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8.情けと孤独
そういえば国元への返書がまだだったと、康頼は文机に向かった。義朝と入れ替わりに世話役の男が現れ、膳を下げる。礼を告げて筆を握った康頼は、義朝とはうまくやっていけそうなこと、為明にはいまのところ気に入っていただけているようだと綴り、そちらに贈り物をしていただけるらしいと記した。両親や兄弟、国元の安否を気遣う言葉と、こちらは問題ないので安心するようにと記して、筆を置く。渇くまで書見でもしておこうかと考えて、どんなものを読めばいいかと悩んだが、ピンとくるものはない。
(義朝殿のように、なにげなく交易のことなども口の端にのぼせられるようになるには、なにを読めばよいものか)
異国について記してある書物がいいと思いついても、それがどんなものなのかさっぱり見当もつかない。わからないものは聞くしかないと、康頼は人を呼んで問うた。すると世話役の男は首をひねりながらも、お待ちくださいと言い残して去っていき、しばらくして数冊の書物を手に持ってきた。
「異国の書物といわれても、このくらいしか思い浮かびませなんだ」
「いや、助かる。ありがとう」
礼を言って受け取った康頼は、書物をひらいて「うっ」とうめいた。一冊目は蘭語覚書とあり、オランダ語の手習い書。二冊目は西洋の医学書。三冊目は西洋の植物を紹介したもので、みみずののたくったような横に流れる文字が記されている。洋学などしたことのない康頼には、チンプンカンプンだった。
(これを、義朝殿は読まれたのか)
尊敬の念が湧き上がる。しかしそれだけではいけないと、康頼は蘭語覚書をながめた。これを機に、洋学をはじめてみるかと気合を入れる。
「aはア、bはベ、cはセ……」
つまりこれは、イロハのごときものだと理解して、康頼は文机ににじり寄ると手紙を床に置き、あたらしい紙を出して筆記をはじめた。
夕食時までそれを続けた康頼は、見慣れぬ文字に目をチカチカさせながら息を抜き、本を閉じた。湯を使い、さっぱりして部屋に戻ると、人の気配がする。義朝が来ているのかと障子を開けると、為明が座して書物を開いていた。
「為明殿」
あわてて傍に膝をつくと、ゆったりとした笑みに包まれた。おおらかな気配に康頼の緊張がほどける。
「蘭語に興味があるのか」
為明の手の中にあるのは、蘭語覚書だった。
「異国船の話をなされておられましたゆえ、興味を持ちましてござる」
なるほどと首を動かした為明は、それを置いて体ごと康頼に向いた。
「こんなものを勉強しなくとも、訳したものがあるからそれを読めばはやい。明日、それを渡すよう伝えておこう」
勉強の出鼻をくじかれ、康頼は不満に思った。
(義朝殿も、そうであったのか)
「どうした」
「いえ、なにも」
「なにも、という顔ではないな。遠慮せず、言ってみろ」
「……義朝殿は、南蛮語を解されまするのか」
「義朝? なぜ、そこで義朝の名が出てくる」
「もし、義朝殿が理解なされておられるのなら、それがしも覚えたく」
「べつに、義朝ができようができまいが、どうでもいいだろう」
「どうでもよくはござらぬ」
「なぜだ」
「なぜと言われて」
対抗意識があるからだと答えれば、笑われるかもしれない。幼きことよとあきれられ、愛想をつかされたら困る。
口をつぐんだ康頼の顔を、為明がのぞいた。
「覚えて、なにかしたいことがあるのか」
「したい、こと?」
「目的がなければ、いくら学んでも笊に水を受けるのとおなじ。こぼれ落ちてなにも残らないぞ」
(それがしの目的は)
「お役に、たちとうございます」
「うん?」
「為明殿の役にたてるのではと」
「俺の?」
「はい。異国船が入るのであれば、言葉を操れれば便利かと」
