのも決心が必要だった。 「変、な・・・こと?」 「人間って妙に不思議ですよね。芸能人や才能に溢れたすごい人と近い関係にあると、特に平々凡々とした自分もある種すごい人だと思うらしいです。・・・その逆は?って話でして」  回りくどい説明を双海はどう受け取っただろう。双海からすぐに返事がないのはすでに慣れたが、無言を貫かれ原田にも説明を改める必要性が浮かぶ。あまりはっきりと言いたくはなかったのだ。 「その逆・・・」 「牧島くんが何をされたのか、別に言及するつもりはありませんよ。ただ・・・深く思い悩んでいる様子でしたから。何か頼まれたとかじゃないんです。私が個人的に。腹が立っているだけで」  誰かの携帯電話が鳴っている。音はしないけれど、振動がする。すみません、と言って原田が自身の携帯電話を確認するが原田のではなかった。双海に確認を促せば、双海は真っ赤な顔をして俯いてしまう。 「似ているんですよね。分かります。何があったか知りませんけど。名前も同じですし。私も驚いています」  双海がこくりこくりと何度も頷く。身体をうねらせて、まるでのたうちまわるように。 「・・・呼びましょうか?番号知りませんけど、知ってます?」  確認したままテーブルの上に置いた携帯電話に手を伸ばす。携帯電話に触れた手の上から双海が手を重ねる。制止のつもりだったようだ。生温かい湿った手が原田の手の甲に重なったまま、引っ込める気もないようで、双海を見遣れば頭を振る。 「双海さん」  呼べばすぐに手を引いた。原田の手の甲にまだ感触が残っている。 「いい、呼ばないで・・・お願い・・・」 「軽率でした。どういう人だか知っていて、それで貴方を呼び出してしまって・・・でもすみません、貴方たちのことはどうでもよくて・・・貴方がどうなろうが・・・ただ牧島くんのことはどうか」  原田は立ち上がり伝票を取る。双海が僅かに遅れて手を伸ばすが及ばなかった。腹部を抱え込むように座り込み、耐えている。腹痛なのだろうか。振り返ろうとするが、原田は首を少し回したところで向き直る。 「すみません、あの人、まだ居ると思いますけど」  原田は会計を済ませるが、まだ動こうとしない双海に溜息を吐いて、タクシーを呼んだ。    誰もいないと思っていた双海宅には日野がいる。青い車が駐車スペースに停まっているのを見て原田はここで、とタクシーの運転手に言った。料金表に出された額を双海より先に払って、タクシーから降りた。 「ここまでしか、すみません。1人で帰れます、よね?」  双海は何度も頷く。様子がおかしい双海に肩を貸しながらタクシーから降りるのを手伝った。降りる前にスラックスからそのまま万札を原田に差し出すが原田は拒否した。 「牧島くんのこと、そういうことで頼みます」  タクシーが去っていく。双海の家は目と鼻の先。荘厳な囲いのおかげでまだ双海と居られるが、駐車スペースから見える深い青の車が牽制している。 「お・・・」  原田は双海が何か言いかけるのを無視して歩いて行ってしまった。追いかけることも出来なかった。原田を避けさせる青い車を目指して双海は歩く。日野が来ているとは思わなかった。体内で暴れる無機物に意識をとられよろよろと玄関へ歩く。整えてある日野の靴。玄関へ上がろうとして眩暈がし、靴箱に身体を預ける。物音に日野が玄関までやって来た。 「どこ行ってた?」  声が低い。怒っているのだろうか。表情が無いが、それはいつものことだ。機嫌の悪さは窺える。 「ちょっと用があって」 「だからそれが何かって訊いてる」  運転免許証を没収され、通帳も印鑑も奪い取られ、1人で遠くへ行かないようにと管理されている。携帯電話も壊されている。 「・・・言えない用事?」  肩を震わせながら身体を靴箱に預けたままの双海に気を遣うこともなく高圧的に日野は双海へ迫る。 「女のニオイがするな?」  わざとらしく匂いを嗅ぐそぶりで問う。 「・・・違うから・・・取って・・・」 「嘘吐くなよ」  笑いながら日野は双海の着ているシャツの胸ポケットに挿してあるボールペンを取り出した。日野の姉の、悪趣味なブランド趣味から派生したボールペン。双海に許される数少ない物。 「嘘だったら何してくれんの」  日野の長い指が細身のボールペンに絡み付く。捻ったりして、解体している。抗議する気も起きず、ただ双海は解体されていくボールペンを見つめる。想像上の一般化された宇宙人が喋っているような高い声が聞こえ、それが落ち着いた。 『本当に大丈夫ですか?日を改めます?ムリに来て下さらなくても・・・』  再生される女の声。双海よりも大きく日野が目を瞠る。何故よく見知っているボールペンが喋るのか。人語を話す機能などなかったはずだ。その疑問が真っ先に浮かんで、すぐに改造されていたのだと双海は理解した。姉の形見だからと持たせていたボールペンは善意などではなかったということ。ただの監視の役目のひとつに利用されていたに過ぎなかった。 「・・・義兄さん、嘘吐いたんだ?」 「っ・・・漣くんだって・・・それ・・・盗聴器だったんだ・・・?」  善意に騙されていた。日野の姉、自身の妻を使って。体内で不規則に振動する異物の存在も忘れた。酷い、ただその言葉だけを日野に投げつけたくなって、けれどそれを身体が赦さない。冷たい眼差しを向けられ、大きな音がする。土塗りの壁、双海の耳元すれすれを日野の拳が通り抜けていく。 