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雨上がりのパチョリ 2

◇  菊理(くくり)の待っていた客がやってくる。常に眉間に寄った皺は威嚇よりも困惑の印象を醸し、口角の下がった唇は卑屈な性格を滲ませている40手前といった頃合いの体格の良い男で菊理の太客だった。20年ほど前に雅族政府が定めた優種繁栄保護法の被験者で、二の腕と腿に識別コードが刻まれていた。この優種繁栄保護法は優種と判断された男女を国が管理する法律で、種馬や肌馬のように扱った挙句に去勢手術や避妊手術を行った。。18年前に大震災が起こり研究所が壊滅的な被害に遭ったためにその法律ごと見直され、同時に天晴高皇に支持が偏りもした。天晴高皇は家畜同然に孕ませ孕まされる道具と化していた彼等彼女等を優遇し、公共機関や一部娯楽施設を無償化したり割引になるよう雅族政府に働きかけた。この歌舞人(かぶと)儚世(あわせ)でも協力的な姿勢を見せているために助成金が出ている。  客は明希仁(あきひと)アザイといった。左手の薬指にはリングが嵌められている。菊理が贈ったものだ。花号を黒鳶(くろとび)という。彼は霧ノ二文字の控える間とを隔てた壁側に頬と両手をついてするのが好きだった。彼女の姻兄(あに)になる客の声を聞かせるのも悪くなかった。左手の指輪に己の左手を重ねて彼に身を沈めるのが菊理は好きだった。腰を進め、内部を貪る。壁に埋め込まれた円形の水槽の中で金魚が泳いでいる。不自然な色彩の光に照らされ、白い部分を持つ個体は妖しい反射をしていた。どの金魚も菊理や客に知らぬ顔をして泳いでいる。 「今日は霧江はいないんだ」  きっちりと撫で付けられた髪によって露わになっている耳元で囁いた。婚約していながら言葉は少なかった。店だけでなく、個人的な場面でもそうだった。数少ない会話はほとんど隣の部屋の君のことで、この客は盗み聞きすることに興奮する性癖(たち)らしかった。霧ノ二文字に抱かれ喘ぐ客の声を聞いては腰を振っていた。去勢手術を受けているため睾丸はなかった。菊理は失くなったそこを触るのが好きだった。 「結婚しよ…ねぇ、早く結婚しよう」  勢いよく下半身を打ち付け、菊理は自身を昂める言葉を繰り返した。彼にとってこの客との結婚には官能的な響きが密接に結び付いていた。アザイの左手が抵抗を見せるのも菊理はおかしくて仕方がなかった。嫌がられるだけ煽られる。この婚約は自害を(ほのめ)かして手に入れた。住所も知れている。習慣も把握している。その手の筋に偵察させ、事細かに情報を得ている。何時に寝て何時に起き、何を食べ誰に会ったか。調べ尽くし、毎日欠かすことなく手紙を送った。最初は婚約も拒絶されたが彼は菊理を指名し続けては隣の部屋から漏れる音に耳を澄ませ淫事に耽った。親子ほども違う陰茎の生えた娘に遠慮している。そのような印象を受けた。蚊帳の外にされながらも肉体をしっかり感じさせているその事実に菊理は激しく奮興した。強靭な欲望で責め立てる。この婚約者の前でだけは呻くようにして喘いだ。 「結婚しよう、結婚……いつがいい?出来るだけ早くしたい」  抽送に比例して早口になる。甘えた声を出して射精に向けた動きに変わった。好みの反応を示す箇所がこの客の悦いところだった。肉体の相性は(すこぶ)る良い。 「あっあっあっ!」 「結婚して明希仁、ぼくのスケベジュースも、明希仁と結婚したがってる!明希仁、明希仁、結婚しよ…っ!毎日セックスしようね」  客を腰で壁に押し潰し、遮膜に射精する。明希仁は、か細く鳴くと背を反らして震えた。菊理はすぐに離れず、腕の中の婚約者が弛緩するまで密着を解かなかった。 「結婚したら生でしたい。毎晩、ここにぼくのスムージー注いであげるからね。早く結婚したいなぁ。義妹(いもうと)にも姻兄(かぞく)が増えるよ…」  壁伝いに婚約者は菊理の腕の中で崩れ落ちた。30代後半から40代前半といったところだが、容貌や肉付きや肌からしても衰えはみえず世間的にもこの年代はまだそこまで老いていないはずだった。