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雨上がりのパチョリ 1

ふたなり美少女攻め/温厚陰湿攻め/攻め喘ぎショタ/搾乳/赤ちゃんプレイ  円窓に小石が当たったら合図だった。戯名が霧江、姓をナカソネ、花号を赤紅、屋号は大塚という真紅の金襴を着流しにしている女は円窓の格子を開けた。街明かりとネオンに照らされた中を行列が突き進んでいく。世は国政改革に揺れ動いていたがナカソネには関係のないことだった。しかし彼女の勤める青 孔雀堂・歌舞人(かぶと)儚世(あわせ)は要人たちの会合の場として提供されている。この孔雀堂は色里の中でも主に男性従業員が客に奉仕をする店の中でも特に客を抱く側としての営業形態で、同じく男性従業員だが客に抱かれる側として奉仕する鬼蜘蛛堂や女性従業員が客に奉仕をする鳳蝶(アゲハ)堂と対を成していた。  ナカソネは行進する人々の中を探した。目的の人物は見当たらない。ナカソネが従業員としてではなく一個人として淡い想いを寄せる中年男の姿がどこにもない。円窓に小石が当たったのは気のせいか。いつもなら、彼女が窓から顔を出せば白い歯を見せ陽気に手を振っていた。今日はそれがない。この地は動乱の只中(ただなか)にある。不安が膨れた。店を飛び出した。ピンク街の中でも孔雀堂は珍しく、中でも歌舞人(かぶと)儚世(あわせ)はさらに一歩人目を引いた。ナカソネは最高級の戯郎(ぎろう)夫魁(おいらん)よりひとつ格下の地位で、その豪奢な身形だけでなく唯一の女という点でも噂になっていた。入ってくる客たちは大枚をはたき、機嫌を取り、社会的な地位を得ねば姿を見ることもできないナカソネが、戯名の霧江からとり「霧ノ二文字(ふたもじ)」と呼ばれる彼女が現れ瞠目した。彼女は店の前に出て、軍事的示威活動(デモンストレーション)を見ていた。大通りを、砂糖を見つけた蟻の如く揃いの制服が占領している。 「何をしているんだい?」  肩に手が置かれる。霧ノ二文字である彼女にそうできる人物は限られていた。天晴高皇の要人か、雅族政府の要人、とにかく官軍か()しくはこの店の最高位にある菊ノ一文字(いちもんじ)とオーナーだけだ。ナカソネは振り返る。長く黒い髪を緩く後ろに束ね、冷淡な印象のある美しい顔を持った男が立っている。オーナーだった。彼は最高位の菊ノ一文字よりもさらに上の特別格にいる。雪ノ(れん)と呼ばれているが、雪臣キサラギ・白百合大久保といった。ナカソネは目を伏せて押し黙る。疑似恋愛を商売にしている以上、従業員の実際的な恋愛は建前では禁止になっている。たとえ相手が客でなくてもだった。 「きちんと立場を分かりなさい」  手を引かれ店の中に戻される。この後何が起きるのか、ナカソネは人生の半分よりも多くこの男といるためよく分かっている。キサラギのホワイトシャツの下には乳留めのストラップが透けていた。今日はオレンジだ。彼に乳房はないが、シャツを押し上げるほど勃つ乳頭を隠している。小さく2点を隠すだけの最低限の乳留めだったが(わざ)わざ派手な色を選び、ウエストコートを着用するでもなく、前のボタンも胸元まで開けていた。それだけでなくキサラギには従業員を私室に呼び入れてカウンセリングをする悪癖があった。ナカソネも例によってコンピューターが光っているだけの暗い私室に連れ込まれた。キサラギはソファーに座り、クッションを手繰り寄せると自身の膝を叩く。ナカソネは渋い顔をしたがそこに寝た。すると彼はシャツのボタンを外しぷつりとサテンの下着を押し上げている乳頭を出した。ナカソネは枕によってそこに近付く。 「さぁ、吸うんだ」  これが歌舞人ノ儚世オーナー、雪臣キサラギの趣味だった。白く濡れている乳頭をナカソネは吸った。すでに凝り、膨れた実を舌先で転がす。口の中に牛乳とも山羊乳とも違う味が広がった。もう片方も指の腹で搾る。びゅっ、と乳が飛ぶ。 「あっ……」  キサラギは身悶えた。母乳を出しておきながら健康には問題がないらしかった。 「いけないよ、ママにそんなことをしたら…」  構わずナカソネは舌先を尖らせ、乳を出すところを乳暈(にゅううん)に押し込む。 