「それは、そのような役割のものがいるから問題はない」
(色夫として、出すぎたまねをしただろうか)
即座に一蹴された康頼の落とした肩に、為明の手がかかる。
「それほど俺のためを思ってくれるのは、ありがたい。だが、おまえはおまえのしたいことを優先に、まずはここになじむことを念頭にしてくれ」
「そのために、洋学をいたそうと思うたのでござる」
「そんなことをしなくても、おまえの居場所はちゃんとある。不安になる必要はない。康頼」
そっと腰を引き寄せられて、膝に乗せられる。顎に指をかけられて上向かされると、口を吸われた。
「んっ、ん」
軽く触れあう程度の接吻が繰り返される。目を閉じてやさしい口吸いを受けていると、腰の奥がうずいた。
「体は問題ないか?」
はいと消え入るように答えた康頼の胸が、期待にとどろく。
「そうか」
閨に連れていかれるものと思った康頼は、彼の膝から降ろされてポカンとした。
「では、今宵はゆったりと休むといい。昨日の今日で、体にさわりがあっては困るからな」
「いえ、あの」
「色夫としての務めだなどと、気にする必要はないぞ、康頼。疲れているときは遠慮せずに、疲れていると言えばいい。無理強いをする気はないからな。それに昨夜は、励みすぎた。閨を共にするのは、後日にしよう」
ではなと名残もなく去っていく為明に頭を下げて、障子の閉められた音の後に顔を上げる。
(務めを気にする必要はないとは、いかなることか)
そのために輿入れをしたのに、しなくてもいいと言われるとは。胸元を握りしめた康頼は、空虚を覚えた。
(それがしは、抱かれたかったのか)
カアッと体が熱くなる。本能に肯定されて、康頼は気恥ずかしくなった。
(いいや。これはよき兆候だ。体が色夫としての務めに目覚めたと言ってよい)
それなのに為明は手を出さずに去った。それはなにを意味するのか。
(それがしが未熟ゆえだ)
人質、あるいは贄と呼んでもさしつかえない色夫が気遣われるなどおかしいと、康頼は己のふがいなさに奥歯を噛んだ。
色夫となるために、歌や踊り、笛なども習ったが披露する機会はいまのところない。求められていない上に、そのような雰囲気をつくることもできていない。すべては自分の未熟さゆえだと、康頼は蘭語覚書に目を向ける。
(これを勉学しても、なんともならぬのか)
自分にしかできない、為明のためになり、彼を惹きつけられるなにかが欲しい。
(義朝殿ほどの美貌をもってしても、色夫ではなくなる日が来るのであれば、それがしはより努力をせねばならぬ)
はじめのうちは物珍しさからかわいがられるだろうが、それが終わったときに為明を魅了できるなにかを得ていなければお払い箱になる。
(そうなった場合、それがしに行き場はない)
自分のためにも、なにかを身につけたい。しかし蘭語覚書は否定された。たしかに為明のいうとおりだ。
(覚えてから、それでどうしようという展望がそれがしにはない。それではいくら励んでも、身につかぬ)
かといって、ほかになにか思いつくかといえば、なにもなかった。
(まずは色夫としての務めを、きちんと果たせるようにならなければ)
たった二度しか情けを受けていない。
(それがしは、そのために育てられたというに)
愛らしい顔立ちだと言われ、三男であることから武芸などを身につけるより、外交のための色夫として育てたほうがよいと重臣たちが主張した。それを受けて康頼の父は弓の代わりに笛を持たせ、刀の代わりに扇を握らせた。基本的な勉学はほかの兄弟と変わらぬものを教えられたが、馬術以外の武芸は護身術のみで、無駄な脂肪や筋肉をつけないよう管理され、肌に傷がつかないようにと配慮された。