しかし彼は一度達すれば満足してしまうらしく、菊理の腕を抜け横になろうとする。他の客を数人抱いているにも関わらず菊理はまだ物足りない。 「来週くらいには市役所に婚姻届を出しに行こう。霧江もきっと喜ぶよ、この前不幸があったばかりだから」  すでに整えられた毛並みに沿って菊理は婚約者の髪を梳いた。ギョロリとして不気味ながらも卑屈な感じのする大きめな目が菊ノ一文字を見上げる。その謙遜を通り越し加虐心を煽る卑下に卑下を重ね臆病風に吹かれたような面構えに惹かれた。手酷く抱いても媚び(へつら)い許しを乞いそうな様に。実際には、菊理は偵察と交際を迫り自害を仄めかす以外無理強いはしなかった。むしろ自身を思慕と情欲の虜囚とさえ思っていた。そして主人はこの客の他にない。 「霧ノ二文字の方様に何か…あったんですか」  菊理はその目に自分が映ったことにほくそ笑んだ。しかし半分、義妹にだけ興味を示すのが面白くない。やはり親子ほども歳の離れた陽物持ちの女に遠慮している。贅沢な妥協をしている。 「何もないよ」 「本当のことを、教えてください」 「本当に何もないよ。気になるのならぼくから霧江に予約を入れておいてあげようか」  身震いするように明希仁は首を振った。 「冗談。恋人なんだから。もし貴方が自らそうしても、内々から手を回して取り消させるよ。義妹とはそういう義胞(きょうだい)じゃないからね」  義妹に対して目を逸らしたくなるような感情が芽吹く前に菊理は微笑を浮かべた。明希仁はまだぶるぶると震えている。喧嘩に負けた猫のように顔を背け怯えている。 「そろそろ帰ります……」 「もう?まだ時間あるのに」  厚めな二重瞼の下でぎょろりとした気味の悪さを持つ目玉が泳いだ。部屋の隅にある多面体の水槽にその視線は理由を付けて留まった。壁の中を泳ぐ金魚よりも小さな個体が何十匹も泳いでいる。鮮やかな紫色の光が菊理の婚約者の顔に張り付いている。 「近いうちに一緒に暮らそう。いつでも引っ越してきていいからね。別に、今日でも」 「折をみて……」 「楽しみにしてる。着の身着のままでいいんだからさ。家具も用意してあるし」  常に困惑を漂わせる眉がさらに惑った。 「この前みたいに逃げようなんて思わないでね。ぼくは貴方が他の人たちに乱暴されないか心配なんだよ。貴方のためなんだ。許しておくれ」  前に明希仁は菊理の雇った査察を撒こうとした。しかし他にも9人雇っているため明希仁のこの抵抗はすぐ菊理の耳に入ることになった。明希仁本人に知られているのはこのうちの2人だけで、この2人についてはもう隠すこともなく後を尾けさせ、見送り役に任じている。 「こんなおじさん、誰も相手にしません…」 「貴方は自分の魅力に気付かないだけだ」  査察が10人もいるのは単に明希仁の監視の目を増やすだけでなく相互監視のためでもある。査察がこの中年男を襲わない確証はないのだ。菊理はこの婚約者の自虐が大好きだった。ぎょろりとした目が(へりくだ)る。引っ叩きたくなる衝動を抑える瞬間が堪らなく気持ちいい。圧倒的な征服欲と自制心の(せめ)ぎ合いが味わえる。 「また来た時までに婚姻届を書いておくから血判押してね。指は切らなくていいから」  頑なに目を合わせようとしない明希仁を見つめ菊理は妖しく笑った。そういう劣勢のオス猫に似た態度も心地良い。そして婚約者は身を縮めるようにして出て行った。それでも菊理を指名するのだ。その身の上を盾に。  廊下に出ると居るはずの見習がいなかった。経験と勘からしてオーナーに呼ばれたのだろう。オーナー・キサラギは年端(としは)もいかない少年に授乳することに耽溺している。霧江ナカソネにもその矛先が向いたが菊理は一度も呼ばれたことはない。ただ裏メニューとして提供しているホワイトドリンクのためにショットグラス1杯分の乳搾りを手伝わされたことがある。特異な体質というだけで健康に問題はないと聞いている。後ろ手に襖を閉めると、見習が走ってきた。桜色の唇に白い液体が滲んでいる。事情を話そうとする少年へ微笑み、穏やかに制した。そして掃除を入れるよう頼み、次の予約客が来るまでの間控室に籠もっていた。義妹は来ていない。