「お霧、それはお乳を飲む舌遣いじゃないよ……ぁ、ぁあ…」  オーナーは前にのめり、ナカソネはさらに胸を押し付けられる。手に多量の乳汁が滴り落ちる。口腔にも嚥下が間に合わないほど流れてくる。 「ママ、そんなふうにお乳飲まれたら、イってしまうよ……ぁ、」  凝り固まっている実粒を甘く噛むとオーナーはびくりと大きく身を震わせる。ナカソネはさらに追い詰める。仕事上、他の乳首を舐めることも多かった。特にキサラギはここを性感帯にしていた。歯を立ててから慰めるように焦らすと彼はすぐに達してしまうことも知っている。 「だめ……僕の赤ちゃん……っぁッ、ママ、もうイっちゃう…!お乳だめ…!」  その瞬間に吸うとオーナーは腰を震わせた。ナカソネの後頭部のクッションも揺れた。彼女は口元を拭う。乳の後味は苦手だった。折檻や罵倒はないが十分にお仕置きの(てい)をなしている。胸の刺激だけで絶頂したオーナーは呆然としていた。息遣いが治まるのを待つ。 「お霧……最近、誰かと逢引をしているようだね?」  キサラギは乳留めを直し、シャツのボタンを閉めながら問うた。ナカソネは否定した。 「ママに隠し事をしたら許さないよ。ほら、抱っこしてあげるから」  彼は両手を広げる。ナカソネは顔ごと逸らした。 「ママはお霧を応援しているんだから。お霧が本当に好きな人が居るのなら、いいんだよ」  ナカソネは口を開こうとして、留まった。喋るのは得意ではなかった。そしてまだ確たるものではなかった。頻りに逢いに来ては窓から視線を交わし、笑みと身振り手振りをくれる。それだけの相手で、特に言葉はなく相手のことは何も知らない。 ◇  改革の中でまた人死があった。ナカソネは勤務時とは打って変わった地味な装いで雨の中、野次馬に混ざった。その先に歌舞人ノ儚世があるからだった。人が通れそうな様子はなく、雨水によって広がった血の海は人垣の間からも見えた。やむなく回り道をして店へと入る。今日は客があまり入らないかも知れないと廓チーフは話していた。着替えさせられているうちに菊ノ一文字(いちもんじ)こと菊花(きっか)ニノマエ・山吹田端が出勤する。彼は金髪の美男子で性格を表すような温和な垂れ目が特徴的だった。本名は菊理(くくり)という。ナカソネとは義胞(きょうだい)の契りを交わしているため本名や花号で呼び合える仲だった。連の字、つまりキサラギを除く一文字と二文字の2人だけが使える更衣室は煌びやかで、様々な贈物が飾られていた。ナカソネの座っている椅子も採寸と人間工学により(こしら)えた特注の品で、資産家の客の贈物だった。 「ねぇ、(あられ)くん」  霰はナカソネの本名だった。ナカソネは義兄をみた。彼は横に並び、側近見習いたちに化粧を施されていく。 「店の前の騒ぎは見たかい?」  ナカソネは頷いた。彼は眉を下げた。 「その……残念だったね。合間を縫って査問所に行ってやるといい………私からもひとつ手向(たむけ)を贈るよ…」  意味が分からずナカソネは義兄を鏡越しに見つめる。訳を訊く。確かに店の前は血で汚れていた。人死があった。 「どなたか、亡くなったのですか」  ナカソネは声を震わせて訊ねた。鏡越しに垂れ目と視線が合った。 「君の名が入った包みが男の遺骸と運ばれていったよ。他のことは分からないけれど…」  受け入れがたい勘のようなものが働いた。推理だの理屈だので導かれたものではない漠然とした理解が針の穴に糸が通った瞬間のようにナカソネの中に入ってくる。それと向き合わなかった。控えの間に入り、客を待つ。やがてオーナーに呼ばれ、査問所の役人が遺骸の確認をするように言った。オーナー・キサラギは気遣わしげにナカソネを見て、背中を押した。絢爛な衣服や華美な簪を放り、誰も彼女を歌舞人ノ儚世の戯郎と思うべくもない装いで査問所に向かった。雨は上がっていた。胸の中で何かが膨らんでいく。 ◇  ナカソネは控えの間で円窓に向けてシャボン玉を吹いていた。間もなく客が来る。一見(いちげん)ではあるが、その連れが菊ノ一文字の松客、歌舞人ノ儚世でいうと一番の貢ぎ頭であるため別格の待遇をした。