「まさか本当に女と会ってたんだ?俺に黙って?どういうつもりで?」  土塗りの壁は目が粗くざらざらとしているせいで痛い。それを日野は力一杯殴った。痛みを感じさせはしないが怒りだけははっきりと露わにしている。 「誰だよ。どこの誰だ。言え」  拒否権はない。もう片方の手が乱暴に双海の顎を掴む。機嫌を取るのが賢明だ。身体を蠢く物体が存在を主張する。けれど意思は違うところにある。双海は目を目の前に迫る日野から目を逸らす。 「女抱けるか心配にでもなった?安心しろよ、別に義兄さんはもう女なんて抱かなくていいんだから。それとも姉さんを裏切る?」  双海の両肩を掴んだ。容赦のない力加減。慣れることのない束縛生活。従順になることが最も楽な道だとは何度も思ったけれど。 「殺してやろうか?姉さんを裏切るくらいなら」 「漣、くん・・・」 「姉さんを裏切るの?どこの女?義兄さんを誑かして喜んでるのは」 「(なぎさ)を盾にするの、もうやめてくれない、か」  ばちん、と双海の顔に平手が飛ぶ。性的暴力は何度も振るわれたが、こういう暴力は初めてだった。 「なんで?俺の家族奪っておいて?もう俺には義兄さんしかいないのに?」 「それはっ・・・!」 「姉さん以外の女抱けるとか思ってるの?姉さんがいるのに?もときがいて、俺がいるのに?俺のこと1人にして楽しい?」  被害者のフリをするのが上手い。(はた)かれた頬が熱を持ち始めた。すでに火照っている身体には別の疼きとして認識されている。 「殺してやるよ、その女。輪姦して孕ませて売り飛ばしてやる。バラして海に沈めてやる」  タクシーの中で、原田がしきりに身を案じていたのを双海は思い出す。双海の身を。自分のためなら何でもする人です、と言っていた。双海がまだ知らない日野を原田はそう言った。 「彼女は・・・関係ないっ・・・!」 「何なんだ?その女にそんなに入れ込んでるのか?いつからだ?いつもならひんひん鳴いて縋って許し乞うよな?」  日野はまた盗聴器と化したボールペンを弄る。 『本当に、何かあるようなら、逃げた方がいいと思います。余計なお世話かもしれないですけど、何かあってからだったら、気分悪いですから』 『生まれたばかりの弟も殺すような人ですから、自分のためならなんでもする人です』 『周りから囲って、洗脳状態になってるんだと思うんです、冷静になってくださいね』  タクシー内の会話もしっかりと盗み聞かれている。日野の眉が動く。不味い、そう思った。意外にも日野は落ち着いた面持ちで双海を見た。 「緒深(おみ)か」  日野は息を吐いて天井を仰ぐ。 「緒深ちゃんに・・・何すっ・・・」 「逃亡の手助けでもしてもらうつもりだったのか」  突然切り替わって冷静になる日野に戸惑う。けれど言うなら今しかない。 「もう、解放してくれ。もういいだろう、もう彼もおれも・・・解放してくれ」  静かに日野は双海の胸倉を掴む。首ごと締め上げるようだった。そのまま殺されるかもしれない。双海は首の据わらない赤子のように襟に頭を預けてしまう。 「緒深に毒されたな」 「彼女のことも、どうして」  家族がいないと、1人にするのかと嘆いていたくせに、自らあっさり捨てているではないか、日野は。 「彼女?緒深か?どうしてってどういうことだ?俺が緒深に何かしたか?何もしなかった、それだけだろう」  姉さんを奪っておいて、と何度も口にする。口癖だ。そうでしか縛っておけないのか。双海は目を瞑る。(なぎさ)と日野は大きくなってから姉弟になった。仲は悪くはなかったが、良くなる前に二人の間に入ってしまった。姉を奪われた、というのは強ち嘘ではない。けれどおそらく本音でもない。 「惑わされるな。弟は殺したんじゃない、死んだんだ」 「歩くのもやっとな子どもが熱湯の風呂に落ちてかい?」 「不運な事故だった」  携帯電話のバイブレーションのような振動が響く。大きくはない。双海の身体の中に入っている。 「(なぎさ)を死なせてしまったことは悪かったと思ってる。一生償っても償いきれない」  胸倉を掴む日野の手を力なく双海は握る。 「弟を失くして、妹を捨てて、姉と甥を見殺しにされて・・・でもおれには君を―」 「俺の意思で捨てたんじゃない。姉貴だって自分で死んだんだろうが。俺には義兄(にい)さんがいてくれれば、それで・・・!」  玄関の引き戸の擦り硝子一面の光りをじっと見つめた。日野の顔を見ていられない。塗り固められた義弟はしっかりしているけれど脆い。 「それが君の本音なの?おれが傍にいればそれでいい?おれが傍にいたのに、どうして彼に手を出したの。どうしてもときのことまで構ったの」  双海も思い出せなかった記憶が蘇る。(なぎさ)の不審な目。息子と血の繋がらない弟へ向けた妙な意味を含んだ目。訝しんださりげない問い。そのようなこともあった。擦り硝子越しの真っ白い視界がスクリーンのように脳裏で再生される。どうして忘れていたのだろう。何故思い出さなかったのだろう。拒否していたのだろうか。二度と取り出すことのないようにしまっておいたのだろうか。 「手に入れたいんじゃないのかい。君は。おれは手に入れたい。手に入れたかったよ、彼を」  ピィピィと黄色の鳥が鳴く。玄関を上がってすぐの和室にある鳥籠はここからは見えないのだ。

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