金色の印刷がされた婚姻届に品の良い字で必要事項を記し、ナイフで二の腕を切り付けると血判を押す。陰湿な笑みを浮かべる自身と鏡台で顔を合わせる。菊理アザイになる日を待ち焦がれる。あの男を征服しておきながら、あの男に作らせた鳥籠に無理矢理居座るのが愉快だった。控室のドアが開き、欠勤のはずの霧江ナカソネが入ってくる。彼女の片手には羅列ノ見習が鷲掴まれ、紫色に変色した陰部を腫らしていた。霧江ナカソネは小さく適当な挨拶をして鏡台の抽斗(ひきだし)から眉毛切りの小さな鋏を取り出し、泣き出さんばかりの少年の陰部に刃を当てた。女子の服装をしている見習は息を呑んだ。ばつん、と音がして伸縮性のある小さな紐が飛んだ。 「痛いれす、痛いれす……!」  羅列ノ見習は目元を赤くしてとうとう泣き出してしまった。 「どうしたのさ」 「客にきつく締め上げられたようで。これから診療センターに連れて行きます」  霧江ナカソネは表情のひとつも歪めず、少年の可憐さにそぐわない凶暴げな肉茎を触った。 「痛いれす……!痛いれすぅ!」  まともに歩けないようで内股になりながら腹痛を堪えるように少年のその足元は覚束ない。青みの強いプリーツスカートを捲り上げ、腰回りで留めてある。陰部を丸出しにしながら彼は情けなく泣き出した。 「ぼくが連れて行くよ。まだ大分時間あるし」 「しかし…」 「診療センター、ぼくも用あるし」  霧江ナカソネは合意するように痛みに嗚咽する少年から手を離した。 「ここがダメになったらオーナーの搾乳機になっちゃうね、君」  緞子ローブを脱ぎ私服に着替えて菊理は少年の手を引いた。陰部を丸出しにしたまま関係者通路を通る。  店の車で都心にある診療センターまで高速を使って30分ほどだった。この車は菊理の客からの贈物で、主に従業員の送迎に使われていた。菊理の用は人工受精卵の申請だった。明希仁の複写精子と菊理自身の改竄遺伝子から子を作る。多少だが菊理の改竄遺伝子を上書きするための見ず知らずの女の遺伝子が混じるが些事だった。下書きに過ぎず、ほとんど明希仁と菊理の子となる。キサラギの子もそう作られ、そして幼くして殺された。婚姻届を提出する時に話す。希望する子の性別で手が止まる。数秒考え、女に丸をつける。フェイスリフトを希望しない。成長シミュレーター講習を希望しない。血液編集を希望をしない。受渡しは生後―。丸を付け、数字を書いていく。明希仁との間に娘を持つ。菊理の口元に笑みが浮かむ。婚約者はこれで逃げられなくなる。中央管理科学技術センターの審査が通れば娘が作られる。菊理には資産があり、雅族政府への献金、天晴高皇への奉加(ほうが)、中央管理科学技術センターへの出資という社交界からの信用、貧民窟の支援と18年前の大震災の義援金の寄付をした篤志家というステータスがあった。明希仁アザイが婚約に踏み切ったのは1日中張り付く査察や1日2通届く手紙だけではない。彼の住まうアパート、彼の勤める証券会社、彼の関わる人間すべてに根回ししてあるからだ。受付の樹脂板に反射する愉快げな自身に笑みを浮かべる。鏡像の上にさえ立とうとした。美雨也オオトモの診察が終わり、しゃくり上げている職場の後輩を拾う。 「もしダメだったら、オーナーの搾乳機になる前にぼくの家の家政夫になったらいいや。ぼくの娘のお婿さんになってよ……お嫁さんかも知れないけれど」  不安げな少年は再び声を上げて泣き出した。菊理は笑みを消すことなく市街地の若い女みたいな服装の見習の頭を撫でた。 「さぁ、帰ろう。こんなことしたお客様だから出禁かもね。よかったね。雑事屋さんに頼んでお客様の旦那さんの同じところ切って貼り付けてもらえばいいね」  車に乗り、隣の少年の肉の薄い腿を抓った。彼は幼児のように泣き続ける。運転手が後部座席を気にした。菊理は笑みを作った。 「勝手に抜けてきたからどっちみち君は搾乳機だよ。もしダメだったら農家の人の子になりなよ。腕の良い搾乳機になって喜ばれるよ」  スカートの裾から覗く腿を抓る力を強めた。 「痛いれす…」 「ああ、ごめんね。撫でてあげる」  菊理は故意に少年の患部を殴った。悲鳴が車内に響く。