色夫は女とは違う。そのため言葉遣いは男のまま、所作はきびしくしつけられた。男であることに価値があり、しかし同性の劣情をあおらなければならない。康頼の父は無垢を基準として、基本的な性の営みは教えたが、相手の色に染まるようにと詳しくは伝えなかった。
(それが、よくないのではないか)
自分が未熟すぎるから、為明は無用の気遣いをしているのだと、康頼は思い極めた。
(ならば、色夫として必要な知識を身につけねばなるまい)
父の思う色夫と、為明の求める色夫とは違っていたのだと、康頼は努力の方向を定めた。
(となれば、いま必要なのは蘭語覚書ではなく、色事の指南書だ)
そのようなものが書庫にあるのだろうか。あったとして、それを読みたいと言うのは気後れする。しかし自分で探すには、書庫は広い。あてもなく探しても時間の無駄だ。
(どうしたものか)
悩んだ康頼の脳裏に、艶麗な義朝の微笑がひらめいた。
(義朝殿に相談すれば)
きっと望みの書物を教えてくれる。彼には乱れた姿を見られているのだから、世話役に問うよりも気は楽だ。
(それに、書物を読んでもわからぬことを問うこともできる)
さりげなく体を開かれ、為明を受け入れる手助けをされた。あれがあったからこそ、為明は康頼が気を失うまで励んだのではないか。
(きっとそうだ)
義朝と比べて魅力の薄い自分に、あれほど夢中になられたのは、義朝が為明の好みを熟知し、それを引き出すべく行動をした結果のはず。
(伽の妙技を身に着けて、まずは色夫としての務めを果たし、その間に付加価値を高めていけばよい)
おそらく義朝も年月をかけて、いまの地位を得たはずだ。
(それがしよりも、おさないころに輿入れをなされたのだから、睦事についての知識はなかったはず)
ひとかたならぬ努力と苦労をしたのだろうなと想像する。
(それに義朝殿ならば、為明殿の好みを熟知なされておられるはずだ)
相手の好みがわかっていれば、覚える技術の方向性も自然と定まる。そうなれば、やみくもに勉強をするよりも、必要な色事の手練手管をはやく身に着けることができる。
(義朝殿なら、親切に教えてくれる)
色夫としての役割は終えていると言っているのだから、康頼が技術を欲しても不快には思われない。それどころか昨夜はそれを勧めまでしたのだから、協力をしてくれる。――はずだ。
展望が開けたと、康頼は顔を明るくした。
(まずは明日、義朝殿を訪ねて、教えを乞おう)
それに長年、為明の傍にいた義朝なら、彼のことを色々と詳しく教えてもらえる。
(もっと、為明殿のことを知らねばならぬ)
知りたいと、康頼はほがらかな為明の笑顔をまぶたに浮かべて胸を焦がした。
(奮えておる)
そっと胸に手を当てて、康頼は唇をゆがめた。
(そうだ。相手を屈服させるという意味では、武芸と変わらぬではないか)
そのために相手を知り、技を磨くのだと康頼は決意を胸に奥の間へ入る。
(それがしの戦場はここ、閨だ)
為明を誘惑し、陥落する手練手管を身に着けて、己に夢中にさせる。あの笑みを己のものだけにしたいと、康頼は切望した。
そうなる日を夢想して、体をふくらませる。その感情がなにから発しているのか、康頼は気づいていなかった。
(為明殿)
気遣いを含んだ、あたたかくやさしい彼のまなざしの名残を引き寄せて、康頼は身を横たえた。体が甘くうずいて、為明の体温が恋しくなる。
(これはきっと、よい兆候だ)
自分の体が、色夫にふさわしい目覚めを迎えたのだ。次に為明の訪れがあったら、引き止めて閨に誘える技量を身につけていたい。彼の腕を我がものにして、ほかの誰にも目を向けられないように魅了して――。
(義朝殿すらも、目に入らぬように)
『康頼』
かすれた熱っぽい為明の声を耳奥によみがえらせた康頼は、満ち足りた顔で睡魔を迎えた。
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