客は半ば放り込まれるように入ってきた。(つまず)き、目の前で手を着く。制服染みたスーツの若い男だった。ナカソネは一瞥し、またシャボン玉を吹く。円窓から様々に色を変え逃げていく。客は徐ろに顔を上げた。ナカソネもその動きに合わせ、互いに顔を見る。色素の薄い短髪に細い(ふち)の眼鏡を掛けている。長い睫毛が見えた。顔を上げ切ると猫を思わせるような目がわずかばかり離れて付いていた。それでも通った鼻梁や薄い唇、神経質げな眉の形は整い、見るものによっては誘うような色気を醸していた。男はばつが悪そうな表情を浮かべ、部屋の隅に姿勢を正して座った。最後のシャボン玉が消え、ナカソネは円窓を閉めた。衣装を正し、客と向かい合う。手振りで(しとね)に促した。彼は黙り、少し顔を赤くした。布団に移る様子はない。 「いい…!ここで時間だけ潰させていただきたい」  両膝を握る指をみてナカソネはまた窓辺に腰掛けた。そして2台用意した高坏(たかつき)に半紙を敷き、雪花菜(おから)クッキーを3枚ずつ置く。客に差し出した。彼は訝しむような睨んだ眼差しをくれる。ナカソネは優雅な手付きでクッキーを食らった。遺骸が持っていた包みの中に入っていたものだった。査問所に運ばれていたのはナカソネの知り合いで間違いなく、謙介オダという名もこの時に初めて知った。客を前にしながらクッキーの味に感情が傾きかける。静かに時間が過ぎ、ゆっくり食べていた雪花菜クッキーの3枚目の最後の一口も口内に収まった。客は部屋の隅で膝を握って固まっている。隣の部屋から聞こえてくる上役のひぃひぃ鳴く声に顔を真っ赤にしていた。ナカソネは鈴で羅列(られつ)見習(みならい)を呼んだ。10代前半で構成された羅列ノ位の中でも、(ふみ)ノ位に昇進する見込みのある者が選ばれる。文ノ位のさらに上がナカソネのいる二文字ノ位だった。ナカソネについている羅列ノ見習は14歳の小柄な色白の少年で美雨也(みゅうや)オオトモといった。雨ノ羅列と称され主な客層はこの店には珍しく中年の女性だった。ナカソネは彼に頼み茶を持って来させ、クッキーの消えた半紙の上に五穀宝(ごかぼう)を乗せた。きな粉が散らばる。客の高坏にも乗せた。茶と共に菓子を食い、隣の嬌声が止むのを待った。男は茶も飲まず、相変わらずの姿勢で固まっていた。沈黙は嫌いではなかったが、この客との静寂は痛々しかった。今日の夜は特に何かしらをしていなければ、敏感な部分を剥き出しにしているような心地になる。 「食べてくださいまし。健康に問題がございませんなら」  ナカソネはまた雪花菜クッキーをきな粉の付いた半紙の上に出した。防音設備は整っていても消音するまではゆかず、隣からは高い声が聞こえてきた。クッキーがそれを紛らわせる。彼は返事もせずに畳の目ばかりを見ていた。やがて隣の声が治まり、襖が軽く叩かれた。見習のオオトモが可愛らしい顔をして開ける。客の若い男は逃げ帰るようにナカソネを振り返りもせずに出て行った。残されたナカソネはオオトモに高坏の菓子を食うか訊ねた。世間の14歳とは違う純真無垢な目が輝いた。彼は水軍の制服を模した丈の短いスカートと脛を覆う程度の靴下で膝を晒し、窄まった袖は手首を隠していた。左右の高い位置で括った髪はさらに都心部の女学生のようだった。ここもそれなりに都心部ではあったが政府による色里の扱いなど高が知れていた。そのうちこの改革次第で天晴高皇が実権を握ればさらにこの色里は圧迫されるのだろう。法の穴を抜け、横や縦と密接に繋がり掻い潜ってきたのだとオーナー・キサラギも時折話していた。 「美味しいです、美味しいです、霧ノ二文字の方様!」  彼は雪花菜クッキーを食らった。それが何なのかも知らないで稚児のように食べかすを落とした。ナカソネはまた窓を開けてシャボン玉を吹く。 「霧ノ二文字の方様、あの……夕暮れは、どちらに……?」  ナカソネは彼の大きく澄んだ目を見た。霧ノ二文字の不在に焦ったことだろう。 「授乳の仕置きに遭った?」 「………はい」  オーナーは若い子にめっぽう弱かった。