運転手が振り返りかける。哄笑を抑える。少年は哀れなほど痛々しく悶え、蹲って呻き続ける。運転手は片手で帽子を直し気遣わしげな声を掛けた。 「大丈夫ですよ。我慢の利かない子なだけですから」  途中で噴き出したりしないよう顔面を作った。 「もしダメなら、女の子になっちゃいなよ。霰のお人形になっちゃえば。ぼくから言っておくよ。搾乳機能付きのお人形にさ。オーナーにも霰にも可愛がってもらえるなら、嬉しいよね?」  息を荒くしている隣の可憐な少年を向いた。笑わないよう装い、声が震えないよう努めた。少年は前のめりになり話の相手も出来そうになかった。華奢な肩を掴む。 「嬉しいよね?」 「嬉しいれす……」  爽やかに微笑み返答に満足すると少年を構うのをやめた。息切れが小さくなっていく。店の地下駐車場に車が停まり、少年は運転手兼郭スタッフとともに行こうとしたが菊理はそれを許さなかった。郭スタッフのほうでも美雨也オオトモを気にしたが菊理は自分が連れて行くと言った。控室に入る前に尻を引っ叩く。 「次お客様を出禁になんてさせたら覚悟しておいてよ。お店の稼ぎが減って、評判も悪くなっちゃうよ。君のせいでぼくも霰もオーナーもあのスタッフさんも路頭に迷っちゃうよね?君、責任取れるの?商売道具がダメになっちゃうかも知れないならこっちで稼げるお店行きな」  貧相な尻を五指で抓った。美雨也オオトモは怯えて震える。放してやれば控室のドアを開け、菊理に入るよう恭しく促した。私服のままの霧江ナカソネが座っている。彼女は自分の直属の後輩を見遣った。上下関係を忘れたよう姉弟のように羅列の地位で少年は霧江ナカソネにしがみ付く。彼女はこの異変に敏かった。感情の乏しい目が義兄を射す。 「大したことなかったよ」  少年は霧江ナカソネにしがみ付いたまま蛹になってしまう。その小さな頭上で義妹は菊理を射抜くように捉えていた。 「まだ痛みがあるみたいだから、今日はこのまま休んだほうがいいかも知れないね」 「オーナーのところにお行き。事情は自分のお口で話せる?」  菊理は鏡台の前に座り化粧直しを始めた。鏡の奥でもまだ義妹は眼差しをくれている。この終わらせ方を彼は知っていた。微笑んでやればその態度を拒むように霧江ナカソネは顔を背ける。雨ノ羅列は彼女にしがみ付き、菊理に背を向けたまま固まってしまった。 「まだ痛いみたいだから、ぼくが報告してくるよ」 「手前の口で報告なさい」  義妹は少年を剥がし、白い額を掌で弾いた。彼は目元を乱暴に拭い、霧江ナカソネから離れる。怯えた円い目に見上げられる。潤んだ瞳に微笑みかけて、細い腕を掴んだ。捌かれたばかりの活魚のように柔肌が波打つ。 「でも歩くのがつらそうだから、ぼくが付き添ってあげる。オーナーにも用があるからついでにさ」 「よろしくお願いします」  オーナー・キサラギの私室へ女子の身形をしている少年を引き摺った。窄まった袖から伸びる肌理(きめ)細かな瑞々しい皮膚に菊理のしなやかな指が容赦なく喰い込み赤く染める。 「いいミルク同胞(きょうだい)を持っているんだね、羨ましいな。霧ノ二文字と、ミルク同胞だなんて羨ましいよ。ぼくもオーナーのミルク飲ませてもらって、君のミルク義兄になろうかな?」  オーナーに入室の許可を取ると菊理は美雨也オオトモを突き飛ばす。キサラギは暗い部屋の中でソファーに横たわり身動いでいた。巨大なモニターに映る一面の青の光が差し込んでいる。 「ちょうどいいところに来てくれた。お乳が張っちゃって。話は聞いてるよ。今日はおちんちん搾りしないから、吸って」  オーナーの白い顔とシャツが暗い中に浮かんでいる。怠そうに起き上がり少年へ手招きする。シャツの前を(はだ)けさせ、薄いブルーの乳留めを捲った。菊理は応じようとしない美雨也オオトモの背を押した。少年は躊躇いながらソファーまで歩く。 「スタッフくんからねぇ、2人がちょっとぎくしゃくしてるって聞いたよ。でも気のせいだね?」  オーナーの大人の引き締まった腕が少年を獲物のように捕まえた。糸を巻いた餌を食う蜘蛛に似ている。 「私がですか?もしかして知らず知らずのうちに酷いことを言ってしまったのかも知れませんね。