乳頭を疼かせると非番の少年を連れ込んでは乳を飲ませていた。いわばナカソネとオオトモは乳兄弟ともいえる。彼女はシャボン玉を吹き、夜空に飛んでいく様を飽きもせず眺める。そのうち客に何もせず帰らせたと、建前上の罰が降る。その場合もやはりキサラギの熟れた乳頭を咥えさせられるのだった。この店は飲食の提供もあったが牛乳や乳製品は消え、食べ物のほうにはオーナーの乳が使われているなどという噂までたち、厨房の者たちも否定はしなかった。 「食べ終わったら1人にしておくれ」  弟分のような少年は五穀宝に歯を立てた。きな粉が舞い落ちる。彼は焦るように口に菓子を入れ、半紙の両端を摘んだが派手に転び、畳にクッキーのかすやきな粉が飛び散った。ナカソネは軽く溜息を吐いて顔を背けた。手で追い払う仕草をするとオオトモは躊躇いながらも謝り、菓子の礼を言って退室した。シャボン玉を吹き、表の通りを見下ろした。最期になって名を知った中年の男は()者で、貯めた金で会いに来ようとしていた旨の手紙が雪花菜クッキーと共に添えてあった。客からの食品の贈物は既製品手作り問わず食べないつもりでいたが、あの遺骸の抱えていた雪花菜クッキーは無性に食べたくて仕方がなかった。まだ何枚か残っている。シャボン玉を吹きながらもうひとつ食べようか、やめようか迷っていた。ノックもなく襖が開き、オーナーが踏み込んでくる。授乳仕置きの時間だった。だが彼は複雑そうで、授乳をしたがる様子はなかった。キサラギが腰を下ろすと、ナカソネはシャボン玉のストローをしまった。 「休暇をとってもいいんだよ」 「勃たなくなったわけではありません」  彼女は目を逸らす。オーナーは神妙な顔をしていた。 「葬儀、出してあげることにしたんだって?」 「…財産洗浄です。身寄りがないとのことでしたから」 「おいで」  普段の乳が張り情欲に蕩ける顔とは違うくせ、キサラギはその時と同じ呼び方をして腕を広げた。ナカソネは厄介げに腰を上げオーナーの腕の中に入る。 「いい子」  彼もまたこの天晴高皇と雅族政府のどちらが実権を握るか争う中で夫子を失っている。かなり早い段階だった。ナカソネもよく世話になったものだった。それでもその原因を作った要人たちに場所を提供しようなどという。死ぬのはほとんど動乱には関係のない者たちだった。 「さぁ、いっぱいお乳を飲んで、大きくなるんだよ」  キサラギはシャツを開き、乳留めをずらした。ナカソネはまだ勃起していない乳首を口に含んだ。綺麗に整えられた彼女の髪をオーナーの手が梳いた。あの何もしない菓子も食わない喋らない客で最後だった。仕事終わりに上役に付き添われたかと思えば、長いこと正座をしていなければならないというのだからナカソネは舌でオーナーの乳暈を刺激しながら内心同情した。 「ぁ……出るよ。お乳、出そう…」  ナカソネは口を開けた。オーナーは自ら乳頭を抓り、彼女の口腔に乳汁を繁吹(しぶ)かせる。白い指先や短く切られた爪にも滴っている。 「ぁん……ママ、お乳出てる………ママのお乳、美味しい?」  頭を持ち上げられ、彼はナカソネの口を胸に押し付ける。髪を撫でながら歪んだ微笑みを向けている。同士を見つけた、孤独から解放された悦びの目だった。頭の下で腰が揺れている。左右の膝を擦り合わせている。 「お霧にはママがいるからね…」  排乳の勢いが増し、嚥下が間に合わなかった。舌先で乳の噴出口を塞ぐ。芯を感じた。 「あ、ん……悪戯しちゃダメ。ちゃんとお乳飲んで……ぁっ」  反対の胸をシャツの上から触った。凝っている。 「シャツが濡れちゃう……」  珍しいことではなかった。乳留めごと濡らしていることがある。オーナーは客により散々に着せ替えられた可憐な少年従業員を見るとすぐに派手な乳留めをシャツの下に透けさせていた。 「あ、っあ!シャツが濡れちゃうよ、ぁあ……シャツが濡れちゃう、お霧……っぁん」  繊維の上から萌芽(ほうが)を掻く。オーナーの下半身が激しく上下に震えた。ナカソネの指先はすでに湿(しと)りを感じていた。 「こすこす、(やー)なの!ママ、(やー)なの……っ!」  ナカソネは口の端から白い液体を零しながらさらに指を速めた。