雨ノ羅列、ぼくは君を傷付けてしまったかな。悪気はなかったし、君を好いていることに変わりはないんだ。すまなく思う。許しておくれ」  相手は返事のできる状態ではなかった。すでにオーナーの乳頭と乳汁によって口を塞がれている。 「あぁ……ぁっ可愛い僕の赤ちゃん………可愛い……可愛い……ぁぁ…」  オーナーは空いた胸も自分で搾った。菊理は授乳と乳搾りの同時進行をその場で眺めた。 「子を持とうと思います」 「じゃあ……ぁん………僕が、乳爸(うば)になってあげ、ァっ、乳首そんなぺろぺろしちゃダメ……!」  ブルースクリーンのみで照らされた部屋の中で白く浮かぶ身体がひくりと跳ねた。 「お乳の飲み方まで、お霧を見習ってどうするの……?」  オーナーは猫撫で声で特に気に入りの雨ノ羅列をあやし、菊理は適当なところで退室した。スタッフルームに寄り運転を務めた従業員を探し出す。その者は普段訪ねてくることのない菊理の姿を目にすると縮み上がった。菊理は微笑みかけ、温和な口調と態度で詰め寄った。この者が後退るだけ(にじ)り寄り、壁に閉じ込める。 「オーナーから窺いましたよ。雨ノ羅列とのことを案じてくださっていただなんて。ご心配をおかけしました。心苦しい思いをさせてしまいましたね。もう誤解は解けましたよ。御助力ありがとうございました」  ぶら下がっている手を取って、菊理は自分の胸に他者の掌を当てた。営業時にしか見せない妖艶な笑みを惜しげもなく晒す。これで堕ちない客はいなかった。拒絶ばかりの婚約者ですら遺された棒を膨張させ、丹穴を引き絞ったものだった。 「お礼と言っては粗末ですが、雨ノ羅列との仲を取り持ちましょう。身内恋愛は原則禁止ですが、建前ですから……個人対応ということで、ね?」  鼻先が触れ合いそうなほど接近した。室内は適温状態にも関わらずこのスタッフは凍えていた。2人は他の関係者たちの視線を集めていることにも気付かない。 「あの可憐で清純な見た目に似つかわしい極太凶暴な魔羅で、是非、彼も貴方に礼をしたいと申しておりますから」  菊理は嘲笑を堪え、噴き出す前に顔を離した。自然を装い別れを告げる。スタッフルームを出てから満足するほど笑った。そろそろ次の予約の時間だった。鏡の前で営業用の穏笑の練習をせねばならない。控室に戻り霧江ナカソネと並ぶ。欠勤だと聞いていたが一枠だけどうしても出なければならないらしかった。部下連れの客だ。上役のほうは革命家と(うそぶ)いていたが、実際のところは天晴高皇を擁護する派閥の駒の一団に過ぎない。倫理派だとか思想派だとか評されている天晴高皇は遺伝子改竄児や優種繁栄保護法、特殊接待業助成法、査察民営化、移植用クローン製造法および移植用クローン処分法に反対の意を示していた。菊理に善し悪しはない。都合の良いものを選択するだけで、そこに天晴高皇派か雅族政府派か、倫理的か非道かのこだわりはない。 「お世話になりました。羅列ノ見習のこと」 「いいよ、気にしないで。困ったときはお互い様、効率良く助け合えたらなお素敵ってことで」  義妹は無言のまま頷き、髪に櫛を通していた。これから戯夫(ぎゆう)スタイリストが来る。菊理もヘアスタイルの直しが入る。待っている間様々な笑顔を作った。 「子を持とうと思うんだ。霰、名前決めてよ。女の子だよ」 「帆海(ほのか)」  彼女は驚いた様子もなく突然の提案にも動じなかった。魚の透かし彫りが入った檀木の櫛が鏡台に置かれた。意匠は凝っているがあまり高そうではない。私物だろう。稼ぎは良いはずだったが義妹は贅沢な暮らしを好まなかった。被災者本人ということもあり18年前の震災の支援や義援金に充てていた。貧しい暮らしぶりでもなく、中流階級の中でも少し余裕があるくらいで、見窄らしくはないがかといって豪勢というわけでもなかった。 「帆海(ほのか)…いいね。ぼくは気に入った。相手方に聞いてみて、いい反応だったらその名をいただくよ」  霧江ナカソネはまたこくりと頷いた。

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