一度大きく突き上げられる。乳が爆ぜた。反射が白濁流を飲む。遅れて味がやってきた。胸に押し付ける腕が緩む。 「お父さんミルク出ちゃった……」  掠れ気味の甘えた声でオーナーは虚空をぼんやり見ていた。ナカソネはまだ残っている茶で乳の味を流す。 「お霧も、お父さんミルク出したい?舐めてあげる」  彼女は首を振った。勃つ兆しもない。キサラギがナカソネに劣情を催しても、彼女はこの保護者同然だったオーナーに欲情できるはずがなかった。断って、まだ帰宅の準備に取り掛かるでもなく円窓の傍にいた。キサラギもまだ留まっている。襖がノックされ菊ノ一文字が返事も待たずに入ってくる。 「帰らないのかい、霰…オーナーもいらしていたんですか」  垂れ目が順に室内を見た。麗かな金髪と瀟酒(しょうしゃ)で豪奢な深い青の緞子(どんす)ローブが優雅だった。 「立てなくなってしまって…」  キサラギが呟くように言った。 「またおやりになられたのですね。そろそろ自重してくださいませ……霰」  彼女は呼ばれると共に冷めた茶を一口飲んだ。柔和な眼差しは困惑を滲ませている。ナカソネは目を伏せた。 「今夜はここに泊まらせてくださいな。今夜だけ」  所詮は淡い想いだった。確かなものではない。それでもここから去る気が起きなかった。 「義妹がそう申しております。オーナー、私からもお願いできませんでしょうか」 「いいよ。マ…僕は下の階にいるから。今夜も会合があって」  膝と腿を震わせオーナーは立ち上がった。今にも転びそうなその身体を菊ノ一文字が支える。生まれたての子鹿のようになりながらキサラギは出て行った。ナカソネは街明かりが消えていきネオンばかりが残された外を眺めている。 「明日は休むといいよ。ちゃんと悼むことだ」  菊ノ一文字は美しく緞子ローブを翻し、オーナーに続いた。  夜が更け、空腹を沈めるために厨房に出た。昼夜の感覚が分からなくなるほどの人気(ひとけ)がある。中では大きなワゴンに裸体のオーナーが仰向けになっていた。板前シェフが次々と多種多様な鮮魚スライスをその胸や腹の筋に盛り付けている。下半身にもすでに血の集まっている性器へ輪投げのようにチョコレートだの砂糖だのでコーティングされた年輪ケーキが重ねられている。会合に出されるのだろう。そして意見がまとまるなり、時間が来るなりしてこのオーナーの肉体までもが提供されるのだ。若見習も手伝っていた。ティッシュでオーナーの乳頭から流れてしまう白汁を拭き取っている。目を合わせないまま処分待ちのものをもらっていく。 「お霧」  湯を入れて待つだけの(カップ)麺を持ち厨房を出るためオーナーのベッドと化しているワゴンの横を通ったとき、呼び止められた。 「会合、お霧も顔、出す?」  何故そのような提案をしたのかナカソネには分からなかった。今まで訊かれたこともなく、その必要性も特に感じたことはない。一度でも世間とその改革に興味を示したことはなかった。市井の流行にすらもない。オーナーのほうでも彼女の呆気にとられたのが分かったようだった。 「そうしたいのかと思ったから……違うならいいんだ」  保護者の顔をしていた。欲情を露わにする他人の顔ではなく。落ち込んだ様子に、彼の意図を理解した。何か文句はないのかということだった。要人たちに対して。不思議と憎悪や怒りはなかった。それがナカソネの中のあの男への感情をさらに曖昧にする。尊い国の未来のための犠牲。耳障りよく役人たちは言っていた。それでいてあの男は泥に塗れ、回収されたのは日が明けてからで、役人の誰かが弔いに来たでもない。ナカソネが葬儀代を出さなければ泥に塗れて焼かれるだけだった。 「時代はどうなるんですか」  生活に困るところはない。飯は棄てるほどあり、蛇口を捻れば澄んだ水が出る。貧富の差は確かにあったが国の制度は整っている。キサラギは外方(そっぽ)を向いた。白い輪郭に骨が浮かぶ。 「分からないよ、誰にも。(かばね)が尊ばれるのかどうかもね」

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